小説
- ナノ -

美しい世界の閉塞感


※大人設定


 ジャスミンの華やかな香りが鼻腔をくすぐる。照明を消したバスルームをやわらかく包むキャンドルの炎は、換気扇が生み出した空気の流れによって自由気ままに揺らめき、浴槽以外の空間を心地よく演出している。そう、浴槽の中以外は丁寧な暮らしの光景そのものだった。
「やっぱり狭い……」
「やんやー……」
 二人して小さくため息をつく。私たちが居る場所だけがひどく窮屈だ。一人暮らし用の狭苦しい浴槽に大の大人が二人、膝を抱えて向かい合っているのだから。
 こうなることは入浴前から分かりきっていたけれど、「どうしても寛と一緒にお風呂に入りたい」と無理を承知で提案したのは私だった。仕事帰りにふらっと寄った可愛らしい雑貨屋で、後先考えずに瓶入りのアロマキャンドルを買ってしまった。ところが、うなぎの寝床のようなアパートにアロマキャンドルなんて小洒落たものを置くスペースはどこにもない。そういった理由から、仕方なくバスルームの洗面台の上で楽しむことにしたといういきさつだった。
 浴槽にお湯を貯めている間、私はうちに泊まりに来ていた恋人を入浴に誘った。
「せっかくだし、一緒に入ろうよ。なんかキャンドルの炎って眺めてると癒しの効果があるらしいよ、よく知らないけど」
「あぬ浴室に二人で入る?狭すぎて癒しも何もねーらんどー」
「確かにそうだけど!あーあ、寛と一緒に見たいなあ、真っ暗な浴室の中でキャンドルの光が揺らめいてるところ」
「……やーがそこまで言うなら仕方がないさー」
「やった!ね、ちょっと屈んで」
 わがままを聞いてくれたことがたまらなく嬉しくて、体を曲げた寛の頬に背伸びをしながらキスをする。寛もお返しするみたいに私の唇をやわやわと食む。もうすでに幸せだ。購入済みのアロマキャンドルのことを一瞬忘れてかけてしまうくらい、愛おしい恋人に癒されている。

 話は冒頭に戻る。浴槽からお湯が溢れ出しそうだ。なんて窮屈な空間なんだと我ながら最初は呆れていたけれど、じっと観察するとだんだん良い面も見えてきた。まず、水面に映り込むキャンドルの揺らぎは、夜の海に反射する灯台の光を彷彿とさせる。そして、手を伸ばさずとも簡単に寛に触れることができる。「さわってもいい?」と囁くと、寛は黙って頷いた。
 シャープな顔の輪郭を指の腹でなぞり、長い襟足を掻き分けて首の骨を撫で、落ち窪んだ目元に濡れた指先を滑らせる。寛はまばたきもせずにじっと私を見つめていた。その様子はまるで、寛の時間だけがぴたりと止まってしまったかのようだった。
 湯気が立ち込めるバスルームとはいえ、そうやって目をかっ開かれると眼球の乾燥が心配になる。両手の指先で二つのまぶたを閉じてやると、寛はふっと笑い声を漏らした。
「目、そのまま瞑ってて」
 そう言って寛の両耳をゆっくりと塞ぐ。
「こうするとさ、海の中にいるみたいじゃない?」
「ああ」
 寛はまぶたを閉じたまま身を乗り出して私の両耳を塞ぎ返し、静かに唇を重ねた。その落ち着いたキスとは裏腹に水面は激しく波打ち、浴槽からお湯が容赦なく流れ落ちていく。耳元で何かがごうごうと低く鳴り響き、遠くの方から換気扇の音が聞こえた。
 唇と手を離し、示し合わせたようにお互いの体を抱き締める。お風呂で温まった肌と肌とが触れ合うと、どうしようもなく気持ちが良い。
「こうすると海ぬ中でキスしてるみたいさあ」
「狭くて暗くて……まるで難破船だね」
「……やーと一緒なら、沈没しても構わない」
「嬉しい。私もだよ」
 湯量が大幅に減った浴槽の中でもう一度キスをする。私たちは今、岸から遠く離れた海の中に居るのだ。

2022.02.22
タイトル「草臥れた愛で良ければ」様より

back