小説
- ナノ -

魔法をかけた


 クラスメイトのなまえと付き合い始めて一ヶ月ほど経ったある日のこと、俺は彼女からプレゼントをもらった。
 両想いになった日の夜になまえと一緒に見た海辺の満月のように黄色く丸い、手のひらよりも小さな固形石鹸だった。この石鹸を一目見たとき、彼女は真っ先に俺の顔を思い浮かべたと言う。身も蓋もない連想に「それ、わんが坊主頭だからやっし」と苦笑いしてみせたものの、内心はしゃぎ回りたくなるほど嬉しかった。
 あまりにも嬉しすぎたので、いつまで経っても彼女にもらった石鹸を使うことができない。石鹸は消耗品だ。水で湿らせて、擦って泡立てて、体を洗浄するための道具だ。けれど、この愛おしい満月がだんだんと磨り減っていくなんて耐えられない。いっそのこと、ナイフで二等分に切り分けて、半分を実用に、もう半分を永久保存用にしてしまおうかとも思ったけれど、この美しい円を半分に分つなんてとてもじゃないが出来そうになかった。
 結局、石鹸は自分の部屋のタンスにしまっておくことにした。石鹸としての役目を果たせなくとも、視覚と、それから嗅覚で充分に楽しめる。具体的な香料の名前は分からない。ユニフォームとTシャツに挟まれた石鹸は、花屋の前を通りかかったときのような香りがする。いや、花屋よりも先に想起するものがある。彼女はこの石鹸を見て俺を思い出したというけれど、俺はタンスを開けるたびになまえの匂いを思い出す。

「この前あげた石鹸、どうだった?」
 透明なフィルムに包まれたままの石鹸が何の変哲も無いタンスを宝箱に変えてから一週間が経過したころ、なまえは俺にそう問いかけた。電気が消えた放課後の教室に、なまえの透き通った声が響く。俺たちの他にクラスメイトは居ない。俺は自分の席の椅子に座り、彼女は俺の机の上に座っていた。
「ああ、石鹸……」
 うろたえるあまり視線があちこちに泳ぐ。目の前に居る恋人をわざわざ確認しなくても、なまえが期待に満ちた眼差しを向けてくるのが分かる。
「知弥ったら全然感想を聞かせてくれないから」
「わっさんやー、まだ使ってないんばあよ」
 正確には使っていないわけではないが、泡立てたことはないのでそう答えるしかなかった。
「ええー、なんでよー」
 彼女は落胆を隠すことなく不満げに唇を尖らせた。この状況下では口が裂けても言えないけれど、不機嫌な態度も可愛くて惚れ惚れする。
「せっかくお揃いなのに」
「お揃い?ああ――」
 だから石鹸から彼女に似た香りがしたのか。一人で納得した次の瞬間、なまえが俺目がけて身を乗り出してくる。視界いっぱいになまえの顔が迫り、声を上げる間もなくやわらかな唇が重なった。花の香りと彼女自身が持つ匂いがぐるぐると混ざり合って、薄まることなく鼻腔に流れ込んでくる。唇を離すと彼女は「ほら、ね」といたずらっぽく笑った。
 残暑の温い風なんかじゃ冷ませないほどに熱を持った身体がどくんどくんとやかましく脈打つ。素潜りの最中でも、こんなに激しい心臓の鼓動を聞くことはない。
「こらっみょうじ、机の上に座るな!」
 静かな教室に通りかかった担任の怒声が突然割り込む。なまえはしおらしく返事をしながら俺の机から降り、担任が過ぎ去ったドアに向かって舌を突き出すのだった。


2022.03.26
タイトル「さよならシャンソン」様より

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