ラッキータウンヘヴン
※社会人設定。夢主はブラック企業勤めです。
酔客たちの陽気な歌声が夜更け前のホームに響く。私は反射的に顔を上げ、そしてまた力なく俯いた。
観光客なのか地元の人なのか判断できないけれど、きっと彼らは国際通りの飲み屋でしこたま酒を飲んだ帰りなのだろう。私もベンチで項垂れる暇があったら、第二の故郷である沖縄で浴びるほど酒を飲んで調子外れな歌を歌うべきだったと、そんなこと出来もしないくせに後悔する。
浮腫んだ足が詰め込まれたグレーのパンプスをぼうっと見つめていると、スピーカーから聞き飽きた接近メロディが流れ、冷えた秋風と共に那覇空港行きのモノレールが静かに滑り込んできた。
恐らく、これが終電だ。今度こそ乗らなくてはならないのに、立ち上がろうにも下半身が銅像のようにぴたりと静止して動かない。列車が来るたび何度も何度も動こうとしたけれど、この足に力が入ることは一度もなかった。つま先を地面に付けたまま、モノレールを何本見送ったか分からない。
降車する乗客をぼんやり眺めていると、難しい顔をした社会人や酔いどれの観光客の中にある、ひときわ大きな人影が目に留まる。その影の正体が電灯の下に晒された瞬間、私ははっと息を呑み、その名を数年ぶりに口にした。
「慧くん」
私のか細い声を彼は聞き逃さなかった。昔と変わらないつり目がちの目元が驚いたように見開かれ、私の視線とぶつかり合う。慧くんは改札口に向かいかけた足をベンチの方へ転換し、私に笑いかけた。
「あきさみよー! もしかしてなまえか?」
少し大人びつつも活力に溢れた懐かしい声色を聞き私も顔が綻ぶ。やっぱり中学の友人の田仁志慧だ。高校は別々だったけれど、私も慧くんも彼のご家族が経営するレストランでアルバイトをしていたので、かつてのバイト仲間でもある。
「久しぶり。まさかこんなところで出会えるなんて」
「しに久しぶりさーやー! 旅行……では無さそうだな」
「そうなの。出張でね……」
会話を続けようとしても言葉が喉の奥で詰まってしまう。視界が電気の紐を引っ張ったみたいにふっと薄暗くなったからだ。頭がぐらぐら揺れ、体に力が入らない。
「やー、随分顔色が悪いさー。大丈夫か?」
大丈夫、と笑って誤魔化そうとすると、いつの間にか後ろ向きに屈み込んでいた慧くんの広い背中が私の目の前にあった。慧くんは戸惑う私の腕を掴み、そのまま軽々と背中に乗せて立ち上がる。彼の背中は頬を枕に埋めているような感触で、冷ややかな夜風を吹き飛ばせるほどに温かい。思いがけない行動に驚きつつ、どこか安堵感を覚えたのも事実だった。
「え、慧くん。ちょっと」
うろたえ続ける私を背負った慧くんは、構うことなく人がまばらになった改札口へと歩みを進める。手をどこに置けばいいのか分からず、私は迷った末にがっしりとした肩に手をおずおずと乗せた。
「宿は?」
「取ってない……。日帰りの予定だったから」
「わかった。とりあえず、わんの店に連れていくさー」
「ごめん、迷惑かけちゃって」
心苦しさのあまり謝ると、慧くんは私の不安を蹴散らす勢いで笑った。
「そこは謝るところじゃないさあ! それに、弱った
友人を放っておけるほど薄情じゃない」
「……ありがとう」
沖縄を離れて久しい私を今でも友人だと思っていてくれていたことが嬉しくて、冷えた胸がじんわりと溶け出すように熱くなる。私の進学と家族の都合で故郷の東京へ引っ越しをして以来、慧くんとは一度も会えていなかった。今回の出張が決まっても連絡すらできなかった。日帰りを予定していたからという理由もあるけれど、第一に、疲れ切った惨めな姿を彼に見られたくなかったのだ。
案内された場所は、国際通りの中にあるレストランのカウンターだった。外装と内装はよく似ているけれど、私たちがアルバイトしていた店とは違う。聞くところによると、ここは一昨年に開店した二号店で、お兄さんたちではなく慧くんが店長を勤めているのだそうだ。
カウンターの上に取り付けられたペンダントライトが定休日の店内を薄く照らす。昼間や夜はきっと、食器の音やお客さんたちの談笑する声が店内にやさしく満ちているのだろう。
「慧くんはどうしてあの場にいたの」
2つのグラスに黄金色のさんぴん茶を注ぐ慧くんに声をかける。照明の大部分を落とした店内の落ち着いた雰囲気がそう錯覚させるのだろうか。手際よく準備をする彼の姿は、お酒だけではなく料理も美味しいバーのマスターみたいだ。
「それを聞きたいのはわんの方……まあいいか。今日は中学のテニス部の仲間たちと飲み会だったわけ」
「ああー! そうだったんだ。みんな元気かなあ」
と言いつつ、当時の男子テニス部の部員たちは何となく近寄りがたく、慧くん以外のメンバーとはまともに会話をしたことがない。でも、元テニス部のメンバーたちは、慧くんにとって苦渋も喜びも共にしてきた大事な友人たちだ。今でも飲み会を開くくらい仲が良いのなら、私も嬉しい。
「ひとまず、くりを飲むといいさあ。あと、こっちはおまけ」
そう言って慧くんはカウンターの上にさんぴん茶と小鉢に入ったジーマーミ豆腐を置いた。その組み合わせを見て私は思わず歓声を上げてしまう。
「ジーマーミ豆腐だ! 懐かしいな。いただきます」
グラスを傾けると、さんぴん茶の華やかな香りが鈍麻していたはずの嗅覚をくすぐった。乾いた喉を潤してから、弾力のある豆腐をスプーンですくって口に運ぶ。なめらかな舌触りと落花生の香ばしい風味に、甘じょっぱいタレが絡んで舌の上が楽しい。食べ物をこんなにじっくりと味わったのはいつぶりだろうか。
「……美味しい」
「やっと笑ったやー。顔色も随分良くなったやっし」
歯を見せながら嬉しそうに笑う慧くんを見て、私も再び微笑む。言われてみれば、さっきまで脱力していたはずの四肢に感覚が戻っている。
「バイトの休憩時間中にさ、慧くんのお父さんがジーマーミ豆腐を食べさせてくれたよね。あの頃と変わらない味がする。そうだ、お父さんは元気にしてる?」
「元気が有り余るくらいもりもり働いてるさあ! この間なんか――」
カウンターから出てきた慧くんが私の隣の席に腰掛ける。私たちはさんぴん茶を飲みながら、慧くんと彼のご家族の近況や、当時のアルバイト中に起きた印象深い珍事件、比嘉中の校舎のあちこちが謎だらけだったことなど、思い出話に花を咲かせた。声を上げて笑ったのも本当に久しぶりだった。自分と慧くんの朗らかな笑い声が、知っているようで知らない二人きりの空間にさらさらと溶けていく。
お茶の残りが半分以下になった頃、私はようやく現在を語る気力が湧き始めていた。暗い話になってしまうかもしれないけれど、と前置きすると、慧くんは頷いて続きを促す。
「私、会社辞めるんだ」
慧くんは珍しく真剣な口調で「退職届は? もう出したばー?」と尋ねた。
「ずっと前に出した。有休消化させてもらえないし、今日なんて退職日の予定だったのにどういうわけか出張に来てるし」
さんぴん茶の残りを火照った喉に流し込む。喉の奥がつんと痛むのはさんぴん茶のせいではない。
「十月だし、台風でも来て飛行機が欠航しちゃえばいいのにって願ってたけれど、東京も沖縄も、どこを見渡しても快晴だった。なんか来週も仕事が割り振られてるみたい。だからさっき、駅で退職代行サービスに連絡しちゃった、はは」
涙がこぼれ落ちないように上を向くと、天井から伸びたペンダントライトが海面に落ちた満月の光みたいにゆらゆら揺れ動いている。そういえば、せっかく沖縄に来たのに一度も海を見ていない。行きの飛行機は窓から離れた中央の席だった。
「くぬ言葉で合ってるか分からないやしが、退職おめでとう」
神妙な声音だった。私よりも圧倒的に身長が高い慧くんはきっと、私の目に湛えた涙の存在に気が付いている。
「合ってるよ」
あ、涙がこぼれる、と覚悟を決めたその時、慧くんは私の肩に腕を豪快に回し、厚い手のひらで肩をぽんぽんと優しく叩いた。こぼれ落ちた涙が頬を伝い、慧くんの手の上に落ちる。驚いて彼の方に顔を向けると、慧くんはペンダントライトに負けないくらいの明るさを放ちながら笑っていた。
「なまえはでーじよく頑張ったさー!」
「……ありがとう、本当に」
思えば、昔も辛い時や嬉しい出来事があった時は、こうやってお互いに励ましあい、二人で讃えあって過ごしていた。慧くんの温かい腕の中は、少しだけ子供の頃に戻ったようで居心地が良い。
「こんなときだけどよ、やーとまた会えて良かったさあ」
再び肩を優しく叩き、慧くんは私の身体を解放する。
「私も。今日東京に帰らなくて正解だった。……あっ」
自分の発した言葉から重大な問題を思い出し、思わず間抜けな声が出てしまった。突然立ち上がった私を慧くんが訝しげな眼差しで見ている。
「帰らなくて正解だったけど……。これからどうするのか全く考えてなかった! 宿どうしよう!」
狼狽する私の姿を目の当たりにした慧くんはぽかんと口を開けたあと、こらえきれずに吹き出し、そのままげらげらと笑い声を上げた。
「えー! やー、今更その心配してるばー? ここの寮が一部屋余ってるからに、東京に帰るときまでそこに泊まるといいさあ」
慧くんのありがたい提案に膝の力がへなへなと抜ける。駅で介抱してくれた件を含め、慧くんが居なかったら今頃どうなっていたのだろうかと思うと、本当にぞっとする。
「た、助かった……。ありがとう慧くん。この恩は絶対に返すよ」
両手を合わせて慧くんに何度も頭を下げると、彼は何か面白いものでも見たかのように笑い続けていた。今までそんな素ぶりを見せなかったけれど、もしかすると酔っ払っているのかもしれない。
「なんなら、またうちの店で働くかや?」
「本気にするよ? ……ブランクがだいぶあるけれど」
「うそさー! 半分冗談。まずはゆっくり休むことに専念しれー」
慧くんはそう言って腰を上げ、颯爽とした足取りでレストランの扉を開けに行った。彼は開け放った扉の前で手招きをしている。
何年ぶりだろうか、久々に胸が踊っている。今日はいくつもの鈍った感覚を取り戻した一日だった。深夜なのに目に映る世界が色鮮やかに見えるのは、仕事を辞めた解放感でも、第二の故郷に帰ってきた感慨からでもない。慧くんの隣でまた笑い合えることがこの上なく嬉しいのだ。
慧くんに導かれるがままレストランの外に出ると、周囲の店の照明はほとんど消えているというのに、視界が少しだけ眩しい。那覇空港についてからずっと俯いていたせいで気が付かなかったけれど、今夜は満月がきれいだ。それから、隣を歩く慧くんの横顔も。
2022.07.30
タイトル「草臥れた愛で良ければ」様より
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