砕けて、砕いて、砕かれて@
※中学三年設定。未成年の喫煙、希死念慮、暴力の描写があります。
目標に向かって懸命に努力している誰かに、ちっぽけな私の仕様もない命を分け与えられたらいいのに。送り先はたとえば、隣の家の新垣浩一とか。
それを決行する夜はいつも決まっていて、輝かしい将来の夢もなければ生きていく希望すらもなく、ただただ行き場のないじめじめとした憂鬱が身体中を蝕んでいる日だった。そういった日の夜は自室の小さな出窓から隣の家のベランダを覗き込み、物干し竿に洗濯物がぶら下がっていないことを確認する。今日の物干し竿は洗濯ばさみを含め残らず取り込まれ文字通り空っぽだった。そうだ、今しかないと私の肺がささやく。部屋の電気を消し、そろりそろりと掃き出し窓からバルコニーに出ると、剥き出しの下腿の上を生ぬるい中途半端な風が無遠慮に滑り抜けていった。
パーカーのポケットからタバコを取り出し、静かに火をつける。兄の汚い部屋に忍び込んでくすねた一本だ。余すことなく肺の奥まで吸い込み、薄ぼんやりとした紫煙を吐く。おいしいのかまずいのか、なにもかもが未熟な私にはタバコの味なんか理解できない。それでも、これでようやく安心できる。タバコの煙と一緒に溜まった澱も吐き出して、虚脱感から少しだけ解放される。
こんなところを誰かに目撃されて、さらに告げ口でもされたら家庭内でも学校内でも大問題になるだろう。しかし、閑静な住宅街は人気がまるでなく、あったとしてもたまに車やバイクが通る程度で、目の前は生い茂るフクギの葉に阻まれて見通しが悪い。きっとこちらの様子は分からない。今まで自分にそう言い聞かせて吸ってきた。
携帯灰皿に灰を落とし、もう一度タバコを咥えてゆっくり吸い込むと、左の方からがらがらと網戸を引く音がした。リラックスしたばかりの心臓がひゅんと縮み上がる。
「え、あれ」
暗闇の中で姿が鮮明に見えなくても、誰が来たのかはその優しげな声で分かる。隣の家に住んでいる同級生の新垣浩一だ。驚きのあまり噎せてしまい、なるべく声を抑えながらげほげほと咳き込むと、浩一はベランダから飛び出してきそうな勢いで「大丈夫かや!?」と尋ねる。その声量が住宅街中に響き渡る大きさだったので、狼狽えた私は自分の震える唇の前に人差し指を立てて息を漏らした。申し訳ないけれど「頼むから静かにしてくれ」のサインだ。
「わ、わっさん」
「ちょっと下に降りてきて。話がある」
浩一は黙ってこくこくと頷き、網戸を慎重に閉めてベランダから出て行った。その姿を確認し、まだ長さを保ったままだったタバコを携帯灰皿に押し込む。勿体ない。
目撃者である浩一をわざわざ呼び出して向かった先は、家から歩いてすぐの場所にある、海辺を見渡せる丘の上だった。
砂浜では不良の高校生たちがわらわらと集まり、持ち寄った手持ち花火に火をつけて遊んでいる。私は眉をひそめた。海から丘まで距離があるというのに、兄のばかでかいダミ声が聞こえてくるのが不愉快だったからである。波の音でも聞きながら落ち着いて話がしたかったのに台無しだ。思わずため息をつくと、道中ずっと押し黙ったままだった浩一がおずおずと口を開く。
「いつもくぬ時間帯にあそこで吸ってるば?」
「室内で吸うと、兄貴の部屋みたいに壁がヤニで燻されて汚くなるから。……夜しか吸わないよ。お天道様の下で堂々と吸える歳じゃないし」
それに、洗濯物を取り込んだあとの夜なら、テニス部の部長を務める浩一のユニフォームとジャージに煙がつく心配もない。口が裂けても言わないけれども。
「浩一こそ、どうしてベランダに出ていたの。いつもはこんな時間に出てこないでしょ」
「気分転換に星を見ようと思って」
「そっか。邪魔して悪かったね」
「星ならここからでもちゃんと見えるさあ」
浩一の視線を辿り、黒色の海の上へと続く夜空を見上げる。もくもくと立ち上る花火の煙で遮られ、星を見るどころの話ではない。私に気を遣っているか、浩一が見た世界が私の視界のそれと大きくかけ離れているかのどちらかだろう。
「やーはどうしてタバコを吸ってるんばー?」
浩一の問いかけに、弾ける色とりどりの火花と広がる煙を眺めながら考え込む。
「どうして、かあ。……うーん、そうだな。二つあるな」
「一つ目は?」
「とっとと死んじゃいたいからだよ。でも私には自死する度胸もないし、だったら不健康の象徴を吸って、じわじわと寿命を削るしかないよね」
波音だけをきれいに残し、辺りがしーんと静まり返る。こんなときに限って不良の連中は火を噴く花火を持ったままコンビニがある方角へと歩き始めており、目の前の砂浜には人の姿がない。
潮風で錆びついた街灯にぼんやりと照らされた浩一の瞳は、あの海の波のように揺れ動き、明らかに動揺している。引かれてしまったかもしれない。あの悪名高い比嘉中テニス部の一員とはいえ、隣に住む同級生がタバコに手を出している時点でドン引き案件だろうに。
「もう一つは口がさみしいから。さみしくなったら兄貴の部屋に忍び込んで、ぐしゃぐしゃの箱からタバコを一本くすねるの」
タバコをつまむジェスチャーをしておどけてみせたけれど、浩一はぴくりとも笑わなかった。私は居た堪れない気持ちでいっぱいになった。不透明な灰色の煙が去っても私には星なんか一つも見えなくて、悔しくて虚しくておだやかに波をつくり続ける海を睨みつける。
「わん、なまえのさみしさを解消させてあげられるかもしれないさあ」
そう言って浩一は私の手を取る。浩一の手は生ぬるい空気よりも熱く、温度が皮膚に伝わった途端に心に巣食うわだかまりの表面が溶けていくような感覚を覚えた。それでも芯は冷え切っていたので――正直、じゃあキスでもするのかと思った。しかし、お互いの体がそれ以上近づくことはない。ためらいながら浩一の顔を覗き込むと、生真面目でいて何かに縋り付くような必死な表情をしていた。
そのまま手を引かれ、丘を降りて来た道を戻る。たどり着いた場所は私の家ではなく、隣に建つ浩一の家だった。上がってほしいと誘われたので、肩を竦ませて怯む。隣人とはいえ夜遅くによその家にお邪魔するのは気が引けた。
丁重にお断りしたつもりだったけれど、結局ゆるやかに言い包められ、さり気なく玄関に押し込まれてしまい、久々に顔を会わせた浩一のご家族に挨拶をする。彼は去年の夏以降からほんの少しだけ押しが強くなった気がしてならない。柵の中ですやすやと眠る愛らしいウサギを眺めながらそんなことを思う。
キッチンに通され、どこに立っていれば良いのか分からず部屋の隅で縮こまる。冷凍庫を閉めて振り返った浩一が、私の強張った顔を見た途端声を上げて笑った。
「そんなに緊張しなくても」
「だって、久しぶりに来たし……」
「あね、もっとこっち来て」
キッチンに立った浩一がおいでおいでと手招きする。しぶしぶ近寄り、浩一の横に間隔を開けて立つ。青白く光るLED照明がまぶしかった。キッチンの上にはグラスが二本と、そして小ぶりなミキサーが乗っている。
浩一は慣れた手つきで保存袋に入ったカットマンゴーとバニラアイスをミキサーにかける。凍ったマンゴーはざあざあと激しい音を立てながら砕けてアイスと混ざり合い、あっという間に液状になっていった。
「さあ、うさがみそーれー」
マンゴースムージーを注いだグラスを手渡され、「ありがとう」と小さくお礼を言って受け取る。浩一と一緒に食事をするなんていつぶりだろう。グラスを傾けると、芳醇なマンゴーとバニラの甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「……美味しい」
優しい甘さのスムージーはしゃりしゃりとした食感が楽しく、喉を通る冷たい感触も心地よい。自分の顔が自然とほころんでいくのが分かる。
「バニラアイスを入れるとまろやかになるねえ。あと、アイスの代わりにヨーグルトを入れてもでーじ美味しいばーよ」
「へえ、美味しそう。ああ、もう飲み終わっちゃった」
私の飲みっぷりを目の当たりにした浩一は目を細めて微笑んだ。浩一の笑顔は可愛らしい。肌の上を点々と飾るそばかすも合間って、白く輝く砂浜のように素朴で純真な印象を受ける。
「さっきのこと、皆には黙っているさあ。……その代わりに、口がさみしくなったら、タバコを吸う前にわんに言ってほしい。わん、やーのためなら毎晩でも作れるよ」
私にそう訴えかける浩一の瞳が、夏の日差しを浴びた海面みたいにきらりと光っている。彼は素朴で純真なだけではない。浩一は部長を任されるくらい意志が強いのだ。
「気持ちはありがたいけれど、毎回お家にお邪魔するわけにはいかないよ」
「じゃあ、ベランダで受け渡しをするのはどうかや?そうすれば家に上がる必要もないやっし」
「迷惑じゃないの?私、テニスの邪魔になるのだけは嫌だよ」
「迷惑なわけない。それに、こうでもしないとわんもさみしいどー」
浩一の表情が一瞬曇る。何がさみしいの、とは聞かなかった。浩一にこんな顔をさせてしまったのは他の誰でもなく私自身だからだ。死ぬな生きろと叱責する方が容易いはずなのに、浩一は誠実な人だとつくづく思う。
思い返せば浩一は昔からよく私を助けてくれた。八歳の頃に父親の転勤で東京から沖縄に引っ越して来た私は、クラスでも学校の外でも周囲と馴染めず、すでに出来上がったコミュニティをぼんやりと眺めて暮らしていた。東京での暮らしの方がいくらかましだったかもしれない。浮いていた私に手を差し伸べ、一緒に過ごし、ときに励ましてくれたのは隣の家に住む浩一だった。
私は大したお礼もできないまま、浩一に何かをもらってばかりいる。今もまた、中身が空洞の薄べったい手で浩一の温かい手を掴んで、壊れかけた胸元に引き寄せようとしている。
浩一は、私がバルコニーに立つたびに、網戸を引く音を聞きつけてベランダからマンゴースムージーが入ったボトルを渡してくれるようになった。渡す、というより投げる、といった表現の方が正しい。食べ物を投げるのは気が引けるけれど、物干し竿にボトルの紐をぶら下げて移動させる方法は竿掛けがぎいぎいと擦れる音が住宅街中に響いてしまうし、お互いにめいっぱい腕を伸ばしてもボトルを受け渡すことは不可能だったため、止むを得ず投げ入れる方法を採用することになった。運動部にくわえて沖縄武術の達人なだけあって浩一はコントロールが良いし、幸い私も運動神経は悪い方じゃない。
私は自室の狭いバルコニーで、浩一はベランダで、声をひそめておしゃべりをしながら一緒に甘酸っぱいマンゴースムージーを飲む。そして階下へ下り、飲み終えたボトルを念入りに洗う。一晩乾かして布巾で軽く拭き、翌日の学校で浩一にボトルを返す。(浩一はときどき手作りのクッキーもくれた。)最初は洗わなくていいと断られたけれど、一から十まで浩一に寄りかかるのはどうしても嫌だった。
「私、自分の食器は自分で洗う性格だから」
そう宣言して網戸を開けると、背中越しに「じゃあお願いしようかやー」とやわらかく笑う声が聞こえた。
最初の一週間は、洗ったボトルをキッチンの水切りかごの中で乾かしていた。けれども、そのうち自分の部屋で乾かすようになった。虫の居所が悪いときの母親がかごの中にある見知らぬボトルを目ざとく見つけ、「私物を家族のキッチンに置くな」と怒鳴るからである。正確には私のボトルではなく浩一から借りたボトルなのだけれど、訂正したところで彼女の火に油を注ぐだけなので黙っていた。形だけでも謝っておけばいいのだ。
まだ水滴がついたボトルを持ってキッチンを出ると、シャワーを浴びたばかりの父親とすれ違う。
「お母さんの気に障ることはするなよ」
父親は優しい声音で私を宥める。目が全然笑っていなかった。
学校の帰りに百円ショップでスポンジと小さな水切りかごを買って、家族の邪魔にならないようキッチンでボトルを速やかに洗い流し、なるべく足音を立てずに自分の部屋へ戻り、掃き出し窓のそばで乾かす。部屋がタバコ臭くなくて本当に良かった。それに、家族全員の目があるキッチンに置くよりも、自分の傍らに浩一のボトルがあった方がなんだか落ち着く気がする。
男子テニス部が全国大会に出場した夏休みは、浩一に応援のメールを送ることで希死念慮のあぶくをどうにかすくい取っていた。浩一の家に行ったあの夜以来タバコは一切吸っていない。今再び吸い始めてしまったら、浩一に申し訳が立たない。
私のそれは一度耐えてしまえば案外やり過ごせてしまうものだったらしく、それから私がバルコニーに立つ回数は少しずつ減っていった。それでも完全に消え失せたわけではなかったけれど。
木々の葉を散らす猛烈な台風が過ぎ去った日の夜に、私は久々に掃き出し窓からバルコニーに出た。昼間は休校になるくらい激しい雨が降り注いでいたのに、今は雲一つない夜空が暗幕のように広がっている。
「わんが東京に行ってるあいだ」
「うん」
「タバコ、吸ったかや」
「吸ってないよ。安心して」
「よかったあ……」
私の報告を聞いた浩一はほっと胸をなで下ろした。浩一と話をするだけで気が楽になる。彼はテニスにまつわる様々な話を聞かせてくれた。去年の全国大会の話、比嘉中を全国大会に押し上げた偉大な先輩たちの話、一度は辞めてしまったけれど結局は戻ってきてくれた頼もしい部員たちの話、そして今年の全国大会の話。後輩たちも優秀なのだそうで、安心して次にバトンを繋げられると、浩一は嬉しそうに語ってくれた。
立派にテニス部の部長を務め上げた浩一が誇らしい。具体的な夢はまだ思い浮かばないけれども、浩一を接していると私も頑張ろうという淡い希望は持てるようになる。
ベランダでの交流によって心を癒す一方で、家庭環境の方は特に改善することなく生活は続いた。特に、高校受験の前日は散々だった。午前で授業が終わり、学校から帰って玄関のドアを開けると、ちょうど出掛けるところだった兄に金をせびられたのである。兄は相変わらずタバコ臭く、この日はさらにアルコールの臭いもぷんぷん漂わせていた。
どすの効いた声が玄関に反響する。
「小遣いもお年玉も、ほとんど手ェつけてねえのは知ってんだよ」
無視して靴を脱ぎその場を通り過ぎようとすると、鈍い破裂音とともに後頭部に激痛が走る。兄が私の頭をぶん殴ったのは明らかだった。ふつふつと沸き上がる怒りに身を任せて振り返り、歯を食いしばりながら鋭く睨みつける。しかし兄はもうドアに手をかけていて、私の方など見ていなかった。
翌日私は、親に言われるがまま近場の高校を受験した。浩一とは全く別の高校である。結果は合格だった。別に何も嬉しくなかった。
「ずっとここに居ていいのかな」
ぽつりと呟いた言葉がバルコニーをさまよい、風と一緒に巻き上がったのちにふらふらと星空をただよう。スムージーを飲み干す浩一を手すりに肘をつきながら見つめると、彼は「そんなにじっと見られると飲みにくいやっさ」と苦笑いした。ごめんと謝りつつ浩一を見つめたまま続ける。
「あの晩、この場所で浩一に出会すまでは、私は沖縄でゆるやかに死んでいくのだろうなと思っていたよ。でも違ったみたい」
「……わんは、わんだけは、なまえの選択を尊重するし、応援するさあ」
「あはは、浩一がそう言ってくれるとなんでもできそうな気がしてくる」
「それ、じゅんに?」
「本当だよ。嘘なんてつきたくない」
「……変わったよね、なまえは」
「そうかな。でもそうだな、浩一がそう言うなら私は変わったのかもしれない」
浩一を見つめたままだった視線を横に逸らす。そう、私が変わったのは浩一のおかげだ。照れ臭くてどうにも口に出せないけれど、命を削って死を待つことしか心の支えがなかった私を、浩一はそのやさしい手で救ってくれたのだ。救われた私は、躍動するこの身体で一体何を為すべきなのだろう。
あれこれと悩んでいる間に時間は流れ、あっという間に卒業式の前日がやってきた。荷物をスクールバッグに詰め込み、細く長く息を吐く。
死にたくはない。死にたくはないのに、猛烈にさみしい気持ちに襲われる。口だけではなく、心も体も迷子になったみたいに震えて、幼い子供のようにわんわんと大声で泣き出しそうなくらいさみしかった。真っ暗闇を映す窓を開けて、ざりざりと地面を這いずる蛇のようにバルコニーに出る。フクギの葉が春の温度を含んだ夜風を受けてざわざわと大げさに揺れた。
これはひょっとして恋ではないかと、突拍子もない考えが頭をよぎる。私は浩一に恋をしているのでないだろうか。だって、浩一が網戸を引く音を聞くだけでこんなにも心臓が痛い。放物線を描くボトルの金具が住宅街のわずかな光を反射して流星のようにきらめくのを見るだけで、目の中がこんこんと湧き出る泉のように潤む。「美味しい」と伝えたときに照れながら微笑む浩一を見るだけで、額と頬が熱を帯びて、明日もこの先もずっとここに居たいと願ってしまう。
恋か否かを問う前に、私は浩一に伝えたいことがある。それなのに、進行する美しい思い出に縋り付いているせいで、喉奥に渦巻く思いをどうしても伝えられない。ボトルの底に残ったスムージーの一滴を見つめたまま、私は無意味に口を小さく開けたり閉めたりしている。まとまらない言葉を頭の中で無理やり砕いてかき混ぜている。
「浩一はさ、夢を叶えるためなら何でもする?」
「もちろん。そうやってわったー比嘉中テニス部はのし上がってきたさあ」
力強い口調から浩一の確固たる意志がひしひしと伝わってくる。浩一ならきっとそう答えるだろうと思っていた。それでも私は、浩一本人の口からその言葉を直接聞きたかった。
「おやすみ、浩一」
「おやすみ。また明日、学校で」
いつも通りの挨拶をベランダとバルコニーにそれぞれ残し、お互いの部屋の窓が静かに閉まる。蛍光灯の紐を引っ張ると、物が若干少なくなった部屋が現れた。一階から漏れ聞こえてくる両親の怒声が止むまで、小さなボトルを抱きしめたままじっと窓の側に佇む。いいから早くボトルを洗わせてほしい。
眠くてたまらない卒業式と長々と続いた最後のホームルームを終え、急いで隣の教室を覗いてみたけれど、浩一の姿はない。湿っぽい泣き声と笑い声がわあわあと響き渡る廊下を足早に通り抜ける。遠くの方からテニスコートをちらりと確認すると、浩一をはじめとする三年生たちが、一年生と二年生の部員たちに囲まれているのが見えた。浩一からよく話を聞いていた例のOBの先輩たちもいる。つまり、今は話しかけるべきタイミングではない。
悩んだ末、私は大人しく校門の近くで浩一を待つことにした。学校銘板と一緒に写真を撮る卒業生たちの邪魔にならないよう、校門から少し離れた場所に立つ。卒業生はみな友人同士や保護者と感慨深そうに会話をしていて、一人きりで過ごしている人は私だけだ。制服の胸元を飾る私の記章が場違いな証に思えてくる。そそくさと安全ピンを外し、スクールバッグのジッパーを開け放ち、わずかな隙間に記章を押し込む。
校門に集まる人々がまばらになった頃、浩一はようやく姿を現した。校門の横に佇む私を一目見て、首から下げたお菓子のレイを揺らしながら一目散に駆けてくる。
「卒業おめでとう」
「卒業おめでとう、浩一」
一生のうちに何度も言う機会が無い類の言葉を口にする。花束を差し出しても何も違和感のないこのタイミングに、私はいつものように洗ったボトルを入れた紙袋を浩一に差し出した。
うららかな日差しが浩一の笑顔とそばかすを鮮やかに彩るのを見た瞬間、私は胸が押し潰れてしまうのではと思うほどの激切な感情に襲われた。何か取り返しのつかないことをしている気分に苛まれた。一生懸命話しているのに、私の声は形になっていない気がする。
「お礼と、それからお別れを言いたくて待ってたの」
「お別れ?」
浩一の表情がにこやかな状態を保ちながらぴしりと凍りつく。私の震い声は浩一の耳にきちんと届いたようだった。
「私、あと数時間後に沖縄を発つんだ。沖縄を出て、大阪の親戚のもとへ行くつもり」
両目をしっかり見つめて、ひくつく喉を意識的に開く。本当は目の前に立っている浩一から目を背けて、情けなく俯いてしまいたかった。浩一を直視することがこんなにも辛いだなんて、その事実だけでもう充分に恐ろしいのに、更に私は浩一から物理的に離れようとしている。
「十五年間生きていても夢とか何も思い浮かばなかったけれど、浩一のおかげでやっと見つかったの。私の夢はね、家族というしがらみから抜け出して生きていくこと。私の人生は沖縄を出てようやく初めて始まるの」
唇をわななかせ息を荒げる私とは対照的に、浩一の強張った表情からはだんだんと緊張が解れていく。そして、すべてを悟ったように目尻を下げ、いつもより明瞭な声でこう言った。
「この前も言ったさあ。わんは、やーの選択を応援するって。ちばりよー」
浩一の応援を聞いた途端に、薄もやが立ち込める脳内がすっきりと晴れ渡っていく感覚を覚えた。誰の許可も受ける必要はないはずなのに、自分勝手な私は浩一に許されたのだと思った。
「ありがとう、私に手を差し伸べ続けてくれて。浩一と過ごす時間だけは生きた心地がしたよ」
カラフルな首元に腕を回すと、浩一も私の肩を抱きしめてくれた。私たちは長い付き合いになるけれど、こうして抱き合ったのは初めてだった。
「やーのこれからの人生に、わんも登場するかや」
浩一は鼻を小さく鳴らし、つい先ほどまではきはきと喋っていた人とは思えないほどのか細い声でつぶやく。浩一が今どんな顔をしているのか分からなかった。泣いているのか、泣くのを我慢しているのか、笑っているのか、もしかしたら全部が複雑に入り混じっているのかもしれない。私だってそうだ。一体どんな顔で浩一を抱きしめているのか分からない。
「出てくるよ。だって浩一は、私のたった一人の友達だから」
喉から込み上げるものを堰き止めずに淀みなく口に出す。私の唇はもう震えていなかった。
「そろそろ行かなくちゃ」
そっと体を離すと、泣き笑いを浮かべる浩一と目が合った。もう一度抱きしめたかったけれど、きっと足に根が張ってしまうだろうから、また一歩分彼から遠ざかる。
「さようなら。またね、浩一。どうか元気でいて」
浩一に背を向け、家とは反対方向の道に向かって歩き出す。一歩、二歩歩いたところで左手をぎゅっと掴まれ、私は驚いて立ち止まった。振り返るとそこには、三年間通った比嘉中の校門と泣き止んだ浩一の姿があった。
「空港まで送るさあ。やーの乗った飛行機が空から見えなくなるまで、わんが見守ってる」
浩一の言葉は握った手と同じくらい心強く響く。生きていて良かったと素直に思える。これからの私の人生に、浩一だけは存在していてほしいと切に願ってしまう。
頼もしい友人の思いに応えるべく、私は「行こう」と笑って頷いた。
2022.04.29
続きます。
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