ラピスラズリの夜
※現代転生
その奇妙な喫茶店とお伽噺の登場人物のような男に出会ったのは、深夜の気まぐれに心をゆだねて家を抜け出した日のことだった。
家を出た時刻は確か午後十時四十分頃だったと記憶している。地平線は街明かりのせいでうっすらと白く、真夜中だというのに、すでに夜明けを彷彿とさせるおかしな空だった。晩秋の冷ややかな夜風を浴びながら、黒に染まりきれなかった紺色の空の下で、昼間とは違う風景に心をときめかせる。
元々、深夜に家の周囲をうろつくことに興味があった。物騒な世の中だから、と自らに言い聞かせ、成人して親元を離れてもなおその夢は実行に移せずにいたが、どういうわけかこの日の夜は妙に目が冴えた。夜更かしをしてまで観たい映画も無ければ、乱雑な本棚から引っ張り出してまで読みたい本も無い。だからといって、布団の中で大人しく意識が途切れるのを待つなんてつまらない。有り余った衝動はむくむくと膨らんで、めでたく深夜徘徊デビューを果たしたというわけだ。
本当は、大通りを抜けた先にあるコンビニをぐるりと一周して家に帰るつもりだった。ところが、コンビニの裏口へと延びる道が気になって仕方がない。この街に引っ越してきて一年は経つが、そこは一度も通ったことのない道だ。マンションやアパートばかりが見える何の変哲もない道に心が惹かれるなんて、妙だと自分でも思う。それでも、解放感のあまりハイになっていたせいか、私はその道を進むことにしたのである。
古ぼけた街灯をたよりに五分ほど歩いた頃だろうか。マンションの群れの間に、商店街とまではいかないが、クリーニング屋やたばこ屋などの店が立ち並ぶ場所に出た。当然どの店もシャッターが下りた状態で、辺りはしんと静まり返っている。アスファルトを踏み締める音だけがいやに大きく響くので、私は息をひそめて歩かなくてはならなかった。
その喫茶店は、すっかり眠り込んだ街並みに突然現れた。煌々と光る建物を遠目に見たときは、居酒屋か何かかと思った。おそるおそる近寄ると、黒い立て看板にはコーヒーや紅茶、オムライスにパスタなど、喫茶店お馴染みのメニューが白のチョークで記載されている。看板によると、どうやらこの店は二十四時間営業らしい。繁華街からは随分離れているというのに、珍しい店もあるものだ。昭和後期の延長線上にパリだかニューヨークだかのカフェをそのまま切って貼り付けたような奇抜さが引っ掛かるけれど、青を含んだ黒い壁と、扉の上から降り注ぐアンティークの外灯が洒落ている。
迷わずドアノブに手を伸ばす。今夜はいつもと違うことをしたかった。私にとって喫茶店とは、遊びに行った帰りに一息つく場所であり、もしくは目的地に早く着いてしまったときに余った時間を潰す場所だった。今の状況はどちらにも当てはまらない。
扉を開けると、ドアベルがカランコロンと可愛らしい音を立てる。店の中は想像していたよりも広く、人気が無い。外観と打って変わって内装の壁は乳白色で、控えめな照明でも暗すぎず、洗練された店内をやわらかく演出している。カウンターの上にいくつか置かれた燭台には火の灯ったろうそくが立ち、店の奥にはアップライトピアノが有った。流れている音楽はたしか、ビル・エヴァンスの曲だろうか。店内から醸し出される空気からバーに似た雰囲気を感じ取り、思わず汗ばんだ拳を握りしめる。
「いらっしゃい。お好きな席にどうぞ」
カウンターの奥から店員と思しき眼帯の男が現れ、すっかり硬直しきった私に優しく声を掛けた。風采の良い男だった。つい先程まで眺めていた明るんだ夜空と同じ色の髪をしている。
「こんばんは」
そう言って軽く会釈をしてから、ひとまず奥へと進み、窓際の席に腰掛ける。大人一人分ほどのスペースを空けたすぐ隣には例のピアノが並んでいた。こんなに距離が近いと奏者も客も気まずいだろう。
もらった水をちびちび飲みながらメニューブックを眺める。料理の写真が一切載っていない、想像力を掻き立てられるメニューブックだった。店先で見たメニューのほかに、プリンアラモードなる心踊る文字や、ずんだ餅といった喫茶店では珍しい料理もある。正直なところデザートがとても気になるけれど、あいにく今は真夜中だ。ぐっと堪えて小さく手を挙げる。
「すみません、注文いいですか」
「お決まりですか」
「ええと、これをください」
「『今夜のハーブティー』ですね。かしこまりました」
注文を受けた店員の男がカウンターの奥へ引っ込んでいく姿を確認し、緊張でぴんと伸びた背中を弛めて背もたれに預ける。ゆったりと椅子に腰掛け、ジャズのレコードを聴きながらお茶を待つ時間はなんとも贅沢だ。
どこかのクラブで録音したライブ盤なのだろう。レコードには食器同士がぶつかる音や人の話し声などの雑音が入っており、ティーポットの蓋を開けて中にお湯を注ぐなどといった今現在の事象から発せられた音と、遠い過去の記録としての音が、渾然一体となってこの空間を震わせている。
「お待たせしました」
混沌とした時の流れに揺蕩っていると、ガラスのティーカップに注がれた青のお茶とレモンの輪切りが運ばれてきた。ティーカップを覗き込み、あまりの美しさに目を奪われる。海の底のような深い青に金粉が散りばめられているのだ。ラピスラズリを液体にしたら、きっとこんな見た目をしているに違いない。カップの持ち手を摘んで持ち上げると、青の中で細かな金が舞い踊り、天井の電灯に反射してきらきらと光った。
「……美味しい」
カップの中でプラネタリウムを上映するようなロマンティックさを持ち合わせていながら、心身ともに安らぐ味がする。男がカウンター越しにこちらを見つめていたので「これ、すごく美味しいです」と声を掛ける。
「お気に召したようで何より。このハーブはバタフライピーといってね、レモンを絞るとまた違った色を楽しめるよ」
男の麗しい笑顔はどこか懐かしく、久々に再会した旧友と話しているような感覚を覚えた。
「忙しくなければ、色が変わるところを一緒に見てみませんか。あなたはきっと見飽きているだろうけど」
「構わないよ。ぜひ見てみたいな」
そう答えた男はカウンターから出てくると、ピアノの椅子に腰掛けた。不思議と気まずさは無かった。
カップの上でレモンを一滴、二滴搾ると、ラピスラズリは青と紫が混じり合った星雲に変化し、三滴目のレモン汁を垂らす頃には赤みを帯びた紫へと姿を変える。
「わあ、全然違う色になった」
美しい色合いに小さく歓声を上げ、酸味のあるお茶を一口飲むと、男の方も嬉しそうに笑った。その柔和な笑みを見るたびに私の胸は淡く痛む。きっと、初対面の彼に誰かの面影を重ねているに違いない。そうでなければ、この心が有りもしない郷愁で悶えるはずがない。
「あなたはピアノを弾くの?」
「たまにね。昔お世話になった人にピアノを教えてもらったんだ。君のように指が細く長い人に」
「そう。聴いてみたいな」
男は私に背を向けて、カウンターの端に置かれたレコードプレーヤーの針を上げた。それが彼の返答だった。ゆっくりとした速度でターンテーブルの回転が止まる。店内に静寂が訪れたのも束の間、今度は鍵盤の蓋を開ける。男の指が鍵盤に触れ、いよいよ演奏が始まるというときだった。
「君も一緒に弾いてみるかい?」
「連弾ってこと?残念だけど、楽器全般全く弾けなくて。楽譜も読めないの」
せっかくのお誘いだが、ピアノどころか何の楽器も弾けないことは事実だった。男は少しだけ寂しそうな表情を浮かべたあと、何かを思いついたのか金色の瞳を輝かせた。片方だけに宿ったその金色は、夜更けに燦々と光る満月のようで、ついつい見とれてしまう魅力を持っている。
「じゃあ、僕が君をエスコートしよう。それなら弾けるはずだよ」
「どうやって?」
「ここに座って」
椅子から立ち上がった男が私の手を恭しく取る。まるでどこかの令嬢かお姫様をエスコートするみたいだ。されるがままにピアノの椅子へ着席する。脇から伸びてきた手が鍵盤の上に乗った。戸惑いを隠せず目を白黒させていると、男は私の耳元で低く囁く。
「僕の手の上に君の手を乗せてごらん」
ためらいながらも言われた通りに自分の手を乗せると、大きくて長い手が鍵盤を滑るように動いた。月明かりにきらめく川をうっとりと眺めているような清らかな旋律だった。ああ、これは、この喫茶店に足を踏み入れたときにちょうど流れていたビル・エヴァンスのあの曲だ。
私自身の力ではないとはいえ、指の下で音楽を奏でる感動のあまり胸が打ち震える。胸を震わせる要因はそれだけじゃない。両手でピアノを弾くのは初めての経験であるはずなのに、どういうわけなのか強烈に懐かしく感じる。ビデオを再生するみたいに、朧げながら愛おしい記憶が頭に広がっていく。子供の頃、いや、もっとずっと昔のことのように思える。私とこの男が共有する記憶を、客席不在の舞台の上で、私とこの男自身が演じているような気がしてならないのだ。おかしな話だが、私はずっと、心のどこかでこの瞬間を渇望していたのではないだろうか。
演奏は長いようで短いような時間だった。男の手が止まってもなお、私の手は男の手の上を降りることなくそこにある。
「私、ずっと昔にあなたと会っているような気がする」
振り返って金色の瞳を見つめると、男は唇の端を優しく曲げて笑った。
「奇遇だね、僕もそう思っていたよ」
「あなたは私のことを知っているの?」
「知っているさ。君の言うとおり、遠い昔の君のことを」
「……私は、あなたのことを何も知らない。でも、会ったことがある。会ったことがあるはずなのに、記憶の隅から隅を探してもあなたの姿がどこにもないの。それなのに、どうしてこんなにも旧懐の情が胸に押し寄せてくるのだろう」
額に手を当てると、潤んだ目から一筋の涙がこぼれ落ちる。記憶を絞り出してもやはり詳細を思い出せそうにない。男はエプロンのポケットから紺色のハンカチを取り出し、そのハンカチで私の目尻を柔らかく拭った。そして、あやすように私に語りかける。
「無理に思い出さなくてもいいんだ。僕はね、君がこうして会いに来てくれただけで充分に満たされているよ」
鼻をすすりながら頷く。同時に、振り子時計の鐘が鳴る。日付が変わったのだ。男は長針と短針がぴったり重なり合った時計を一瞥し、私の髪を慈しむように撫でた。
「さあ、もう寝る時間だろう。夜更かしは肌に良くない」
よろよろと立ち上がり、鞄から財布を取り出すと「お代はいいよ。僕の奢りってことで」と男は朗らかに言った。
男は扉の前まで見送りに来てくれた。迷うような手つきでドアノブに手を伸ばす。後ろから「待って」と切羽詰まった声がして、私は頭だけを男の方へ向ける。
「本当は君を家まで送り届けたいところだけれど、僕はここから出ることができないんだ」
物静かに聞こえる口調は、あちこちにひび割れが生じている。思わず扉に背を向けて男に近寄ると、男は私を抱きしめ、ぽつりと呟いた。その声音には心の中を吐き出すような痛みと、暗闇を照らし出す炎の温もりが同時に存在していた。この人の痛みも温もりも、ひとつひとつこの手で優しく包み込みたいのに、どうして叶わないのだろう。
「僕はね、これからもずっと君の幸せを願ってる。君がまたどこか遠くに行ってしまっても、君の命が尽きても、君が今の君じゃなくなっても、僕は君の幸せを願ってるよ」
男の背中に手を回すと、頬の上に温度を持った唇が落ちてきた。男の熱は私の頬へ心地よく染み込んでいく。
「引き止めてごめんね。おやすみ。気をつけて帰るんだよ」
そう言って男は私の体を解放する。落ち着いた懐かしい匂いが離れていく。扉を開けてもらうと、オリオン座が南天に輝いているのが見えた。
「おやすみなさい。あなたと私、また会えたらいいね」
*
再訪はあの夜の翌週の、仕事帰りの夕方だった。
あの喫茶店の店名が思い出せない。思い返せば入店前から退店まで名前を確認しなかったのだ。それに、大体の住所をインターネットで検索してみても、それらしい喫茶店は見当たらない。
定時で仕事が終わったその日の帰り道に、私はやかましくどよめき続ける心臓の動きに眉をしかめながら、あの夜と同じ道を辿った。マンションの群れを抜けた先にある小さな商店の集まりに足を踏み入れる。
私は呆然と立ちすくんでしまった。そこには、先週の夜とはまるで違う建物が建っていた。おしゃれな喫茶店であることは違いないのだが、店構えがまるっきり違う。古民家を改築したような外観で、いかにも和の雰囲気が漂っている。
おそるおそる店の中へ入ると、仕事帰りの社会人や、ここ近辺に暮らしていると思われるお年寄りたちが席に着き、軽めの夕食をとったり、お茶を飲みながら会話を楽しんでいる姿が見られた。内観も木を基調としており、壁に貼られたメニューの紙たちが年季を感じさせる。店員に案内されて奥の窓際の席に着く。奇しくも先週と同じ位置の席であった。ピアノはもちろん無く、私は肩を縮こめてメニューブックを開いた。
写真付きのメニューブックには喫茶店お馴染みの料理が並ぶ。けれども、当然というべきか、ずんだ餅は無かった。裏表紙には「創業五十年」の文字があり、更に困惑する。おずおずと手を挙げると、案内してくれた店員とは別の店員が席まで飛んで来た。
「お決まりですか?」
「ホットのダージリンをください。ミルクは無しで」
すぐに運ばれてきた紅茶に角砂糖を一つ落とし、ティースプーンをしばらくぐるぐる回す。何が起こっているのかさっぱり分からなかった。あの日の晩、私は夢を見ていたのだろうか。ギター一本で歌い上げたブルースを聴きながら、額に手を当てていくら考え込んでも、夢以外の回答は出てきやしない。
ティーカップの紅茶が残り半分になった頃、目の前で井戸端会議に花を咲かせていたお年寄りたちが席を立つ。あと三十分で閉店時間だった。冷めきった紅茶をさっさと飲み干し会計を済ませて家に帰るべきなのに、下半身は椅子と同化してしまったかのように動かない。
ふと真正面を見ると、扉のすぐ側にある棚の上に鞘に収まった刀が飾ってあることに気がついた。模造刀なのか、真剣なのかまでは判断できない。近くに寄って見ても私に両者の違いは分からないだろう。そもそも、刀をまじまじと見たことなんて一度も無いのだから。それなのに、自分の半生すべてを無視するように、涙が次から次へとぼろぼろとこぼれ落ちる。
混乱する脳の中で、とある名前が浮かび上がる。燭台切光忠。きっと、それがあの夜に出会った男の名前だ。そして、あの男、燭台切光忠は刀だった気がする。笑ってしまうくらいおかしな答えだ。刀が人間の姿をしているはずないのに。それなのに、どうしようもない郷愁と恋情が一気に胸へ込み上げてくる。
涙の波紋が広がる紅茶を一気に飲み干すと、天井に取り付けられた古びたスピーカーから、あの夜の喫茶店で確かに弾いたはずのあの曲が流れ始めた。
2022.01.29
Waltz for Debby / Bill Evans Trio
back