小説
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センチメンタルブルー色


 本丸で過ごした最後の日のことは、今でも鮮明に覚えている。審神者の役目を終えてから八年が経過してなお、ふとした瞬間、あの秋の末のほどよく冷えた空気を思い出す。正史を守りきった私たちに対して、時の政府から下された最後の命令は「本丸の解散」だった。



 その日はさわやかな晴天で、本丸の外では庭の紅葉が乾いた風に吹かれてひらひらと舞っていた。掃いても掃いても落ちてくる秋色の枯葉、畑の上を自由に飛び交うトンボたち、天高く浮かぶ雲。きっと、あの秋空の雲はどれだけ手を伸ばしても掴めはしないだろう。

 大掃除のさなかのことだ。障子の桟のほこりをはたきで落としていると、小夜左文字に声を掛けられた。
 胸元にやった傷だらけの拳は、なにかを大切そうに握りしめている。やや俯いた顔からは彼の表情が読み取れない。屈んで彼の顔を覗き込むと、泣き腫らしたように充血した目と私の視線が交わった。心臓のある位置が抗えない力で握り潰されたようにきりきり痛む。深傷を負って帰還したときでさえ、涙ひとつ零さなかった小夜が、今にも泣き出してしまいそうな目で私を見つめている。その瞳は、水をなみなみと注いだ青いびいどろの器とよく似ていた。
「これ。あなたにあげる」
 小夜の小さな手から差し出されたのは、二つの平べったい種子だった。このしずく型の種子には見覚えがある。これは柿の木の種子だ。
 受け取って手のひらの上で転がすと、指先大ほどの種子から小夜のやわらかな温もりを感じた。寒々とした風から種子と小夜から受けた体温を守るように、そっと種子を包み込む。種子は人肌よりも低い温度であるはずなのに、手の中は陽だまりのようにあたたかい。
「ありがとう、小夜。あなたと同じ時を過ごせたことを、私は誇りに思う」
 小夜を抱き締めると、彼は身体をわずかに強張らせ、か細く「いえ」と呟いた。そして、私の背中におそるおそる手を回す。体は小さくとも百戦錬磨の刀剣男士だ。背中に当たる小夜の頼もしい手のひらは、私の心を静かに燃やしてくれる。
「お礼を言わなきゃいけないのは僕のほうだ。あなたは、黒い澱みを抱えた僕と一緒に戦ってくれた」
 ありがとう。今度は、小さくも芯のある声だった。なんて光栄な言葉だろう。ここに来たばかりの頃は、度重なる戦闘によって小夜に負担を掛けていないか、また、私は小夜にとって良い主で居られるだろうかと、気掛かりで仕方がなかった。しかし、その心配は杞憂だったようだ。
「ねえ小夜、本丸の裏庭にさ、この種子を埋めてみない?」
 小夜はゆっくりと頷き、背中に回していた手を解く。
「ここが無くなっても芽は出るのかな」
「どうだろうね。出るかもしれないし、出ないかもしれない」
「……準備してくるから、あなたは裏庭で待っていて」
「うん、待ってる」
 小走りで去っていく小夜の後ろ髪がぴょこぴょこ揺れるのを眺めながら、私は手の中の種子を指先で何度も撫でた。鼻の奥がツンと痛む。いつか皆とお別れする日が来ることは、理解していたつもりだったのに。

 裏庭に向かうと、小夜はすでに到着しており、澄んだ空の下で裸同然の木を見つめていた。手には畑当番で使った小さなスコップを握っている。準備とはこのことだったらしい。
「お待たせ、小夜。ごめんね、遅くなっちゃった」
「そんなに待っていないから」
「そう?それなら良かった。じゃあ、始めようか」
 二人で裏庭を歩き、木があまり生えていない場所を探す。良い塩梅の場所が見つかったところで、小夜が慣れた手つきでスコップで土を掘り返す。その穴に種子を一つ静かに置き、私は肺から絞り出すように長く息を吐いた。
「私ね、多分……こうでもしないと、これから一人で生きていけないから。本丸の跡地で柿が育つことを想像しないと、元の世界でうまく息ができないと思うの」
 喉が強張り、掠れた声しか出てこない。刀剣男士たちを束ねる主たるもの毅然とした態度をと、審神者に就任してから今日まで、皆には涙を見せないよう心掛けてきたつもりだった。それが、今はどうだろう。零れ落ちた涙が土の上をぱたぱたと音を立てて着地したあと、すぐさまスポンジのように土へ染み込んでいく。決意を嘲笑うかのように、止めどなく溢れる涙が憎らしい。もう一つの種子を埋めようとすると、私のおぼつかない手に小夜の華奢な手が重なった。そのまま割れ物を扱うような手つきで私の指先を包み込んだあと、手の甲へおずおずと移動し、何かを決心したようにそっと握りしめてくる。
「その種子はあなたの家の庭に埋めなよ。そうしたら、僕はずっとあなたの側に居てあげられる」
「……小夜」
「……この柿の種子は僕だ。僕だと思って側に置いてほしい。あなたの寂しさが少しでも紛れるように」
 小夜は優しい。刀剣男士としての役目を果たした後も、心だけは私と共に在ろうとしている。嗚咽を上げて泣きじゃくる私は、あまりのことに頷くことすら儘ならない。小夜は一層激しく泣く私を見て狼狽えたのか、握りしめた手を弱々しく離して悲しげに呟いた。
「僕のような刀が側にいるのはやっぱり嫌、なのかな」
 違う。私があなたたち刀剣男士を、小夜左文字を、どれだけ愛おしく思っていることか。今すぐ言葉にして伝えたかったけれど、開いた唇は情けないほど震えており、全く使い物にならない。力いっぱい首を振って否定するのがやっとだった。見兼ねた小夜が私の背中をさする。この頼もしい手のひらは、窮地から本丸や私たちを何度も救ってくれた。小夜の温もりを背中で感じ取るうちに、不思議と呼吸が楽になっていく。
「ありがとう。もう大丈夫だから」
「……ほんと?」
 今度は大きく頷いて見せる。小夜の肩に腕を回すと、お互いが肩を抱き合っているような格好になった。小夜は私の頬あたりをしばらく見つめたあと、小さな頭を肩に預けて短く鼻を鳴らした。たまらない気持ちになって私も小夜の頭の上に軽く頬を乗せる。小夜の毛先が唇に触れており、二人が呼吸をするたびに擦れて少しくすぐったかった。
「小夜が側に居てくれて良かった。これからもずっと、小夜の隣で本を読んだり、一緒にご飯を食べたり、お喋りして暮らしていたいよ」
「……うん」
「でも、それは叶わないことなんだよね。だから……小夜の心のひとかけらを私にちょうだい」
「……いいよ。あなたになら、僕の大事な大事な主になら」
 種子を埋めた穴の中に、大粒の涙が落ちる。それは小夜のものだった。声を上げずに無言でぼろぼろと涙をこぼす彼の頭を、私はいつまでも撫で続けていた。



 枕が湿り気を帯びている。
 気がつけば私は、実家の自室のベッドでうつ伏せになって沈んでいた。横目で壁のカレンダーを確認する。どうやら審神者に就任する前日まで時が飛んだらしい。汗ばんだ手の中には種子が一つ、まるで外敵から守るようにしっかりと握られていた。
 上体を起こすと、出窓から深い青色の空が見えた。そのブルーアワーが織り成す粛然とした色合いと、小夜左文字の姿がぴたりと重なり、やがて刀剣男士たちと過ごした記憶が走馬灯のように脳内を駆け巡る。思いがけなく涙腺がゆるんだ。

 柿の種子は家族の許可を得て実家の庭に埋めた。芽が本当に出るかどうか確証はなかったが、大学へ行く前に周囲の草をむしって、種子を埋めた場所に水をやるだけで、傷ついた心が少しずつ癒されていくようだった。
 ようやく元の生活にも慣れてきた頃、小さな芽が地面から顔を覗かせていることに気がついた。本丸の庭に埋めた種子の方も芽が出ただろうか。生命力の塊をじっと眺めながら本丸の跡地に思いを馳せる。

 膝の下ほどの高さまで成長したところで、私の就職が決まった。就職を機に実家を離れることになったので、庭の柿の木を鉢に植え替え、一緒にアパートへ引っ越しをした。大好きな家族と離れて暮らすのは寂しかったけれど、柿の鉢植え――いや、小夜は私の側に居てくれる。小夜の隣でなら、見知らぬ土地で生き残るなど容易いことだろう。



 本丸が解体されてから八年が経った。
 私は社会という荒波に揉まれ削られながらも、働き盛りのベテラン社員としてなんとか元気に生きている。仕事が多忙すぎたせいか、はたまた環境に慣れたせいか、本丸や小夜のことを考える日はあっても、枕を涙で濡らすようなことは無くなった。それでも、長引く残業のせいで夜遅くにオフィスビルを出た日や、会社の飲み会が続いた週の金曜日などは、本丸の穏やかで澄みきった空気がやたらと恋しくなる。
「ただいまー」
 返事はない。真っ暗な部屋に私の声が吸い込まれていくだけだ。パンプスを脱ぎ捨て通勤バッグを放り投げ、手洗いうがいを済ませてリビングの電気を点ける。
「小夜」
 柿の鉢植えに向かって声をかけるが、やはり返事はない。当然だ。それでもこの小さな柿の木は、今日も出窓の棚の上でじっと私の帰りを待っていてくれる。そういえば、万屋から帰るといつも、玄関の前で小夜が出迎えてくれたっけ。小ぶりな果実を指先でなぞりながら、在りし日の思い出を懐かしむ。本丸の庭に埋めた柿も、今頃橙色の実を結んでいるだろうか。はさみで実を切り取り、ふっと微笑む。ねえ、小夜。柿って生も美味しいけど、バターで焼いてシナモンを振りかけて食べても絶品なんだよ。君にも食べさせてあげたかったな。
 包丁で柿の皮を剥く音とコオロギの鳴き声が重なる。珍しく感傷に浸ってしまうのは、深まった秋のせいだ。


2021.09.04
タイトル「草臥れた愛で良ければ」さまより

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