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潮時のお告げ


 朝方の海辺がこんなにも沈黙するものだったなんて、この離島に引っ越してくるまで知らなかった。静まり返った朝凪の海を横目で見やりながら、車一台通らない道路橋をひたすらてくてくと歩く。ローファーに映り込むぼやけた青色は空のものだ。ここ数日は雨がほとんど降っていないような気がする。沖縄もそろそろ梅雨明けか。
 十分ほど黙々と歩みを進めると、橋の向こう側――本島の十字路が見えてきた。クバの木の下で、金髪の幼馴染がひらひらと舞うように手を振っている。
「はいさい、なまえ」
「凛!おはよう」
 小さく手を振って凛の隣を歩き始める。並びだす二人の足を目で追うのが好きだ。私より凛の方が、足のサイズが圧倒的に大きい。
「やー、ちゃんと前見て歩け。そんな歩き方だといつか転ぶんどー」
「はいはい、ご忠告どうもありがとうございます」
 凛の心配をあしらうように跳ね除けて見せるけれど、本当は、心の中で飛び上がるほど喜んでいる。テニス部の朝練がない日にこうして橋の前まで迎えに来てくれることも、私を気遣ってくれることも、すべてが嬉しくて、爪先が浮いてあの雲まで到達してしまいそうだ。
 もともと、私たちは家が隣同士だった。親同士の仲が良かったため、私たち二人は自然と幼い頃から遊ぶようになり、ときどきケンカをして、友情を育んできた。三ヶ月前に私たちが離島に越してからも、凛の家族と私の家族との交流は続いている。そういうわけで、引っ越したことによって一緒に登下校する友人たちを失った私の現状を、凛は親伝いで耳にしたらしい。
 四月から週に一回、橋の前に生えるクバの下で凛が私を待つようになった。凛の家から離島までは歩いて三十分もかかる。最初は私も「部活で忙しい凛の時間を奪うのは申し訳なさすぎるから」と断っていたが、それでも凛は「週に一回くらい許容範囲さあ」と笑い、頑として譲らなかった。
 凛の性格を鑑みて煮え切らない気持ちでいたけれど、今では通学路を共に添う相手がいることに感謝している。週に一度の朝だけでも、誰かと他愛ない話をしながら学校に行けるのはありがたい。それも、一番心を許している凛と一緒に登校できるなんて。
「もう梅雨が明けそうやんやー」
「ね。今週中には梅雨明けが発表されるんじゃないかな。ああ……夏が来るのやだなあ」
「なまえは夏に弱いからやー。ちゃんと水分摂れー」
「ありがと……。その言葉だけは素直に受け取っておく」
 頬に熱が集まっていく。火照った頬を冷やしたいときに限って無風だなんて、本当に運が悪い。
 この二ヶ月間ではっきりと分かったことがある。私は凛のことが、恋愛的な意味で好きだ。低くハスキーな声も、まばゆい日差しを受けてシルクのようにやわらかく輝く金髪も、おしゃれに対する飽くなき探究心も、テニスに打ち込む姿も、荒々しく見えて実はやさしい心根の持ち主であるところも、平古場凛を構成する要素のひとつひとつがたまらなく愛おしい。日に日に大きくなっていく恋慕の情は、私の心と体を確実に蝕んでいく。心身に染み込んで今にも溢れそうな感情は、にじみ出る激しい熱情は、一体どこへ向かうのだろう。思うに、想いが決壊したそのときが告白の頃合いなのではないだろうか。
 しかし、タイミングを頭で理解できていても、これから確実に行動を起こせるとは限らない。もしも、私が凛に告白して失敗に終わったら?それによって幼馴染のほど良い関係が跡形もなく崩れてしまったら?最悪のケースを思い煩うたび、頭を抱えて橋の下の砂浜にうずくまりたくなる。
「じゃあな。ちばらやー、なまえ」
「うん、凛もね」
「おう」
 また本心を打ち明けられないまま教室の前に着いてしまった。凛と私は別々のクラスなので、ここでお別れだ。次に凛と登校する日まであと一週間。テニスで忙しい凛と会話するチャンスもまた、あと一週間だ。今日からふたたびカウントダウンが始まる。

 機会は想定した時間よりも早く訪れた。自習ですっかり遅くなった帰り道のことだった。
 一緒に校門を出た友人たちと早々に別れ、西へ傾いた茜色の太陽を目印にするように帰路につく。物悲しいこの時間帯は苦手だ。薄暗い街並みと影のように真っ黒な樹木に足を取られて、夜の方へずるずると引きずられるんじゃないかと思う。のろのろと重い足取りで歩いていると、後ろから人に声を掛けられた。
「おい」
 突然のことで、「ひっ!」と情けない声が飛び出る。おそるおそる振り返ると、そこには部活帰りと思われる幼馴染の姿があった。
「あ……なんだ凛かあ、びっくりしたー」
「びっくりしたのはこっちの方さー。でかい声出すな」
「ごめんごめん。いきなり後ろから話しかけられて驚かない人は居ないって」
「はいはい、今度から気をつけますよー。それにしても、帰宅部のやーがこんな時間に帰ってるなんて、珍しいな」
「そろそろ期末テストでしょ。友達と一緒に自習してたってわけ」
「あー、テスト……。あんまさい……」
 隣を歩き始めた凛を見上げる。部活で海に潜っていたのだろうか。髪が湿っているせいでいつもよりボリュームがない。一瞥するだけのつもりだったけれど、私の目は凛の金髪に視覚を奪われてしまう。
 夕日に照らされた髪は色鮮やかに輝く黄金みたいだ。焼けた空と蕩けた陽光を受けた金髪は、こんなにも幻想的な色を放つのか。
「ぬーがや」
 見つめ過ぎたせいか、居心地悪そうな凛と目が合う。
「髪の毛が濡れているなあと思って」
「部室にドライヤーが無いんばあよ。仕方ないさあ」
「風邪ひくよ」
「なまえと一緒にすなー」
「何をーっ!」
 やっと笑った。まだうっすらと子供の面影を残す凛の笑顔を見ていると、二人で無邪気に遊んでいた幼い頃を思い出す。こちらも心がやわらいでいくようだった。
 離島と凛の家との分かれ道に差し掛かると、凛は立ち止まり、私の方に向き直る。私も歩みを止めて向かい合うように立つ。
「……もうすぐ日が落ちる。送っていくさー」
「……いいの?」
 慌てふためく私を見て、凛はまた笑う。今度は余裕ぶった笑顔だった。
「いいも何も無いやっし」
「ありがとう……」
 さっさと歩き始めた凛の後ろを小走りで追いかけ、喜びをひっそりと噛み締める。あなたと一緒に過ごせる時間が長ければ長いほど嬉しいと、目の前の幼馴染へ素直に告げたとしたら、彼は私を鬱陶しがるだろうか。伝えた途端に終わりが来てしまうのなら、やはりこの気持ちは言えない。
 いつものクバの木の横を通り過ぎ、離島に架かる橋に足を踏み入れる。凛の家族全員が家に遊びに来ることはあれど、凛と一緒にこの橋を渡るのは初めてのことだった。十年近い付き合いの仲でも、まだ経験していないことがたくさんあるな、とぼんやり思う。
「おー、でーじダイナミックな夕焼け」
 凛の視線の先には、夕凪の穏やかな海と、鮭の切り身のような雲がいくつも浮かんでいる。思わず「シャケみたい」と正直に口に出すと、凛は吹き出して「言えてる」と同調した。
 数メートル先にさとうきび畑が見えてくると、まもなく離島側に着く。なんだか不思議だ。橋を渡り終えるまでの約十分間が、こんなにも短く感じる。
「ねえ、凛」
「んー?」
「凛はさ、どうして私にここまでしてくれるの」
 すぐに、この話題は失敗だったかもしれないと後悔した。薄暗い中でも凛の唇が真一文字に結ばれているのが分かる。重い沈黙に気まずさを覚えた私は、視線をさとうきびの生え際あたりまで落とした。送り迎えは彼の厚意なのだから、わざわざ自分に都合の良い理由を探る必要なんてなかったのに。それでも私は、凛の時間を消費――もっと悪くいえば、幼馴染という存在によって凛を拘束する罪悪感がある。心の内では凛に嫌われたくないと私が叫んでいる。
「ごめん、なんでもない」と言いかけた次の瞬間、凛が私の手を掴んで、そのまましっかりと握りしめてきた。テニスラケットを振り続けているせいなのか、ところどころ皮膚が硬くなっているのが分かる。でも、温かな手だ。
 凛と手を繋いだのは何年ぶりだろうか。あまりのことに目を白黒させていると、凛がようやく口を開いた。
「小学一年生の頃、留守番中のやーが泣いて俺に電話してきたのを覚えてるか。ひとりぼっちで居るのが寂しい、って」
「あ……」
 おぼろげながら記憶がよみがえってくる。まだ学童保育が無い期間――小学校に入学して間もない頃の話だ。私の両親は共働きだったため、学校から帰ってくると家には誰も居なかった。最初の数日は父か母が夕方には帰って来たものの、その日はゴールデンタイムのアニメが終わっても両親が帰宅せず、落ちた太陽をうらめしく思いながら真っ暗な玄関で泣いていたのだ。寂しさが募った私は、玄関の電話で隣の家に住む幼馴染に連絡を取った。そうだった気がする。
「驚いたさあ。やーの家の呼び鈴を押したら、暗闇の中からなまえが出てきて。しかもまだ泣いてて……」
「お父さんとお母さんが帰って来るまで、凛が隣に座って一緒に待ってくれたんだよね」
「やっさー」
 凛がくつくつと楽しそうに笑う。なんだか気恥ずかしい。
「やーは、なんていうか……同い年なのに妹みたいな存在なんばあよ」
「妹?私が?」
 風が吹き込み、さとうきび畑がざあざあと音を立てて大きく揺れ動く。凛の言葉の続きを期待したけれど、結局彼はその後を一切語らず、進展がないまま家に着いてしまった。
「送ってくれてありがとうね」
「歩くのもトレーニングの一環さあ」
「なんか運動部って感じ」
「運動部やっし」
 踵を返す凛の髪の毛が、いつの間にか乾いていることに気がつく。鮭色の夕焼けはすっかり紺碧に染まっていた。

 妹みたいな存在って、それはつまり、凛は私のことを恋愛対象としては見ていないということだろうか。
 問題集を解くときも、就寝前も食事中も、湯船に体を沈めてリラックスできるはずの入浴時間でさえ、凛の放った言葉は頭にいつまでも居座り続けている。せめて勉強中は集中したい。中学三年生の成績は内申に大きく関わるのだから。
 恋愛感情を振り払うように、夜遅くまでシャーペンを走らせる。脳をくたくたに疲れさせてしまえば、凛のことをあれこれ想わずに済むと考えたのだ。それなのに、期末テストが始まっても頭の片隅には凛が居る。こんなに苦悩するのなら、いっそのこと腹をくくって告白して、スッキリした方が精神衛生上良いのではないかと考え始めてしまう始末だ。
 期末テストの最終科目を終えた後、すぐに家へ帰る気分になれなかった私は、気晴らしに橋の真ん中から澄み切った海を見下ろすことにした。テストが終わったにもかかわらず、テンションが地面すれすれまで低くなってしまうなんて、初めての経験だった。子供たちがはしゃぎ回る砂浜には、観光客が書いたと思しきハートマークがひとつ、徐々に波に飲まれながらもなんとか形を保っている。私にも砂浜に凛の名前を書いて堂々と告白するくらいの度胸があれば、と自分の不甲斐なさを憂う。何の気晴らしにもなっていない。
 憂鬱を抱えたまま、どこまでも青く涼しげな海を眺める。遠くでは本島の山々が連なり、その手前で那覇行きの船が通航するのが見えた。ため息をついても、吐いた息を海風が包んで波の音が掻き消してくれる。そう思い込むだけで心がほんの少しだけ軽くなる。
 肉眼で船が見えなくなった頃、海面に金色の頭が浮き沈みしていることに気がついた。目をこらしてみる。もしや、と察すると同時に、金色の人がこちらに向かって手を振ってきた。間違いない、凛だ。ぎこちなく振り返すと、凛はあっという間に岸まで泳いで海から上がり、砂浜を走り抜け、橋に続く階段へ向かう。まさか凛がこの海で泳いでいるなんて。体温が急激に上がっているのが分かる。さっきまでさほど気にならなかった太陽の光が、今は甚だしく煩わしい。
「帰らないんばあ?」
 離島側から橋を渡って来た凛が私の隣に立つ。タオルを頭に乗せただけのびしょ濡れな幼馴染を、横目でちらっと確認する。いつもは反対方向に居る彼が私の家の方向からやってきたのかと思うと、新鮮な気持ちになる。
「そろそろ帰ろうかと思ってたけど、もう少しだけここに居ようかな。風が涼しくて気持ちいいし」
「顔真っ赤やしが」
「気のせい。……うそ、気のせいじゃない」
 欄干に乗せた震える手をぎゅっと固く握りしめる。体ごと向きを変えて凛を見据えると、凛もつられて真剣な表情を浮かべた。
「私ね、凛のことが好き。凛を兄みたいだと思ったことなんて、一度もないよ」
「なまえ……」
 食ってかかるように距離を縮める。タオルで影になった目元がまん丸に見開かれている。もう後戻りはできなかった。
「悪かった、妹みたいなんて言って……。やーへの気持ちをどう表現していいのか、分からなかったんばあよ」
 私の勢いに圧されたのか、ばつが悪そうに語る。凛はしばらく口を噤んだ後、私の両肩を掴んで体を引き寄せた。
 あっと声を出す間も無く、私の熱っぽい唇に凛の濡れた唇が重なる。驚いて今度は私が目を見開いていると、唇はすぐに離れていった。自分の身に何が起こっているのか理解できない。
「俺もなまえのことがしちゅん。俺と付き合ってくれ」
「本当……?!」
「ああ、じゅんにどー」
 こんなに嬉しいことがあるなんて!心がボールのように弾んで身体が踊り出してしまいそうだ。喜びのあまり凛に抱きつこうとすると、慌てた凛が「やーの制服が濡れる」と制止した。
 抱きしめる代わりに、ふたたび唇を重ねる。先ほどは一瞬のことで気がつかなかったけれど、海から上がったばかりの凛の唇は潮の味がする。そして、鼻先の冷たさが心地よい。味わうようにキスをしていると、砂浜の方から黄色い声が上がった。
「あーっ!!あのにーにーとねーねー、ちゅーしてるさあ!」
「アッツアツやっし!!」
 子供の甲高い声にぎょっとして体を離す。砂浜で遊んでいた子供たち数人が、こちらを指差して無邪気に騒いでいるではないか。
「あーあ、邪魔が入ったな」
「うちに来て髪の毛を乾かしなよ。ドライヤー貸してあげる」
「行く」
 凛がいたずらっぽくにやりと笑う。海から吹くさわやかな風を身に包み、私たち二人はさとうきび畑の方へ歩き始めた。


2021.10.02
タイトル「草臥れた愛で良ければ」様より

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