砕けて、砕いて、砕かれてA
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これの続き
大人設定。モブキャラが死にます。
八月の終わりの、熱気と活気にあふれる居酒屋の雰囲気が好きだ。店内の前方では三線を弾き語る歌声が鳴り響き、ほろ酔いの客は手拍子をしたり楽しそうに指笛を鳴らす。赤く揺らめく太陽が凪いだ海の向こう側へ沈んでも、赤瓦と丸い提灯で飾り付けられたこの空間だけは白い入道雲が湧き上がる真昼間のように光り輝いている。今日は特にそう思う。
目の前に座る女性――古くからの友人であるなまえは、グラスになみなみと注がれたビールを勢いよく飲み干した。
「沖縄で飲むビールってこんなに美味しいんだね。なんかこう、生きてるって感じがする……」
「鼻の下に泡ついてるやっさ」
「え、うそ!」
泡が付いている箇所を指で指し示すと、彼女は小さく叫び、慌てて鼻の下を紙ナプキンで押さえる。その必死な様子を見て、俺はシークヮーサーサワーを飲みながら目を細めて笑った。
大人になってからなまえの顔色は随分と良くなった。化粧のせいかもしれないけれど、健康的な肌が琉球ガラスの照明の下でつやめき、頬は肌の奥からほのかに滲み出たような血色をしている。中学時代の彼女はいつも疲れ切った青白い顔をしていて、新月の夜でも大きな目だけがらんらんと輝いていた。
彼女は比嘉中を卒業するやいなや、数時間後に大阪行きの飛行機に飛び乗って家出をするという思い切りの良い経歴を持つ。今は働きながら高校に通っていて、来年の春に卒業する予定らしい。
沖縄で過ごした年数よりも大阪で暮らす年数の方が長くなったにも拘らず、なまえの発する言葉に関西弁が混じることはない。沖縄にいたときもそうだ。彼女は小学校の途中で東京から転校してきたけれど、中学を卒業してもうちなーぐちで喋ることはなかった。小さい頃から彼女はいつもどこか居心地悪そうな表情を浮かべていて、隣の家に住む俺はそれを放っておけなかったのだ。
なまえとは定期的に連絡を取っているものの、顔を合わせて話をするのは本当に久しぶりだ。最後に大阪へ遊びに行ったのはいつだったのか、記憶が随分曖昧である。彼女が沖縄まで日帰りで俺に会いに来てくれたことがあったけれど、それも三年前の出来事だっただろうか。就職に就学とお互いのライフイベントが重なり、忙殺され、会う機会に恵まれなかった。
仕事と学業の合間を縫って沖縄に来た理由が、彼女にはある。俺に会いに来たわけではない。いつ話を切り出すべきか迷う。三線の演奏が終わり、温まりきった店内は小さな拍手の渦に包まれる。グラスの外側に付着した結露のしずくが、コースター代わりに敷かれたおしぼり目掛けてすーっと落ちていく。
「あの、お兄さんのこと、でーじ大変だったやんに。やーになんて声をかけたらいいのか……」
結露で湿った手を膝に置き、意を決して口にすると、彼女の瞳はほんの一瞬だけ陽炎みたいに揺らいだ。そして、次の瞬間には何事も無かったかのように微笑む。見てはいけないものを見てしまった気分に陥り、俺の喉はきゅっと絞まる。
「ありがとう浩一。いいの。もういいの」
なまえは今回、お兄さんのお通夜に出席するために沖縄にやって来たのだ。なんでも彼は、深夜にバイクを乗り回していたところ、勢い余って岬から海へ転落してしまったらしい。
「私、兄貴のタバコをよくくすねていたでしょ。最期に顔くらい見てやらないと、あいつ化けて出そうだから」
海ぶどうの束をたれに浸しながら、彼女は淡々と語る。心の奥で多少は心を痛めているのかもしれないけれど、駅で待ち合わせてから今現在までに、なまえは悲しむ素振りを見せなかった。よく食べ、よく飲み、よく笑う。それらの行為は、彼女が家族というしがらみから無事解き放たれた証左であるように思える。それなら、これ以上俺からお兄さんのことに関してあれこれ触れる必要はないだろう。この人は本当に逞しいな、と思う。
溶けた氷で薄まったシークヮーサーサワーを一気に飲み干す。彼女は空になった俺のグラスを確認すると、席の端に立てかけてあったメニュー表をぺらぺらとめくった。
「私は泡盛サワーを注文するけど、浩一は何か飲む?」
「うーん、わんももう一杯だけ飲もうかや」
「すみませーん、注文お願いします」
なまえが手を挙げて店員を呼ぶ。中学時代と変わらない、よく通る澄んだ声だった。颯爽とやって来た店員に向かって俺は、泡盛サワーとマンゴーサワーを注文する。
注文を受けた店員の背中をぼんやり見守ってから視線を前に戻すと、彼女の表情がきらきらと輝いている。何を思い浮かべているのか言葉にしなくとも理解できた。過去を懐かしむ眼差しはしなやかな糸となり、俺の心のやわらかい部分を優しく絡め取る。
ほどなくして、透き通った泡盛サワーと底に果肉ピューレが沈んだマンゴーサワーが運ばれてきた。自分自身が飲む前に、まず「一口飲む?」とグラスを向かいに寄せる。色鮮やかなオレンジ色がまばゆいマンゴーサワーはなまえの姿とよく映えた。
「では、いただきます」
マンゴーサワーを目前にした彼女は急に改まった態度になり、グラスを両手で恭しく傾ける。あ、間接キスだ、と思春期真っ盛りの中学生のような戸惑いが脳裏をよぎった。
一口飲んだあと、彼女はお酒を「美味しい」と褒めつつも、頬に手を当てながらこう続けた。
「浩一が作ってくれたマンゴースムージーの味が恋しいなあ。何度かカフェで注文してみたけれど、一番美味しかったのは浩一のスムージーだったよ」
「しんけん?嬉しいさあ」
「ほんとほんと。スムージーのお店開けるよ」
ほんの少しだけお酒の量が減ったグラスが俺の元に返ってくる。俺はなまえが口をつけた方とは逆向きに口をつけ、濃厚な甘い液体を喉に流し込んだ。
彼女の家はもう無い。俺が大学に入学する少し前に一家は県内のどこかへ引っ越し、長いこと空き家の状態だった。解体するにも費用がかかるらしく、しばらくは空き家としてあの場所に建ち続けるのだろうと思っていたけれど、一昨年にようやく取り壊されることになり、今では新しく建った家の中で新しい家族が生活を営んでいる。
実家暮らしだった学生時代の頃は、ときどきバルコニーに出ては隣のベランダを横目で眺めていた。もぬけの殻になったベランダを見るたび、中学三年のあの日々が白昼夢のように思えた。なまえが居なくなったあの空間は、フクギの葉がざわめく音が閑静な住宅街に響くだけのあまりにも静かな時間が流れていた。
恐らく俺は、なまえが隣の家に引っ越してきたあの頃からなまえに恋をしている。他の人と付き合っても、彼女への淡く光る恋慕を拭い去ることはできなかった。いや、淡くなんてなかったのかもしれない。彼女は俺の心臓に一筋の深い爪痕を残していったのだから。彼女の選択を応援する気持ちは嘘ではない。それなのに中学生の俺は心のどこかで、俺たち二人はこれからも永遠に一緒にいるものだと思い込んでいた。
こぢんまりとしたステージの上で三線の奏者と酔っ払った客たちが楽しそうに歌い踊っている。テーブルの上の皿もグラスも空になってしばらく経つ。腕時計を確認するとそろそろ日付が変わりそうだった。
「これからどうするば?」
「どうしようね、ネカフェにでも泊まろうかな。行き帰りの航空券はぎりぎり取れたのだけれど、あまりにも急だったものだから、ホテルだけは予約できなくて」
彼女は気だるげな手つきでスマホを起動し、地図アプリで周囲のネットカフェを探し始めた。俺は口を開きかけ、力なく閉じる。画面をスクロールする手はなかなか止まらない。
「わんの家来るかや。一人暮らしの狭い部屋で良ければ」
もう一度口を開き、出来るだけ平静を装って提案する。仲の良い友人として当然です、とでも言いたげな涼しい顔が、俺にきちんと出来ているのだろうか。
「浩一の家に?いいの?」
スマホからぱっと顔を上げたなまえと目が合う。
「うん。マンゴーもアイスクリームもあるさあ」
「お邪魔しようかなあ。本当にいいの?ひょっとしてスムージーも作ってくれる?」
「いいって」
「やったー!帰ろう帰ろう、今すぐ帰ろう」
勢いよく立ち上がってはしゃぐなまえを見ていると、抑圧されていた中学生の頃よりも彼女が少し子供っぽくなった気がして、微笑ましさのあまり口元が緩む。子供っぽいとも、生き生きしている、とも言う。
まだ活気が残る居酒屋を出て、少し離れた場所にあるタクシー乗り場へ向かう。乗り場へ到着すると、ちょうどタクシーが住宅街の方へ走り去っていくところだった。この時間帯だと次のタクシーがやって来るまでにしばらく時間がかかりそうだ。
周囲を見渡すと、鮮やかなネオンの下で手を振って別れる人たちや、夜通し飲むために二軒目の酒場を探す元気な大学生たちの姿がある。八月の下旬は未だ夏の真っ盛りだ。吹き抜ける夜風だってこんなにも温い。
賑やかな繁華街の様子を眺めながら、なまえがぽつりと「そういえば」と呟く。
「あのとき――口がさみしいって言ったとき、キスでもしてくれるのかと思った。浩一って面白いね。そういう誠実なところが好きなのだけれど」
年甲斐もなく思考も身体も停止しそうになる。好き、という言葉だけが都合よく切り取られ、頭の中で繰り返し再生される。本当にもう、中学生じゃあるまいしと自嘲気味に笑うことしかできない。
「……もしかして酔ってるばー?」
「やだな、酔ってないよ。浩一の方がお酒に弱いでしょ」
そう、酔っているのは俺の方だ。光り輝く街とざわめく人の群れから目を逸らし、ぴんと背筋を伸ばして立つ彼女の方へと向き直る。
「わん、やーにずっと言いたかったことがあるんばーよ」
「ん、なに?」
「これを言ったら、やーをこの土地に縛ってしまう気がして、どうしても言えなかったさあ」
小さくゆっくりと深呼吸をする。仕事以外でこんなに緊張する機会が訪れるなんて予想もしていなかった。
俺が沈黙を破る瞬間をなまえはじっと見守っている。薄暗い広場の中で大きな目が瞬きするこの光景は、在りし日の夜にタイムスリップするような錯覚に陥るほど儚い。花火の火が一気に吹き出る音、色を失った砂浜めがけて静かに押し寄せる波、夜空を覆い尽くす星のきらめき、潮風に当たりながら感傷的に佇むなまえ。俺はそれらの思い出の中で永遠に浸って過ごすことだって出来る。
それでも俺は、儚い思い出を確かな現実に変えるために再び口を開いた。
「なまえのことがしちゅん。出会ったときから、ずっと、ずーっと。わんと付き合ってほしいさあ」
彼女は猫みたいに目を丸くして俺を見上げ、やがて息をふっと漏らして笑う。
「私もだよ、浩一。私も浩一のことが好き。卒業したら伝えようと思ってたのに、先を越されちゃったな」
一言一言を大切に噛みしめているような口調だった。瞳の奥がじわりと潤んでいく感覚があり、慌てて唇を噛んで堪える。
まるで畳み掛けるように彼女の言葉は続く。
「浩一が私に心の支えをくれた。底に沈んだ人生をスタートラインまで引き上げてくれた。大好きに決まって……え、どうして泣きそうになっているの!?」
驚いたなまえが俺の背中を優しくさする。彼女の手のひらは夏の夜の空気よりもずっと温かい。
「わっさん、酔ってる……ううん、違う。やーがわんと同じ気持ちでいてくれたことが嬉しくて」
「かわいいな、浩一は」
腕を引かれて抱き寄せられ、火照った頭を慈しむように撫でられる。素面だったらやんわり制しているところだけれど、今の俺は大人しく従うよりほかない。香水の甘い香りの奥底に懐かしい匂いが混じっている。なまえ自身の匂いだ。
頭を撫でる手を止め、俺の肩に顔を埋めながら、彼女は芯の通った声で静かに囁く。
「高校を卒業したら沖縄に戻ってこようかな。中学の頃よりも好きかも、沖縄のこと」
「以前なら『やーの選択を尊重する』って言っていたかもしれないさあ。でも今は、今だけはお願いしても良いかや」
「いいよ。なんでも言って」
彼女の背中に手を回し、ほんの少しだけ力を込めて抱きしめる。
「……これからはずっと一緒にいたい。卒業するまでは大阪へ会いに行くさあ」
「会いに来て。私が沖縄に戻って来たら、一緒に暮らしてよ」
「もちろんやっし。やーとわんはこれからも二人で過ごすのだから当然さあ」
「なんか今の、プロポーズみたい」
「プロポーズ予告やしぇ」
「本番が楽しみだね」
そう言って彼女はくすっと微笑み、俺の顔を引き寄せ唇に口付けた。そして、感触を味わう余裕や余韻などは残さずに、唇はあっという間に離れていく。瞬きする間もなく起こった出来事に思わず涙が引っ込む。
もう一度、彼女とキスがしたいと思った。どちらからともなく再び距離が縮まり、唇が重なる。今度はお互いの唇のやわらかさを確かめるような優しいキスだった。
ヘッドライトを照らしながらタクシーが乗り場に入ってくる。アスファルトを擦るタイヤの音が聞こえた途端に唇を離すと、酔っていないはずの彼女の耳がほんのり赤く染まっていた。
2022.05.07
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