小説
- ナノ -

ゆるやかに、そして


※現代転生、流血、自死、モブ男の描写あり



 無味乾燥なチャイムの音によって起こされるまで、俺はひどく懐かしい夢を見ていた。
 主の下で刀を振い、似て非なる者たちと共同生活を行い、戦に明け暮れていた頃の夢だ。ゆうに百年は経過しているはずなのに、夢の中の俺たちは少しも色褪せることなく本丸で暮らしている。けれども、所詮は一睡の夢だ。かつて現実にあった愛おしい時間は薄氷のように脆く、どんなに願おうとも決して戻ってはこない。
 郷愁に駆られた俺は、目覚めてからしばらくの間、机の上に突っ伏して呆けていた。できることなら半永久的にそうしていたかったが、司書の急かす声に圧されて渋々立ち上がる。図書館の利用時間はとっくに過ぎていた。
 でたらめばかり書かれた歴史書を本棚に押し込み、大学を出て駅へ向かう。暖房が効き過ぎた電車の中は、はしゃいだ学生ばかりで騒々しい。少しでも喧騒から逃れるために鞄の中を漁ってみたけれど、あいにくお目当ての甘酒は一本も入っちゃいなかった。
 乗換駅西口の地下広場が目的地だ。会社帰りの人の群れに飲み込まれないように、いつものように壁に背中を預けてじっと息をひそめる。吹きさらしのバス乗り場から、いくつものビルがひしめきあっているのが見えた。
 なんて平和ボケした街。人の往来とビルに灯る明かりに居心地の悪さを感じて、手元のスマートフォンに視線を落とす。時刻は二十時半。画面には、五分前に来たメッセージの通知が浮かび上がっていた。
『いま会社出た!』
 それから、デフォルメされた猫が走っているスタンプが一つ。それらを確認してスマホをスリープ状態にする。そろそろ来るだろうか。
 足早に改札へ向かう靴たちを眺めていると、視界の端に見覚えのあるパンプスが映った。
「ごめーん、待った?」
 当たり障りのないオフィスカジュアルの服に身を包んだ女だった。きっちりと角の立った四角い鞄を手に持った、会社勤めの女だった。この人のことを、俺は今でも「主」と呼びそうになってしまう。
「あぁ……?今来たところだよ」
 ぐっと堪えて絞り出した声はがさがさに乾いており、やはり酒でも良いから水分を摂っておけばよかったと後悔する。
「ほんと?じゃあ、帰ろっか」
 主は――正確には、この人はもう俺の主ではないけれども――そう言って、人の流れに沿って歩き出す。俺も黙って主の後を着いていく。昔と違って歩幅は俺の方が広いため、すぐに追いついてしまう。身長だって俺の方が高い。
 歴史修正主義者に敗北し、可逆性を失った俺たちは、生まれ変わって血の繋がった姉弟になった。俺は、本丸のどこか牧歌的な空気も、腐って酒ばかり飲んで床に転がっていたことも、戦でこの手を血を染めたことも、腹を貫かれた主が目の前で息絶えたことも、放たれた火が折れた俺たちごと本丸を焼き尽くしたことも、何もかもをいやというほど事細かに覚えているのだが、俺の姉となった主は本丸の記憶を何一つ持っていないらしい。きれいさっぱり忘れていた方が、思い出に縛られることもなく、苦しまずに済むのだから、その方が良いに越したことはないけれど、少し寂しい気もする。いや、寂しさを通り越して、ときどき恐ろしくなる。まるで俺だけが生き残ってしまったかのような孤独と、もしまた主を失ってしまったらという強烈な恐怖。ここは戦の道具としての刀剣を必要としない世界だ。だから、俺はただ主の側に在る。
 主の話に当たり障りのない相槌を打ちながら、淀んだ考えごとで脳みそを痛めつけていると、あっという間に閉店一時間前のスーパーに辿り着く。
 大学やバイトの帰りに、退勤した主と合流し、自宅の最寄り駅周辺のスーパーで夕飯用の惣菜を買って帰る。飲み会などの予定があれば各々で帰宅する。これが俺たち姉弟の日常だ。
 かごの中には唐揚げ、サラダ、里芋の煮物が入っている。夕方に見た夢のせいか、あまり食欲がなく、特に食べたいものが思い浮かばなかったため、メニュー選びは主に任せることにした。日本酒の棚に立ち寄り、ワンカップの隣に並んだ甘酒を三本、そのかごへ放り込む。食欲はなくとも、アルコールを摂取することは忘れない。
 日本酒の棚の裏へ回ると、ちょうど主がビールを持ってこちらに戻ってくるところだった。本丸にいた頃はめったに酒を飲まなかった主も、今ではビールとワインが大好きな酒飲みと化している。ここに次郎太刀や日本号が居たら大喜びだっただろう。その二振りはおろか、俺以外の刀剣男士の来世での足取りは全く掴めずにいるのだが。
 会計を済ませて帰路につく。スーパーから五分ほど歩いた場所にある築十年のマンションが俺たちの今の家だ。
 うちに着くやいなや、主は玄関でストッキングを脱ぎ始め、それをぐちゃぐちゃに丸めてゴミ箱に捨てた。俺は先に手を洗って、冷凍庫の中で石積みのようになっている小分けのご飯を二つ掴み、電子レンジにぶち込んで解凍する。面倒なので、ご飯はほぐさない。
 板状のご飯の塊が入った茶碗と箸を持って居間に足を踏み入れると、主が食卓の上に惣菜と漬物を並べているところだった。
「あーお腹すいた。ねえ、唐揚げにレモンかけていい?」
「勝手にしろよ」
「じゃあかけちゃお。いただきます」
 プラボトルに入ったレモン果汁をかけた唐揚げを頬張る主を横目で見やりながら、電子レンジで温めた甘酒を半分ほど飲み干す。相変わらず食欲は無い。しかし、手を付けないと主に余計な心配をかけてしまうだろう。仕方なく、ちんまりとした里芋を一つ口に含み、漬物をおかずに米をかき込む。俺の今晩の夕飯は、里芋一つと漬物と米と甘酒だけで終了するかもしれない。
「でね、その人がすっごく優しくて。仕事もバリバリできるし顔もかっこよくてさー」
 主の話題は、いつの間にやら先週部署異動してきた同僚の男の話になっている。どうやら、主はその男のことを好いているらしい。すでに酔いが回っていた俺は、大げさにため息をつき、だらしなく背もたれに寄りかかった。
「それじゃあ、そいつといい関係になったら、俺はこの家から摘み出されるわけか。それか、あんたがこの家から出て行くか」
「一緒に暮らすとは限らないでしょ。……というか、そもそもまだ付き合ってすらいないんだから」
「どうだかなぁ、ひっく……」
 勢いに任せて残りの甘酒を喉に流し込むと、ついに視界はぐにゃぐにゃと歪み始める。どんなにアルコールを注いでも心は満たせない。そんなこと、とっくの昔から理解しているはずなのに、俺は今でも酒に浸って溺れている。
 主が風呂に入っている間、気分が悪くなった俺はトイレで何度か吐き戻した。酔いが覚めた途端、主がどこか遠くへ行ってしまう予感がして、急に恐ろしくなったのだ。本丸での俺たちは時間遡行軍に敗れて一旦は死んだはずなのに、あの日が今日まで地続きになっている気がしてならない。

***

 駅の地下広場に置かれた電子時計をふと見上げると、二十時を二分ほど過ぎたところだった。いつもの場所でいつものように主を待つ。
 ちぎれ落ちそうな赤い指先を厚手のコートに突っ込んで細く長く息を吐くと、吐いた息が淡く白んでいく。数日前から寒波が押し寄せたために、身体の芯から凍えてしまいそうなほど寒い。
「お疲れー、待った?」
 いや、だから待ってねえよ。主の朗らかな声にいつもの調子でぼやこうとして、はっと口を噤む。
「こんばんは、君が彼女の弟さんだね」
 見ると、背が高く利発そうな男が、俺に向かって微笑みかけていた。鋭利な刃で胸を刺されたような衝撃が走り、さっきまで冷え切っていたはずの額にじわりと汗が滲んだ。語らずとも分かる。この男だ、主が話していた意中の同僚は。
 無視を決めこもうかとも思ったが、主に対して少しだけ罪悪感を覚えたので、ぎこちなく会釈をする。
「いつも一緒に帰っているんだって?しっかりした弟さんだ。君は良い弟を持ったね」
「そうなの。私の自慢の弟だよ」
 せっかく主に褒められたというのに、俺は光の届かない沼地に足を取られてずぶずぶと沈んでいくような心地になった。今すぐここから立ち去るか、いっそのこと頭まで沼地に飲み込まれて消えてしまいたい。
 失意に陥る俺を置き去りにして、二人は仲睦まじく会話を続け、改札の前で手を振って別れていった。あの男が別の路線で本当に良かった。もしも同じ路線で同じ方面だとしたら、家の最寄駅まで俺の居場所はどこにも無い。
 その日の晩酌での主は、酒を多めに飲んだことも相まって、いつも以上に機嫌が良かった。チーズと生ハムをつまみにワインをがぶがぶと飲んだ主の顔は、恐らく普段の俺の顔よりも赤らんでいる。やはりというべきか、あの男と付き合い始めたらしい。
 いつまでもむくれている俺を面白がっているのか、主はうんうんと頷きながら、出来上がった声でこう言った。
「寂しいの?分かるなあー。私も友達に彼氏が出来たときはさあ、ぽっと出の男に友達を取られたみたいで悔しいやら寂しいやら」
 中途半端に共感されると正直腹が立つ。本丸での出来事は俺しか覚えていないのに、当時の記憶が抜け落ちたあんたに何が分かるのか。分かったふりをしておきながら本質を理解しないことは、どんなに研がれた刀よりも深く鋭く人の心を傷付けるのだ。
「……そんなんじゃない」
「そう?でもこの家から出ていく予定も、あなたを追い出す予定もないからね。大丈夫」
 その言葉を聞いて、俺は返答に窮してしまった。あの日、自身の血だまりに横たわった主は、泣きじゃくる俺に「大丈夫」と小さく呟いたのだ。主のグラスに注がれた赤ワインを見ていると、腹の傷を塞いでも塞いでも流れ出る主の鮮血を思い出す。大丈夫なことなんて何もない。
 塩辛い生ハムを残り少なくなった甘酒で流し込み、自分で使った皿を持って勢いよく立ち上がる。とろけた目つきの主と視線がぶつかりあうと、どういうわけかじわじわと嫌悪感が込み上げてきた。
「先にシャワー浴びるぞ」
 皿を洗いにキッチンへ向かうと、背後から「いってらっしゃぁい」と陽気な声がした。
 それからというもの、俺が乗換駅の地下広場に立つ回数は週に三日か二日程度になり、主と過ごす時間は少しずつ減っていった。話を聞く限り、主とあの男は相当馬が合うらしい。好きな映画のジャンル、食の好み、価値観――挙げればきりがない。
 最初こそ、主がどこか遠くに行ってしまうような、どうしようもない不安に苛まれたが、数ヶ月も経てばそれもだんだんと薄まっていく。今の俺たちは主従の関係ではなく、人間の姉と人間の弟なのだ。姉は姉の道を、弟は弟の道をそれぞれ進まなくてはならない。主の恋路を前向きにとらえているわけではない。そう思いながら酒を飲まないと、俺はとてもじゃないが生きていけないのだ。

***

 その日は三日ぶりに主と帰宅する予定だった。
 まだ朝晩は冷え込むというのに、花金で浮かれ気分になった会社員たちが次から次に流れ込んでくるせいで、地下広場は異様な熱気に包まれていた。彼らはきっと、これから歓楽街の居酒屋で飲み倒すのだろう。
 こんなに人がうじゃうじゃと集まっているのに、肝心の主はいつまで経っても待ち合わせ場所に現れない。送ったメッセージは三十分もの間未読のまま微動だにしない。主の会社は原則二十時以降の残業は禁止されていたはずだ。この時間帯ならすぐに返信が返ってくるのに、と眉をしかめる。電話をかけてみたけれど、やはり応答はなかった。
 ここまで何も連絡がないことを考えると、ひょっとして主の身に何か良からぬことが起きているのではないか。いやな想像が頭をよぎった瞬間、俺の体は動き出していた。人の流れに逆らい、地下道を抜けてオフィス街へ足を進める。主の会社は一度だけ来たことがある。まだ主が新卒だった頃、家に忘れた弁当をビルのロビーまで届けに行った。記憶を頼りにひたすら走る。
 オフィスビルの前まで来ると、行き交う人はまばらになり、辺りは車が走る音だけが鳴り響いている。ビルの入口に足を踏み入れると同時に、自動ドアから人が出てきたため、俺は思わず小さく声を上げた。ドアから出てきたのは、うちの玄関でよく見るパンプスを履いた女だった。
「あ、あのなあ!俺は、あまりにも遅いから迎えにきてやったってだけで……」
「ありがとう」
 聞こえてきたのは、酔っ払い相手の返答とは思えないほどの、消え入りそうなか細い声だ。ビルの照明に照らされた主は、腫れぼったい目で俺を見つめている。
「連絡、返せなくてごめんね」
「そんなこといいから。帰るぞ」
 何かあったのか、とは聞けなかった。あまりにも傷ついて、混乱している。話などできる状態にないことくらい、容易に想像がつくからだ。
 誰も口を開かない帰り道は実に静かだった。笑い声や怒号が飛び交う電車内で、俺たちだけが世間から切り離されたみたいにひっそりと座っている。
 酒気を帯びた電車から降り、スーパーで適当に買い物をして、玄関で靴を脱いでもなお、俺たちはまだ沈黙したままだった。甘酒の蓋を開けてみたはいいが、今日に限ってなかなか進まない。
 惣菜の厚焼き玉子が残り半分になった頃、主は重い口を開いた。今日、あの男に別れを告げられたらしい。男には婚約者がおり、来週からはその婚約者がいる会社に転職するのだと。
「甘酒飲まないの?飲まないなら貰ってもいい?」
 すべてを話し終えた後、主は一度しか口を付けてない甘酒を欲しがった。ためらいながら頷き、甘酒の瓶を主の方へ寄せる。すっかりぬるくなった甘酒を一気に飲み干すと、主は浴室に吸い込まれるようにして居間から出ていった。
 その生気のない後ろ姿がまぶたの裏に焼き付いて離れない。日付が変わってしばらく経つが、布団の中でずっと浅い睡眠を繰り返している。夢すら見なかった。目を覚ますたびに、主を弄んだあの男への怒りで胃が焼き切れそうになり、疲労のあまりうとうと微睡むと、あともう少しだけ主の側に居られるという安堵感に浸りながらも、次第に、その安堵感が持つ根腐れした木のような不安定さに恐怖する。
 もう何度目の覚醒だろうか。かいた寝汗は寝巻きのジャージをぐっしょりと濡らしており、背中が湿って気持ちが悪い。ベッドサイドに置かれた時計の針は四時四十五分を指している。目を覚ましたきっかけは、危惧の念によるものではなく、隣にある主の部屋から聞こえてきた物音だった。
 最初はトイレにでも起きたのかと思った。土曜日に起きるにはまだ早すぎる時間だったからだ。重ねた枕にずきずきと脈打つ額をうずめ、睡魔がやってくるのを祈るような気持ちで待っていると、今度は玄関の扉が開閉する音が聞こえてきた。慌てて部屋の窓に駆け寄ると、暗がりの中、街灯に照らされた主の後ろ姿が、駅の反対方面へ歩いていくのが見えた。そっちはコンビニくらいしか行くあてがないはずだ。では主は、こんな朝早くにコンビニに用があるのだろうか。さっぱり分からない。けれども、なぜだか胸騒ぎがした。
 クローゼットの前にあったコートを引っ掴み、主の背中を追うべく外へ出てみる。春先とは思えないくらい冷え切った風は、顔や耳などの露出した皮膚を肉ごと抉るように吹き抜けていく。街灯は点いているはずなのに、鬱蒼とした獣道に足を取られながら手探りで進んでいるかのような感覚に陥る。走って行けばすぐに主に追いつくのに、手足が錆びついてうまく動かない。
 やっとの思いで辿り着いた場所は、マンションからそう遠くない距離にある歩道橋だった。その歩道橋の上で主は、上着も羽織らず、薄闇に包まれた街をじっと睨みつけている。
 このまま頂上まで登ろうか登るまいか、そして声をかけようか止めようか、半分ほど登った階段の上で迷っていると、何かがぎしぎしと軋む音がした。とっさに残りの階段を一段飛ばしで駆け上がる。そこで俺は百数年ぶりに、喉が震え肌が粟立つあの耐えがたい恐怖を味わうことになった。
 つまり、橋の上で不協和音を立てたのは、さっきまで平和ボケした街に強い眼差しを向けていたはずの女だった。フェンスによじ登った主の体は前方に傾き、今にも車道へ落ちてしまいそうだ。全身の血が恐ろしい勢いで引いていく。それでも、凍てついた身体は考えるよりも先に動き出した。俺は喚き叫びながら半狂乱で突っ走った。刀剣男士だった頃と比べれば、今の体はあまりに弱く、脆すぎる。脆すぎて足が引き千切れてしまうんじゃないかと思うくらい走った。
 回転しかけた主の腰にしがみつき、無我夢中で引き摺り下ろす。激しく抵抗されるかもしれないと一瞬思ったが、蝶結びの紐を解くような容易さでフェンスと主の体は離れていく。主の踵が橋の上に着いたのを確認すると、今度は膝が震えて足に力が入らなくなり、俺は主を抱えたまま仰向けに倒れ込んだ。呼吸は激しく乱れ、心臓が早鐘のように鳴り響いている。下で大型トラックが通ったのか、歩道橋がガタガタと振動した。あのトラックに轢かれていたかもしれないのかと思うと、心底ぞっとする。
 青白く明るんだ空を見上げ、息を整える。こうやって寝そべると、交通量の多い道路がすぐ下にあるにもかかわらず、この世界で生きている生き物はたった二人だけのような、そんな気がしてしまう。いいや、俺は生まれ変わってこの身に生を受けてからからずっとそうだった。世界に俺たちは二人だけであり、それなのに俺は孤独でもある。
 腕の上に寝転んだ主を支えながらゆっくりと上体を起こし、羽織っていたコートを主の肩にかける。主は俯いたまま、「どうして」と小さく呟いた。垂れた髪の束が邪魔をするせいで表情を窺うことはできない。小刻みに震える手を両手で包むと、主の肩が静かに揺れた。
「助けるに決まってるだろ、目の前で姉が飛び降りようとしてるんだから。それともなんだ?助けちゃいけないのかよ。俺にあんたを見殺しにしろと?」
「不動行光」
 凛とした声音に思わず身体が強張る。その名前で呼ばれたのはいつぶりだろう。ようやく顔を上げた主は、困ったように眉を下げ、目尻に涙を溜めながら笑っていた。いくつもの感情が混じり合ったその表情は、今際のときの主が見せたものとよく似ていて、俺はまた呼吸が苦しくなる。約百年ぶりに再会したというのに、いつかもう一度話をしてみたいと密かに願っていたのに、今は悲しくて仕方がない。
 主の両手は弱々しい手の中からいとも簡単にすり抜けて、昔してくれたみたいに俺の頭を愛おしげに撫でた。その優しい手つきとは裏腹に、かつての主は残酷極まりないことを言う。
「私はダメな主でした。私の力が及ばなかったせいで、皆も、あなたも折れてしまった。不動に守ってもらう資格など、私にはありません」
 主の瞳の奥に、ダメ刀が、刀剣男士だったころの俺の姿が朧げに映る。酒のせいか、寒さのせいか、泣きじゃくったせいか、それとも涙を我慢しすぎたせいか、過去と現在を乱暴に掻き混ぜたその顔はいつも以上に赤らんでいた。
「あんたが何を言おうと、俺は……もうあんたを失いたくないんだよ。あんなの二度とごめんだ」
 半ば縋り付くように、俺は主を抱きしめた。外気に晒されたコートは冷たかったが、主の首筋からはほんのりと体温を感じる。俺は恐ろしい。この柔らかなぬくもりが徐々に冷たくなっていくことが、たまらなく恐ろしいのだ。
 頭の上に置かれたままだった主の右手は、ためらいがちに宙をさまよい、やがて、左手と共に俺の背へ静かに寄り添う。了承を意味する行為なのか、それともただ俺をなぐさめるためなのか、沈黙の中からすべてを理解することはできない。
 主の背後には、明けの明星を焼き尽くすような朝焼けが広がっている。涙で揺らめくその朝焼けは本物の炎のように見えた。歩道橋の下を通る大型車の音と振動は、燃え上がった本丸が崩れ落ちたときの轟音を思わせる。これは数ヶ月前に見た夢の続きだろうか。それとも、俺たちはまた時を遡っているのだろうか。本丸と仲間と主を一度に失った終末の火が、寝ぼけた街を照らし出すあの憎らしい朝焼けとぴったり重なった。


2021.12.10
タイトル「草臥れた愛で良ければ 」様より

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