愛は低体温なんだねきっと
※大学生設定
インターホンのカメラに映る強面の男性を見て、まるで映画に出てくる凄腕の殺し屋が現実に現れたみたいだと思った。実際に玄関の前にやって来たのは物騒な殺し屋などではなく、大学の同級生で仲の良い友人の木手永四郎である。
今日は永四郎と出掛ける約束がある。彼は私が住むマンションまで迎えに来てくれたのだ。戸締まりのついでに出窓の外を覗き込むと、晴天の空の下に見知らぬ車が一台、閑散とした駐車場に停まっているのが目に入った。
慌てて荷物をまとめて外に飛び出したものの、なかなか車に乗ろうとしない私を見て、永四郎は腕組みをした中指をトントンと叩くように揺らした。威圧的で怖い。
「何ぼーっと突っ立ってるんですか。さっさと乗りなさいよ」
「の、乗ります。乗りますけど……。永四郎、車持ってたんだ」
「ええ。免許は取り立てですけど」
「どうやら怖すぎる話を聞いてしまったみたい。……本当だ、若葉マークが付いてる」
「この車に誰かを乗せるのは初めてです」
「えっ!? 本日は何卒よろしくお願いいたします」
特別扱いされた途端にあっさりと助手席へ乗り込む私は本当に単純だ。車の中は整理整頓されていて、芳香剤なのか香水なのか分からないけれど、甘さを持ちつつも胸がすくような清涼な香りがした。
永四郎の運転する車は住宅街を出て大通りに向かう。数日前、試験明けでくたびれた私が「海を切り取りに行きたい」とぼやいたところ、この気難しい友人は「いいですね、行きましょうか」と素っ気ないながらも二つ返事で承諾してくれた。私の提案はことごとくケチを付け――ではなかった、ぐうの音も出ないほど反論を述べてくるのに、珍しい。一旦はケチを付けても提案し返してくれるので、結局は一緒に時を過ごすことになるのだけれど。
馴染みの街を走り抜け、青々としたさとうきび畑をいくつか通り過ぎ、安全運転の車は私の知らない街へ入っていく。建ち並ぶ商業施設の向こう側には澄み切った海が左右に伸びている。徐々に海に近づいているのが分かり、心が自然と踊り出してしまう。
駐車場を降りて少し歩くと、細長い葉を揺らすアダンの隙間から、まばゆい光を放つ白い砂浜とエメラルドグリーンの海が見えた。走り出したくなる気持ちをぐっと抑え、永四郎と共にさくさくと砂を踏みしめ歩く。浜辺に打ち寄せる波の音と、アダンやヤシの葉同士が擦れて響く乾いた音が心地よい。
「着きましたよ」
「うわーっきれい……」
開けた視界には見たこともない光景が広がっていた。宝石のようにきらめく海が私たちに迫り、砂浜に到達した波は透明感にあふれ、砂浜と海のグラデーションを見事につくり出している。
「この海岸、全然知らなかった。さすが沖縄生まれ沖縄育ちだね」
「ここ近辺は庭のようなものです。それで、良い絵は描けそうですか?」
「うん、描けそう! ありがとう永四郎!」
その勢いのまま砂浜に腰を下ろそうとしてハッと息を呑む。永四郎が眉をひそめながら物凄い眼力で私を睨みつけている。そんなに睨んだら海も驚いて引き潮になってしまう。
「うそうそ、まさか。このまま座ったりしないでーす」
トートバッグから大きめの紙袋を取り出し、砂浜の上に敷く。先週雑貨屋で大きな買い物をしたときにもらった最大サイズの紙袋を、折りたたんで適当に突っ込んでいたのだ。今の今まで存在を完全に忘れていたけれど、持ってきていて良かった。永四郎の車を汚すわけにはいかない。
「分かればいいんですよ」
「永四郎も座る?」
「ええ。もう少し詰めてください」
かなり大きな紙袋ではあるけれど、二人で一緒に座るとちょっと狭い。慎重に動かないと私の肘が永四郎の脇にどすんと入ってしまいそうだ。身の毛もよだつ恐ろしい想像をしながら、限られたスペースにスケッチブックと鉛筆、水筆、水彩絵の具を固めて乾かしたパレットを用意する。
スケッチブックを広げ、波打ち際を鉛筆で大まかに描き出す。永四郎はタブレットを使って読書をしているようで、ときどき私の手元を一瞥したり、おだやかな風に吹かれて立つ細い白波を眺めていた。
コバルトグリーンとターコイズブルーを混ぜた絵の具で海の色を塗っていると、後方から「あのう、すみません」と遠慮がちな声がする。振り返ると、そこには修学旅行中の高校生と思しき生徒が三人、申し訳なさそうな表情を浮かべて私たちに視線を送っていた。話を聞くと、どうやら道に迷ってしまったそうだ。
「道案内してきます」
永四郎がすくっと立ち上がったので、私も釣られて腰を上げる。
「私も行こうか?」
「結構です。アナタ、土地勘がないでしょう。ここで大人しく待っていてください」
全くもってその通りなので、「確かにね」と気の抜けた返事をして座り込む。永四郎は高校生たちを連れて木々の方へきびきびと歩き出した。彼はああ見えて親切な面がある。親切でなければ私のあやふやな提案に乗って遥々遠くの海まで来たりしない。
波音を立て続ける海の前でスケッチブックを膝に乗せ直し、端に彼の後ろ姿をさらさらと描き足す。まぶたに焼き付いた想像の姿を参考にしても、案外上手く描けるものだ。
色塗りの作業を放り出して一心不乱に人物の陰影を描き込む。しばらくすると、大きな影がスケッチブック全体を覆い、描き込んだ陰影がさらに濃くなった。
何事かと顔を上げると、戻ってきた永四郎が訝しむような目つきでこちらを覗き込んでいた。
「海を切り取りに来たんじゃなかったんですか」
「わーっ勝手に見ないで! やらしい!」
スケッチブックを抱きしめるようにして絵を隠す。逆光なのに永四郎のメガネがぎらりと光った、気がする。メガネの奥をよくよく見ると物言いたげな、というか不満そうな瞳が私を見下ろしている。光ったのはレンズの反射ではなく眼光だったらしい。
「あの子たち、無事に目的地まで着いたかな?」
「途中まで道案内しましたけど、三人ともなまえと違って利発そうでしたし、問題ないでしょう」
「はいはい、どうせ私は賢さのかけらもないですよー」
大分形になってきたけれど、永四郎の後ろ姿だけ今すぐ消しゴムで消してしまおうかな、といじけた気持ちが一瞬頭をよぎる。
再び隣に腰を下ろした永四郎は、思い出したように「そういえば」と呟いた。
「あの高校生たち、俺たちのことをカップルと思っているようでした。……変な顔をするのやめなさいよ」
「ちゃんと否定したよね?」
「もちろん」
笑いもせず、かといって真剣な表情を浮かべるでもなく、感情の読み取れない横顔がすぐそばにある。ただただ即答だった。自分で言っておいて虫が良い話ではあるけれど、少しだけ寂しい気がするのは永四郎に心を開きすぎたせいだと思う。思考を振り払うように大きく筆を動かし、イエローオーカーを薄めた絵の具で砂浜の部分を塗り重ねる。想定した範囲より少しはみ出てしまった。
「それにしても、本当にこの辺の地理に詳しいね。ひょっとして住んでたことある?」
「ええ。この海岸線に沿ってしばらく歩くと、母校の中学校にたどり着きます。ほら、遠くに校舎が見えるでしょう」
永四郎が指差す先には、確かに校舎らしき建物が建っている。
「へえ、海沿いの中学校かあ。なんか素敵。永四郎は何部だったの?」
「テニス部です」
「あー、部長を務めてそう」
「アナタ、なかなか見る目がありますね」
「部長だったんだ。やったー当たった」
「なまえは絶対に帰宅部ですね」
「見る目があるなあ。美術部だったけど、入って三日でやめちゃったよ」
絵を描くことは好きだ。中学生の頃も高校生の頃も、大学生になった今でも趣味の範囲でゆったりと続けている。永四郎も、今でもテニスを続けているのだろうか。彼はテニスのどんなところが好きなのだろうか。あの海辺に佇む中学のテニス部は、一体どんな場所だったのだろう。あれこれ聞いてみたいけれど、筆を動かしながら問いかけられるほど私は器用じゃない。
「できた」
筆を置くと、私の膝の上に置かれたスケッチブックを永四郎が覗き込む。
「ここだけ色が塗られていませんねえ」
永四郎の指摘どおり、海辺を歩く彼の後ろ姿は鉛筆の線のみで構成されていて、下塗りさえ無い状態だ。
「私、永四郎が通ってた中学校と海をそばで見てみたい。この白い部分はそこで色を塗ってもいい?」
永四郎はほんの一瞬だけ目をわずかに見開き、すぐにメガネのフレームを反対側の手で押し上げ、唇の端を上げて不敵に笑った。そして立ち上がり、鍛え上げられた逞しい背中を私に向ける。
「仕方のない人ですねえ。行きますよ」
「待って、すぐに画材を片付けるから!」
慌ただしい手つきで画材をトートバッグに詰め込む。一体、どんな色彩で塗ることになるのだろう。早く塗りたくてたまらない。
2022.07.02
タイトル「草臥れた愛で良ければ」様より
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