小説
- ナノ -

なりたいものはあなたのもの


 アブラゼミの鳴き声を聞きながら、こうして机に向かって書類を整理するのは何度目のことだろうか。あのジリジリと地面を擦るような鳴き声を耳にするだけで、体温がぐんと上昇する。それに気がついたのは何度目の夏だっただろうか。人の身を得る前はセミの鳴き声など気にしたことすらなかった。握りしめたペンの表面は熱気で湿り気を帯びている。今日は格段に暑い。冷房のスイッチはきちんと入れているはずなのに、蒸し暑さはいつまで経っても消える気配がない。このエアコンもそろそろ買い替え時か。
 額から頬へと伝っていく汗を手ぬぐいで拭き取っていると、書類にペンを走らせていた主が「ああー」と声を上げ、畳へ大の字に倒れ込んだ。溜まった疲労が限界に達したらしい。

「主、お体は大丈夫ですか。少し休憩にしましょう」
「そうするよ。こんな暑さの中ぶっ通しで仕事をしたら、脳が蕩けて使い物にならなくなってしまう」

 主は畳に転がったままリモコンを操作し、ハアと大きくため息をついた。エアコンの温度を下げたのだろう。この茹だるような暑さも、これで少しはましになると良いのだが。
「毎日毎日あっつい中、書類、書類、書類ってねえ。報告書を書くのも飽きてくるよねえ。大規模な任務のあとは仕方がないのだれど」
「ええ、本当に毎日遅くまでお疲れ様です。しかし主は仕事がとてもお早い。このペースで進めていけば、日没までにすべて片付きそうですね」
「ありがとう長谷部。あなたが手伝ってくれたおかげだ」
「いえ、俺の手伝いなど微々たるものです」
 そんな事はないんだけどなあ、と呟き、主は困ったように眉を下げて笑う。主の笑顔を見ていると、あの鼓膜にこびり付くように鳴くうるさいセミの声も、耳元から遠のいてゆく気がした。吹出し口から流れ出た風が、蒸した部屋をゆっくりと包み込んでいく。ようやく涼しくなり始めた。ふう、と一息つくと同時に、がばっと起き上がった主がそのまま立ち上がる。あまりにも勢いよく立ち上がったので、驚いて主を見上げてしまう。主は目をきらきらと輝かせ、庭へ遊びに行く短刀たちのような調子で襖を引いた。
「主、どちらに」
「お茶を淹れてくる」
「お茶なら俺が淹れてきましょう」
 慌てて腰を上げたが、主は首を振って制止する。
「いや、いい。私が長谷部にお茶を淹れたいんだ。少し待っていて」
 そう答えると、主は過ぎ去る嵐のように、あっという間に部屋から出て行ってしまった。主がいなくなった部屋の中は、セミの鳴き声と冷房の運転音だけが響いている。なんだかまた蒸し暑くなってきた。

 ご本人の望みとはいえ、主にお茶を淹れさせてしまったことにひどく罪悪感を覚える。座るわけにもいかず、直立不動の状態で主をお待ちしていたが、もう居ても立っても居られなくなってしまった。やはり、主にお茶を淹れさせるなんて烏滸がましいことはできない。せめて手伝いをさせてほしい。
 襖に手をかけると、廊下からカランコロンと涼しげな音が聞こえてくる。そっと襖を開けると、お盆を持った主が「おやおや、長谷部。待ちきれなかったのかな」とくすくす笑いながら姿を現した。お盆の上には、冷茶が注がれたグラスと菓子が置かれている。あの涼しげな音は、透き通ったグラスと氷がぶつかり合う音だったのだ。冷茶は鮮やかな新緑を閉じ込めたような色をしていた。

「主、申し訳ありません。俺は」
 咄嗟に非礼を詫び、主からお盆を預かる。主はまた首を振り、そんなことは気にしなくても良いと諭した。
「それに、さっきも言っただろう。私は長谷部にお茶を淹れたかったのだから」
「そのように仰ると俺はもう、何も言えませんね」
「そうだよ、もう。そんなことよりお茶にしよう。今日のおやつは光忠特製のマドレーヌだ。これはねえ、煎茶とよーく合うんだよ」
 主がうきうきと楽しそうにはしゃぐので、俺もついつい唇の端をゆるめてしまう。机の上に散らばった書類をまとめ、表面を布巾で軽く拭く。それから机にお盆を乗せ、俺たちも畳の上に腰を預ける。

 いただきます、と手を合わせて、ごくりと喉を鳴らしてお茶を飲む。清涼な香りと僅かな渋み、後から舌の上いっぱいに広がるやわらかな甘さ。マドレーヌの上品な甘さに、冷茶のきりりとしたさわやかさがとてもよく合う。鮮やかな緑も、グラスを傾けるたびに軽やかな音を立てる氷も、火照った身体をすっきりと冷やしてくれる。暑い夏にぴったりと合う爽快なお茶だ。それに、何だろう。俺はこのお茶をどこかで飲んだことがある気がする。お茶の甘みがじわりじわりと全身に染み込んでいく感覚。覚えがあるのだ。

 グラスを持ったまましばらく考え込んでいると、マドレーヌをすっかり平らげた主が口を開いた。
「長谷部。美味しい?」
「ええ。この暑さも吹き飛びそうですよ」
「そうか、それは良かった。これはようやく手に入った煎茶でね。人気の茶葉らしくてなかなか買えなかったんだ。でもね、長谷部は顕現したての頃に一度だけ飲んだことあるよ。覚えているか分からないけど」
ああ、道理で。霞のようにぼやけた不確かな記憶が確固たるものになっていく。

 あれは数年前の夏、俺が顕現して間もない頃だったと思う。人の身体に慣れず内心戸惑っていた俺に、主は「少し休憩しようか」と言って冷たいお茶を淹れてくれた。そのお茶の色は、今飲んだお茶と同じように、芽吹いたばかりの新緑のようだった。清々しい甘みは五臓六腑の隅々まで染み渡り、生身の体を得たことを深く実感させてくれる。そう、今のように。
 この本丸に主の刀として顕現してから数年が経った。鍛錬を積み、日々の仕事をこなし、戦に出ては歴史を守り、そして、強くなるために修行にも行った。この身体と心に違和感を覚えるようなことはもう無い。だが、この目の覚めるような感覚は、新入りだった頃と何ら変わらないように思えた。

 氷だけになったグラスをお盆に戻し、主にお礼を述べる。多忙な中、俺にお茶を淹れてくださったこと。刀剣である俺にこの身体と心を与えてくれたこと。主は「改まってどうした」と人懐っこく微笑む。
「私も、長谷部がこの本丸に居てくれて良かったと日々思っているよ。ありがとう」
主の言葉に、お茶で冷えたはずの胸が途端にきゅうと熱くなる。人の身を得る前にも、顕現したばかりの頃にも味わったことのない感覚。これはここ最近頻繁に起こる現象でだった。やかましく騒ぎ立てる心臓を落ち着かせるために、俺は毎度何度も深呼吸をする羽目になってしまう。主にご心配をおかけしないよう、今回も静かに呼吸を整える。それでも、身体はほんのりとあつい。

「さて、片付けて仕事の続きをしようか。長谷部、手伝ってくれるね」
 膝を叩きながら主が立ち上がった。まだ書類が残っている。今日中に仕上げてしまわなければ。

「ええ。お任せください」
 お盆を手にして俺も立ち上がる。カランと鳴り響く氷の軽い音が心地よい。まだ少しだけ熱を持つ胸と脈打つ鼓動を無理やり振り切るように、俺は主と共に台所へ向かった。


-------------------
タイトル「草臥れた愛で良ければ」様より

2019年8月4日 執筆
2021年7月27日 一部修正

back