世間は薔薇色に染まっているフリをしている
※社会人設定 別れ話
氷で水っぽくなったカフェオレを啜る。この場所であとどれだけの時間を過ごさなくてはならないのだろう。ぼやけた味を舌で辿りながら、私は窓の外を見遣った。
郊外にあるロードサイドのハンバーガーショップは、私たち以外に客はおらず、貸切状態だった。深夜に営業する店など周囲にはなく、あたり一面がほの暗い。ちかちかと不安定に明滅する街灯と、たまに通り過ぎる車のライト。それから、この店を灯す照明。この空間に光はその三つだけ。視線をずらすと、窓には頬杖をつきながら店内のどこかをぼんやりと見つめる恋人の姿が映っていた。「話があるさー」とこの店に呼び出されて三十分は経つが、話とやらは一向に始まらない。彼の前には、とっくの昔に冷めたポテトフライが数本と、半分ほど残ったテリヤキバーガーが、何かを諦めたように置かれている。「食べないの?」なんて、聞くつもりは毛頭ない。私たちはもう、お互いを思いやるような関係ではないのだ。テーブル上の冷たくなった食べ物たちは、私たちの関係をはっきりと可視化していた。
ここ最近、恋人の持ち物が部屋から忽然と消える現象が起きている。私の部屋に恋人の甲斐裕次郎が転がり込んで来て二年になるだろうか。異変に気が付いたのは三ヶ月ほど前、デイゴの花が咲き始めた頃だった。
その日はスーツをクリーニングに出すために荷物をまとめていた。ついでに裕次郎の帽子もクリーニングに出しておこう。そう考えた私はハンガーラックに手を伸ばしかけ、そして首を捻る。昨日までハンガーラックのてっぺんに掛けてあったはずの彼の赤い帽子が、どこにもない。
「あれ?裕次郎、帽子は?」
ソファに腰掛ける彼に声を掛けると、彼はスマホをいじくる手を止めずに答えた。
「ああ、あれか。捨てた」
捨てた。頭の中で裕次郎の言葉を反芻する。一体どうして。この前買ったばかりじゃなかったっけ。いや、この前っていつの話だったか。あの帽子を裕次郎がいつ買ったのか、そもそもあれはうちに来る前から持っていた帽子だったのか、記憶がひどく朧げだ。頭から爪先まで体温が一気に下がる感覚に陥る。
「そっか。私、これからクリーニング屋に行ってくるから。留守番よろしく」
畳んだスーツを紙袋に詰め込み、足早に家を出た。ショックだった。裕次郎への興味が薄れていることを、事実として眼前に突きつけられたのだから。
去年と比べて、彼と話をする機会はぐんと減った。顔を合わせる時間もどんどん少なくなった。最後にデートをしたのは先々月だったか。勤め先が別々で一緒に過ごす時間に限りがあるとはいえ、こんなにも気持ちが離れていくものなのだろうか。季節は春を通り過ぎ、もはや初夏のような陽気なのに、指先は体温を失って凍えそうだった。私、裕次郎に冷めていたんだ。そして恐らく、それは裕次郎も同じだろう。
あれから、裕次郎の私物たちはたびたび行方不明になった。どうして行方不明という言葉を使うのかというと、探すことを諦めたからだ。三回目までは、クローゼットからベットの下から脱衣所から玄関まで隈なく探しまわった。だが、捜索活動は徒労に終わった。所在が分からないものは行方不明としか言いようがない。いちいち本人に確認することもやめた。 Tシャツ、靴、表紙が折れ曲がった雑誌、洗面台に置いてあった電動シェーバー。まるで間違い探しだ。
グラスからカフェオレの色が消えた頃、裕次郎はようやく口を開いた。意を決した目が私を真っ直ぐにとらえる。
「話っていうのはさ、俺たちのことなんだけどよ」
うん、と頷く。通り過ぎた大型トラックが窓を震わせ、ヘッドライトが裕次郎の広がった髪の輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。ああ、私は裕次郎の癖毛を優しく撫でるのが好きだった。
「俺と別れてほしい」
「そうだと思った。そろそろ潮時かなって」
「やーには全部お見通しみたいだな」
あれだけ分かりやすいフラグ立てておいて、よく言うよ。私も、裕次郎も。自嘲気味に微笑むと、つられて裕次郎も困ったように笑う。この眉をへにゃりと下げた子犬のような笑顔も私は好きだった。
会計を済ませて店の外に出た途端、湿った生暖かい風が頬を掠める。冷房で冷えた体には案外ちょうど良い。ゆいレールの終電は数十分前に過ぎていたため、タクシーを拾って帰ることにした。
「なあ。今日、やーの家泊まっていいか?」
「付き合いたての頃みたいなことを聞くね。ああ、そういえば付き合う前も聞いていたっけ」
「俺たち、さっき別れたやんに」
「分かってるよ」
外気でぬるくなった体にタクシーの冷房は堪える。鳥肌が立った二の腕をさすると、自分の手のひらの冷たさに背筋がぞくぞく震えた。私の寒気をよそに、車内のラジオからはノイズ混じりのシティポップが流れ、パーソナリティが陽気で軽快なトークを飛ばしている。
隣に座る裕次郎を横目で見る。彼の顔は体ごと窓側に向けられていて、表情は窺えない。街路を眺める右半身に、過ぎゆく街灯の光が流れ星のように走っていく。流星の数を三回数え、その不毛な遊びに飽きて視線を元に戻すと、住宅街の向こうにある自宅のマンションが見えてきた。
タクシーから降りると、湿っぽい空気が再び身を溶かすようにまとわりついてくる。明かりが点いている部屋は二つほどで、夜遅くに帰宅するのは久しぶりのことだなとぼんやり思った。
「裕次郎、先にお風呂入っていいよ」
浴槽は掃除してあるから給湯器のスイッチを入れておいて、まで言おうとしたけれど、言葉が続かなかった。屈んだ裕次郎の顔が私の鼻の先まで迫っていたからだ。驚いて息を小さく漏らすと、裕次郎の鼻と私の鼻が軽くぶつかった。
このままだとキスされる。肩を押して拒もうとした瞬間、裕次郎は拍子抜けするくらいあっさりと離れていった。なに、と口を動かしたがやはり声にならない。彼はばつが悪そうな表情で部屋に帰っていく。星一つ見えない曇り空の下で、私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
翌朝、ソファで寝ていたはずの裕次郎が居なくなっていた。
私は久々に部屋中を歩き回った。この部屋に裕次郎の私物は一つも無い。数時間前まで同じ屋根の下で寝ていたなんて、嘘か幻みたいだ。床だって髪の毛一本落ちていない。玄関のドアポストを開けると、中には付き合ったばかりの頃に裕次郎に渡した合鍵が入っていた。とりあえず、スウェットのポケットにその合鍵を突っ込む。
おもむろにベランダへ出て遠くを眺めると、街の先に小さく海が見えた。天気は昨日とは打って変わって晴れており、朝とは思えないほど強い日差しは薄浅葱色の海をより一層輝かせる。今日は気温がうんと上がるだろう。
小さな海を見つめながらたばこを一本取り出す。あの海も、昨夜別れ話をしたハンバーガーショップも、裕次郎と一緒に何度も何度も訪れた場所だった。わざわざお揃いにしたわけではなかったけれど、このたばこも裕次郎と同じ銘柄だ。どうせなら、あの海も郊外のハンバーガーショップも、お揃いのたばこも、裕次郎の手でどこか見えない場所へ隠してほしかった。そんなことできるわけがないのに、ばかばかしいことを考える。
たばこを箱に戻してベランダを出る。あーあ、なんだか吸う気が失せてしまった。どうせなら、違う銘柄のたばこを買うべきだ。
ポケットに入ったままだった合鍵を戸棚の奥に置き、私は顔を洗うために洗面台へ急いだ。
2021.07.31
タイトル「草臥れた愛で良ければ」様より
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