無傷を装う一瞥
ちかちかと不規則に点滅する蛍光灯の下、日没前の薄暗い廊下には二人分の規則正しい足音がやけに大きく響いている。この気配は恐らく、俺に向けられたものだろう。案の定、職員室を通り過ぎた空き教室の前で、後ろを歩く人物に「木手くん」と落ち着いた声音で呼び止められた。
真後ろを振り返って見ると、そこに立っていたのは校則通りに制服を着たあどけない顔立ちの女子生徒だった。メガネを上げる俺の仕草を、彼女はまつ毛の隙間からじっと見つめている。
同学年ではあるけれど同じクラスではない。確か、二年の頃のクラスメイトだ。名前は知らない。所属する委員会も異なるため、この女子との接点はほとんど無いはずである。
「俺に何か用ですか」
「私、木手くんのことが好きです。今日はそれを伝えにきたの」
俺の目を真っ直ぐに見据えたまま、彼女は単刀直入に用件を切り出す。
全くもって予想外だった。テニス部――それも、部長を務めた俺にとって、告白自体はそう珍しい出来事ではない。
交際を申し込んでくる人物たちは、みな揃いも揃って何かしらの予兆がある。例えば、足取りが乱れる者や呼吸が急に荒くなる者、頬を紅潮させる者、妙に潤んだ瞳でこちらを伺う者などがいた。今、目の前に立っている彼女には、それらの反応が認められない。先程の「何か用ですか」は、なにも勿体ぶった返答ではなく、ただただ本心が口をついて出た言葉だった。
「そうですか。ご丁寧にどうもありがとうございます」
こういった不可解な告白をされた時も、一応は礼を述べておく。接点がない人間相手とはいえ、好意を寄せられるのは嫌な気分ではないからだ。
「こちらこそ。それじゃ」
俺の礼を受け取った彼女は、踵を返してさっさと歩き始める。まるで自分以外の誰かの伝言を伝え終えたみたいに、なんの情緒もなくあっさりと帰ろうとする。
実体験にも映画の中にも無い、あまりにも殺風景な告白だったもので、止せば良いのに、俺はだんだんと離れていく小さな背中に思わず声をかけてしまった。
「ちょっと、待ちなさいよ」
ぴたっと立ち止まり、顔だけを俺に向けた彼女は怪訝そうに眉をしかめている。全く、眉をしかめる資格が一体どこにあるというのか。一番怪訝な表情を浮かべたいのは他の誰でもなく俺である。
「何?」
「何、じゃないでしょう。俺はまだ、君に返事をしていませんけど」
彼女はまばたきを一つ残して、また俺から顔を背ける。そして、相変わらず淡々とした口調でこう言った。
「べつに返事はいらない。木手くんってさ、来月からテニスの合宿に行くんでしょ」
「ええ。そうですが」
「しばらく姿が見えなくなると思ったら、居ても立っても居られなくて。このまま想いを伝えずに木手くんが合宿に行ったら、気がおかしくなっちゃいそうだったから」
「……そこまで恋焦がれているようには見えませんねえ」
「とにかく、私は伝えられればそれで満足だから。聞いてくれてありがとう。さようなら。合宿がんばってね」
最後はほぼ捲し立てる形で会話を切り上げ、彼女は大股歩きでこの場を去ろうとする。埒が明かない。
「だから、待ちなさいと言っているでしょう」
一歩で悠々と彼女に追いつき、強張った手首を掴む。彼女の手首は、短距離を走った直後並みに脈が速かった。どうやら、緊張すると逆に無表情になるタイプだったらしい。
どくどくと激しく脈打つ手首を掴んだまま、丸く可愛らしい後頭部に話しかける。
「君、名前はなんというんですか」
「みょうじなまえ。二組の」
冷静さを欠いた声は跳ね上がるように上擦り、先程よりも明らかに動揺しているのが分かる。
「みょうじさん。好き勝手に言うだけ言って逃げるなんて、随分良い度胸してますねえ。少し興味が湧きましたよ」
そう責め立てると、彼女が深く息を吸い込む音が耳に入った。俯き始めていた頭が天井に引っ張られるようにして元に戻る。息を吹き込んで膨らんだビニールを見ているようだった。
「じゃあ連絡先を交換してくれる?」
「最初からそう願い出ればいいものを」
承諾の代わりにぱっと手を離す。彼女はスマホを取り出し、再び俺に向き直った。連絡先を交換し終えた彼女はやっと嬉しそうな表情を浮かべる。派手な華やかさは無いけれど、道端に咲く可憐な花のような笑顔だ。
「ありがとう、木手くん」
みょうじさんは足早に――というより思いきり走って去っていった。職員室の前を無邪気に走るなんて、改めて本当に良い度胸をしている。みるみる遠ざかっていく彼女の小さな背中を写真に残し、交換したばかりの連絡先に送信した。
2022.07.07
タイトル「失青」様より
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