小説
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満ちない夢のまま


※現パロ 社会人設定


 下心がなかったといえば、それは真っ赤なうそになる。友だちでも恋人でもない人を玄関に通しながら、私は彼に見つからないよう小さく深呼吸をした。いつものように出社前に軽く掃除はしたし、洗濯物は昨晩のうちに乾燥機にかけてチェストにしまってある。大丈夫、きっとこれ以上幻滅されることはない――飲みすぎてはめを外さなければ。
 単身者用マンションの狭いキッチンを眺め、クロトくんは「ふうん、意外ときれいにしてるんですね」と率直な感想を漏らした。
「意外ってなに、意外って」
「なにって、そのまんまの意味だけど」
 彼はとらえどころのない口ぶりでそう返すと、細く白い息をひとつ吐いた。室内といえど、エアコンの電源を消したままの部屋は凍えそうなほど寒い。あともう少しで桜が咲き始めるなんて、とても信じられなかった。
「そこに座って待ってて。すぐ暖房つけるね」
 居室の中へ招き入れると、クロトくんは自分の家に帰ってきたかのようにコートをハンガーに掛け、ローテーブルを囲むクッションに腰を下ろした。床に落ちていた大きなサメのぬいぐるみを膝の上に置き、なんだこれ、と怪訝そうにじろじろ見ながら、柔らかな背びれをつまんでいる。会社では決して見ることのできない後輩の可愛らしい姿が、自分の部屋の中に存在している。私は入店を断ってきた数々の居酒屋に深く感謝した。
 数ヶ月前からお手伝いしていたプロジェクトが、今日の夕方にようやく終わった。体調も崩さず、大幅な遅延もなく、つつがなく完了したのが奇跡のようだった。私とクロトくんはチームでたったふたりの若手社員ということもあり、それはそれはもう上司や先輩方からこき使われたのである。
 クロトくんはまだ入社して1年も経っていないにもかかわらず、軽い憎まれ口を叩きながらてきぱきと要領よく働いてくれる人だった。不器用な私の力だけでは、このプロジェクトは絶対に完遂できなかっただろう。ここ数ヶ月の感謝を改めて彼に伝えたい。定時間際にそう思い立った私は、仕事が終わればすぐに帰宅してしまう彼を、ふたりだけの飲み会に誘ったのだった。結局、金曜日の繁華街にひしめく居酒屋はどこもかしこも満席で、仕方なく私の家で宅飲みをすることになってしまったのだけれど。
 クロトくんの家は、私の家から10分ほど歩いた場所に建つマンションの一室にあった。つまりこの会がどれだけ長引いたとしても、彼が終電を逃すことはない――と考えたところで、外気で冷えた頬に身体の芯からにじみ出た熱が集中してしまう。彼を私の部屋に呼んでしまって、ほんとうによかったのだろうか。ネオンサインで彩られた雑居ビルが集まる繁華街の中で、クロトくんはさらりと宅飲みを了承してくれたけれど、1つ上とはいえ一応は先輩である私に逆らえず、いやいや着いてきただけだったとしたらどうしよう。
 キッチンの端からおずおずと、彼の横顔を覗き見る。クロトくんはテレビのリモコンを勝手に操作し、なんの感情も感じ取れない表情でバラエティ番組を眺めていた。任された仕事はきっちり務める人だけれど、彼は飲み会や社員旅行などの会社のイベントはあまり参加してこなかった。そう、気が乗らなければ誰が相手だろうとはっきり断っているはずだ。それに、イベント事はあんまり来ないけれど、私と彼は何度かお昼ご飯を食べに行ったこともあるし、だから大丈夫、大丈夫。と、自分に言い聞かせるたび、底の見えない不安が湧き上がってくる。嫌われるかもしれないし、今よりも親しい間柄になれるかもしれない。もしくは、これ以上はなにも進展しないかもしれない。それでもいい、今夜はクロトくんに感謝の気持ちを伝えるのが最優先事項なのだから。
 電子レンジで温めたチョリソーをローテーブルの上に並べると、彼はテレビの画面から目を離し、レジ袋からふたり分の割り箸とお手拭きを取り出してそれぞれの席に置いた。近くのコンビニで買ったお惣菜を次から次に並べると、テーブルは親しみのこもった賑やかさがあふれた。黒胡椒がきいたポテトフライに、箸休めのサラダが数種類。新作フレーバーの唐揚げは、クロトくんが食べたいとリクエストしたものだった。
「あー、もうお腹ぺこぺこだよ」
 手を拭きながらクロトくんがため息をつく。部屋の中は暖房のおかげで適度に温まり、息を深く吐いても無色透明のままだった。こうして彼の真正面に座り、食卓を囲んでいると、なんだか同棲しているみたいだなと思う。現実の私たちは会社の先輩と後輩の関係でしかなく、もちろん付き合ってすらいないのに。
 よく冷えた缶チューハイを手元に用意し、小気味良い音を立てながらプルタブを引き上げる。乾杯の挨拶する前に、彼はもうすでに一口飲んでいた。どうやら缶から泡があふれ出てしまったらしい。
「クロトくん、お疲れさま。乾杯しよ」
 仕切り直しに缶を近づけると、クロトくんは何事もなかったかのように「乾杯」と返し、私の缶に自分の缶を当てた。ぶつかり合った缶から、しゅわしゅわと炭酸の弾ける音がする。乾杯を済ませたクロトくんは再び缶チューハイを一口飲み、割り箸をきれいに割った。私もグレープフルーツ味のチューハイを喉に流し込む。慣れ親しんだ味であるはずなのに、今日はなぜかアルコールの風味をめっきり感じなかった。プロジェクト終了の安堵感、退勤した金曜日が醸し出す開放感、片思いしている人とふたりきりで家にいる緊張感。すべての要素がぐるぐると混ざり合い、身体が必要以上に高揚している。そわそわする心を落ち着けるべく、つけっぱなしのテレビにときどき目をやる。けれど、内容はなにも頭に入ってこなかった。これ以上テレビの画面を見つめたところで、きっと収穫はない。私は仕方なく正面に視線を戻した。
 新作の唐揚げを頬張ったクロトくんが、目を見開き、瑠璃のような青さを持つ瞳を鮮やかに輝かせる。うまっ、と素直につぶやくと、彼はぼうっとしていた私にも唐揚げを食べるようすすめてきた。そして「いらないなら僕が全部食べちゃうからね」といたずらっぽく付け加える。
「明太マヨ味ってさ、外れないよね」
 クロトくんはそう言ってまた唐揚げを口に放り込んだ。なくなる前にと、私も唐揚げを口に運ぶ。衣と肉の間にソースが挟まっているタイプの唐揚げで、ジューシーな鶏肉に明太子のぴりりとした辛さとまろやかなマヨネーズがよく合う。口いっぱいに広がるその優しい味わいは、全身に絡みついた緊張を徐々に解いていった。
「ほんとだ、おいしい。それにチューハイとぴったり」
 口元で缶を傾けると、同じようにチューハイを飲むクロトくんと目が合った。彼は目をそらすことなく私を見つめ、細い喉を鳴らしながらお酒を味わう。
「クロトくんって明太マヨが好きだったんだね。南口の近くに明太子食べ放題の店あるでしょ、あそこ行ったことある?」
「ないですねえ」と彼は即答した。「もしかして奢ってくれるんですか?」
 クロトくんが私に甘えている。そう実感するたび、胸の中をくすぐられているような気分になる。クロトくんはいつも砕けた口調で私と話すけれど、こういうときには決まって敬語を使うのだった。
「いいよ。だって、いつも助けてもらってるから」
「忘れないでよね」と彼は笑った。それは珍しくなんの含みも感じられない、無邪気なほほえみだった。私は混じりけのない彼の笑顔を意外に思った。頭の中は一瞬だけ空白になり、だんだんと思考する力が戻ってくる。職場では見たことがない種類の笑顔を、今この場で私という存在のみが浴びているのだと思うと、身体がかっと熱くなった。照れ隠しにまだ冷たいチューハイをあおると、缶の中身はたちまち空っぽになった。
 私は勢いよく立ち上がり、お酒を取り出すために冷蔵庫の扉を開いた。彼に背中を向けながら、私はさりげなさを装って「忘れないよ」と返答した。今の自分には庫内を満たす冷気がどうしても必要だった。
「ほんとうにね、いつも作業が早くて助かってる」
「当たり前じゃん」とクロトくんは得意げに言い放った。「しかも、先輩のお世話もしながらだよ? もっと給料上げてもらってもいいくらいだね」
 後方から、空っぽになった缶とテーブルがカツンとぶつかる音がする。彼はさらに続けた。
「僕のぶんもちょうだい。味はなんでもいいから」
 私は自分用のレモンサワーと冬限定のいちごチューハイを選び、しっかりとした足取りで席に戻った。いちごのイラストが散りばめられた可愛らしいパッケージには特に関心がなかったようで、彼はお礼を言ってお酒を受け取ると、ポテトフライやチョリソーをつまみにごくごく飲み始めた。このいちご味のチューハイが気に入ったらしく、クロトくんはこのあともずっと同じものを飲み続けていた。
 お酒がすすむにつれて、ふたりの会話は私の失態をクロトくんがどれだけ救ってきたか――つまり、私のお世話をするクロトくんの図がいかに面白く、そして私がどれだけ彼に感謝しているかという話題で持ちきりになった。データ未保存のままパソコンの電源が落ちてしまい、文句を言われながらクロトくんに復元してもらったこと。破棄してはいけない書類をシュレッダーにかけそうになり、席からすっ飛んできたクロトくんに止められたこと。今思い返しても、背中に冷や汗が流れるような失態の数々だった。改めてお礼を言うと、クロトくんは唇の端を歪めながら「先輩がチームに居ると退屈しないよ」と評した。褒めているのか貶しているのか、全然わからない。
「先輩って、僕が入社する前はどうしてたわけ?」
「うーん、どうしてたのかな」と忘れっぽいふりをしたものの、新入社員時代の多忙を極めた毎日は忘れたくても忘れられない。次から次に降って湧いてくる重たい業務、逃げるように辞めていく同期たち。悪夢のような日々の記憶を振り払いたくて、私はお酒を飲み干し小さなため息をついた。
「先輩さー、ちょっと飲み過ぎじゃねえの」
 この前みたいにさ、とクロトくんは呆れたようにたしなめる。彼の言う「この前」は、チーム全員が集まった飲み会を指している。その夜は、ありとあらゆる飲み会を欠席しまくっていたクロトくんが珍しく参加してくれたばかりか(先輩たちに圧をかけられ、私がどうしても参加してほしいと説得したのだ)、先輩に注がれてしまった度数の高いお酒を、彼が代わりに飲んでくれたのだった。クロトくんは私のグラスに口をつけ、薬を服用するときに飲む水のようにごくごくと飲み干していた。間接キス、と思ったけれど、彼はそんなことなんか一切気にしていないようだった。あの夜私は、彼に恋をしていることをはっきりと自覚したのだった。
 エアコンがうなるような音を立て、すでに温かい部屋へさらに暖風を送り込む。出窓に置いた電波時計を確認すると、アイスクリームが美味しく食べられそうな室温だった。体にまわったアルコールのせいで少し暑いと感じるくらいだ。デザートにアイスも買ってくればよかったな、とうっすら悔やむと、ふとクロトくんの指先が目に入った。彼の指は熟したプラムのように真っ赤に染まっている。結露した缶チューハイの水滴が指を濡らし、ほんとうに果実のようだった。
 赤らんだ場所は指先だけじゃない。Yシャツから伸びる首も、朱色の髪から覗く耳も、鼻先も頬も、どこもかしこも紅潮している。目元もとろんと熱を帯び、物憂げに頬杖をつく。今の彼は、会社で見る仕事のできる後輩とはまったく違っていた。
「ねえクロトくん、大丈夫……?」
「はあ? なにが」
「顔とか手とか、真っ赤だよ」
 ああ、とクロトくんは自らの両手を見つめながら納得する。心なしか普段よりも舌足らずな口調だった。
「この部屋、あったかいからさあ」
 そう告げると、彼は私に赤らんだ手のひらを向けた。どうしてそんなことをしでかしたのか――私も酔っ払っていたから、としか言いようがない――私はその手のひらに吸い寄せられてしまった。磁石のように、自分の手のひらと彼の熱い手のひらをぴったり重ね合わせる。彼の体格は小柄だけれど、手のひらは私のものよりいくらか大きい。酔っているせいか、缶にまとう結露のせいか、熱を持った手のひらはしっとりと湿っている。でも、不快な湿り気ではなかった。むしろ、そのわずかな水分が私と彼の手をよりいっそう密着させてくれた。
「あの飲み会のとき、無理して飲んでくれたの?」
 私はクロトくんの手の形を確かめるように触りながらそう訊ねた。なんて触り心地がよいのだろう。するりと指を絡ませたり、指先から手首にかけてゆるやかに撫でるたび、彼は目を伏せて息をのんだ。
「今日だけ……なんか変なんだよ」
 手を好き勝手にいじられたまま、クロトくんはそう吐き捨てる。「で、なんで僕の手をずっと触ってんだよ」
「ごめん」
 弾かれたようにぱっと手を離すと、彼は不満のこもった眼差しで私をじっと見つめた。
「べつにいいですけど。ほら、触りたきゃ触れば?」
 朱に染まった手のひらが私の前に差し出される。再び手のひらを重ね合わせたときには、もう彼は私の目を見ていなかった。照れたようにうつむき、ぐしゃぐしゃに丸めた割り箸の袋を片手でいじっている。
 しばらくの間、私たちはお互いの手を触り合っていた。深夜の部屋はバラエティ番組から流れる空虚な笑い声と、私たちの皮膚が擦れ合うかすかな音で満ちている。私もクロトくんも、お互いの手を撫でているときはほとんど口を開かなかった。ただ、手に流れる血潮の躍動や、皮膚のなめらかさを黙々と感じ取っていた。ときどき、どちらかの指先が敏感な場所に触れ、夢見心地な淡い吐息が漏れる。
 手と手が触れ合う以上に、なにかが決定的に発展することもなかった。触り合っているうちにクロトくんのまぶたは重そうに下がり始め、やがてテーブルに突っ伏して眠ってしまった。入社当時のとげとげしい第一印象はどこか遠くへ消え去り、今はあどけない寝顔だけが私のそばにある。バラエティ番組はいつの間にかエンドロールが流れ、CMを挟んでニュース番組が始まった。あと数分も経てば日付が変わる。誰かを家に招いて深夜まで酒を飲むなんて、学生時代以来のことだった。
 私はクロトくんの肩にそっとタオルケットをかけ、彼が残したいちご味のチューハイを飲み干した。甘酸っぱい液体はすっかり炭酸が抜け、暖房の風を浴びてぬるくなっていたけれど、アルコールはきちんと残っていた。非現実的な状況に頭がくらくらする。眠りこける彼の横顔と、恥ずかしそうに手を握ってくれた彼の姿が重なり、頭の中で渦巻く恋情はますます大きくなっていた。
 彼の眠りを妨げないよう注意を払いながら、今もなお熱い頬に唇を落とす。唇に触れたクロトくんの頬は綿のように柔らかかった。火照った手と同じように、いつまでも触れていたくなってしまう。
「結局、好きって言えなかったな」
 私は小さな独り言とともに深く息を吐き、ラグの上に転がっていたリモコンでテレビを消した。静まり返った部屋の中に、クロトくんの愛おしい寝息がおだやかに響く。不思議なことに、私のもとに眠気はまったく訪れなかった。彼が目を覚ましたら、私はきっと彼に好きだと告げる。それは街全体が寝静まった1時間後かもしれないし、東の空がぼんやりと明るくなる頃かもしれない。私たちの長い夜は始まったばかりだった。

2024.07.15
タイトル「天文学」様より

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