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檻の深さをなんと問う


 その人は、わたしに退屈そうなまなざしを向けました。熱弁をふるう上司に仕方なく付き合う部下のような、あるいは別れる寸前、まだやり直せるとすすり泣く恋人を冷めた目で見つめる人のような、肉体から精神が抜け出し、はるか遠くへと離れていく過程の視線でした。ここでは年長者の部類に入りますが、彼は人生に疲れきった大人ではありませんでした。顔にはまだ無邪気な幼さが宿り、身にまとったスモックが子どもっぽさをよりいっそう強調しています。実際、まだ少年といってもいい年齢かもしれません。
 彼の紺碧の瞳は、わたしの色とよく似ています。庭師曰く、宇宙空間から地球を見下ろすと、大陸や島々を囲う大いなる海はああいう色をしているそうです。その海の青は、無数にきらめく星の光にも引けを取らないほど美しいのだと、うっとりと目を輝かせながら言っていました。どうせ目にすることはできないのに、どうしてそんな夢のような話をわたしに教えるのだろう。庭師には憤りを覚えましたが、突然現れた彼の瞳を認識した途端に、そんなちっぽけな怒りはどこかへ吹き飛んでしまいました。
「なんで、こんなところに花なんか」
 少年はひとりごとを言い、花壇を申し訳程度に囲う低い石垣に腰掛けました。頑丈そうな首輪にうなじのやわらかな髪がかかり、日陰のかび臭い風になびいてそよそよと揺れています。朱色の頭の半分は白い包帯できつく覆われているため、はみ出たうなじの部分は余計に自由きままにそよいでいるように見えました。
 たしかに日当たりは悪いけれど、それを抜きにしたって、なぜこんな場所にひっそりと一輪だけ花が咲いているのか、私にもよく分かりません。足元のそのまた地中の方からは、ざわざわ、ざわざわと、ひっきりなしに子どもの声が聞こえてきます。壊れたおもちゃのような笑い声と、それから、しっとりとした土をびりびり震わせるほどの悲鳴です。形の悪い石垣に座る彼の耳にも、届いているでしょうか。石垣についた彼の手は、誰かの血で汚れていました。
 ここはロドニアのラボと呼ばれる施設で、直射日光の届かない裏庭にも血なまぐさい空気が漂ってきます。

 少年はしばらくの間、花壇に背を向けたままため息をついたり、石垣の上に小石を積み重ねては崩したりするのを繰り返していました。背中を向けているとはいえ、ラボの子どもがこんなふうにわたしの前で穏やかな時間を過ごしている。こういったことは生まれてこの方はじめての体験でした。いたく感動したわたしはその場で深く呼吸し、静かに目をつむり、彼の震わせる空気を身に刻みつけるべく意識を研ぎ澄ませました。少年のまとう空気は、ほかの子どもたちと同じようにどんよりと沈んでいて、決して心地の良いものではありませんでしたが、それでもそばにいてくれるだけで充分でした。
 やがて、建物の影からもうひとり、誰かがこちらへやってくるのが見えました。庭師――わたしを蒔いた張本人です。身の回りの世話をしてくれるので一応庭師と呼んでいますが、本職の庭師でないことは確かです。庭師はいつも白衣を着込んでいて、水をやるために花壇へ近付くたび、うっすらと死臭がただよってきました。そのにおいはおそらく、品質のよい洗剤で力強くこすったとしても、決して洗い流すことはできないでしょう。
「手術成功したんだってね、おめでとう」庭師は言いました。「これでクロトも晴れてstage3だ」
 クロトと呼ばれた少年は、石垣に腰掛けたまま庭師の方を見上げました。わたしははっとしました。ラボの子どもたちにも、ひとりひとり名前があることを知ったのです。クロト、と清涼感あふれる名を心のなかでつぶやくと、乾いた身体に凛とした余韻が残ります。クロト。なんてぴったりな名前でしょう。
 彼は手を上げて小さく笑い、「ほんとうにめでたいと思ってる?」とうんざりしたように答えました。彼が血のついた手で彼自身の頭の包帯を撫でるたび、わたしは息を詰めてしまいます。
「どうだろう。分からない」
 庭師は力なく返答し、花壇の隅に生えていた細い雑草を引き抜いては石垣の外に捨てました。花壇に生えた植物は、再びわたしだけになりました。
「この花壇はきみの?」
 そう訊ねつつも、彼はたいして興味がなさそうな口ぶりでした。それなのに、わたしは足元が土から抜けてしまいそうなほど動揺しました。わたしが土で暮らす限り、花壇はわたしの一部であったからです。
「少し前までは一面花だらけだった。でも、あの子たちにむしられちゃった。クロトが手術室にいる頃の話だよ」
 マリーゴールド。ペチュニア。ゼラニウム。ほかにも色とりどりの花が咲いていました。嵐の前日のことです。ラボの子どもたちが次々にやってきて気まぐれにそれらをむしり取り、土の上に放置しました。殺伐とした花壇には、栄養不足でひょろひょろにやせ細ったわたしだけが残りました。ロドニアのラボの子どもたちは、弱い生き物など眼中にないのです。はつらつとした花を蹂躙し尽くした彼らと彼女らは、花壇には二度と近寄りませんでした。
「咲く必要のない花だったんだよ」と、少年はぎょっとするような言葉を吐き捨てました。「ここに花壇があること自体、まったくもって意味不明だからね」
「必要あるよ。だって、クロトのために植えたんだから」
 庭師はくどくどともっともらしい弁解をしましたが、彼の心にはまったく届いていませんでした。彼の上半身が失望したように上下し、続いてかすれたため息が聞こえてきます。
「お前が自分の平穏のためだけに植えたんだろ。僕は花なんかちっとも好きじゃない」
 ひとときの間だけ、わたしの視界は夜の闇に包まれました。彼が花を愛でるはずがない。彼の姿をひと目見たときから理解していましたが、はっきりと告げられるとやはりショックでした。
 庭師の方はというと、もはや彼の発言などどうでもよかったようで、ようやく本題を切り出しました。庭師にしては珍しく、憑き物が取れたような晴れ晴れとした表情をしています。
「今日はお別れを言いにきた」
「それはわざわざご苦労なことで」
 少年はとげとげしく返しましたが、やはり庭師は気にする素振りを見せずに、いつものようにわたしの方へ近づきました。このふたりが仲良しなのか、それとも険悪な仲なのか、咲いたばかりのわたしには理解できません。彼は歩き出した庭師にちらりと視線をやり、再び目の前にそびえる研究所を眺めました。
 白衣に忍ばせていたアンプルを折ると、庭師は中に入った液体をわたしに向かって躊躇なく撒きました。「青き清浄なる世界のために」と低くつぶやきながら。土に染み込んだ薬を根が吸い上げた瞬間、それまで感じていた悲しみがろうそくの火を吹き消したように消え失せ、体中が炙られたように熱くなりました。わたしを育てた庭師のことも、わたしを嫌うあの人のことも、ぜんぶぜんぶ傷つけてやりたい。負の活力が満ち溢れ、土の中に張り巡らせた根を自ら引きちぎりそうになってしまいます。
「それ、余ったγ-グリフェプタン?」
 彼の問いかけに、庭師は素直に頷きました。
「使用期限が切れちゃったから」
「僕の前でそんな雑な処分していいわけ? 誰かにチクるかもよ」
「クロトの好きにすればいい。どうせもう辞めるんだし」
 庭師は割ったアンプルを白衣のポケットにしまいながら「この花はね」と続けました。数滴残った薬が、真っ白なポケットにぽつぽつとしみを作っていました。
「もともとは白い花だった。でも廃棄した薬を撒いたら、次の日には青い花になっていた」
 クロトと呼ばれた少年が、急に振り向いてわたしを見つめました。澄んだ紺碧の視線はわたしを貫き、日陰のじめじめとした空気をさわやかな初夏の夕方のように変えてしまいました。彼の目は相変わらず冷めきっているというのに、わたしの心は激しい喜びで満たされていきました。
「この花はクロトの瞳の色によく似ているよ」
 庭師はそう言って、花びらに向かってほほえみました。わたしの色は宇宙から見下ろしたときの海の色であり、庭師の言う青き清浄なる世界の色であり――その言葉の意味を、庭師は最期まで教えてくれませんでした――あの少年の美しい瞳の色だったのです。
 立ち上がった彼が一歩、また一歩とわたしに近づいてきます。しおれかけた葉と葉が強風を受けたように擦れ合い、か細い茎が嵐を恐れるように震え、花びらがばらばらに散ってしまいそうになりました。早く地面から解き放たれたい。人間と同じように足を得て、自分ひとりの力で立ち上がり、この人と同じ視点で世界を見てみたい。ううん違う、あなたの目がほしい! 声にできない欲望の叫びが私の中でぐるぐると駆け巡りました。
 彼は浅くため息をつき、わたしの花びらをまじまじと見つめました。ああ、わたしと同じ色。この瞳こそ、ひとりぼっちのわたしが帰るべき場所だ。
「こんな色だった? 瞳の色なんかいちいち覚えてないね」
 そう言い捨てると、彼は傷だらけの手をこちらへ伸ばしました。血で汚れた温かい手がわたしの萼を優しく撫で、そしてためらいなく引きちぎります。痛みはありませんでした。庭師に与えられたあの薬のおかげで、痛覚が麻痺していたのかもしれません。
 彼の手の中で、わたしはついさっきまで自分の一部だった根を見ました。彼が無理やり引っ張ったせいで、痩せた根が土から恥ずかしそうに覗いています。わたしのすべてを引き抜いてくれなかったことは残念でしたが、血をまとった彼の手が土で汚れるのはかわいそうな気がしました。
「これだから生体CPUは」と庭師は呆れたように笑いました。結末をすでに知っていたかのように、肩をすくめています。
「僕のために植えてたんでしょ? 表向きは」
 彼はわたしの萼を指先でもてあそびながら言いました。青い花びらの向こう側を見つめるような視線を浴び、わたしは気恥ずかしいやら誇らしいやら、今までに味わったことのない感覚を一度に覚えました。根と花を切り離されてもなお、まだ意識があるのが不思議です。根っこに心がある花だったとしたら、わたしはこの瞬間に気が触れていたでしょう。
 返事をしない庭師に、彼は念を押して確認します。
「じゃあ、最後に残った花をどうしようが、僕の勝手だよね」
 確認という生易しい表現はこの場にふさわしくなかった。彼の薄い唇に挟まれながら、わたしはしみじみとそう思いました。彼の放った言葉は、決して撤回できない宣言です。口にしてくれるだけましなのかもしれません。こんなわたしにも数秒の猶予を与えてくれたからです。もっとも、どれだけ時間を与えられたところで、彼の手の中に収まったわたしにはどうすることもできません。
 彼はわたしの花びらを血色のよい唇で食み、そのまま花芯からむしり取りました。硬く鋭い歯が花びらを噛み切り、歯型を刻みつけ、原型がなくなるまですり潰します。1枚、2枚、3枚……。1枚ずつむしるのが面倒になった彼は、やけを起こしたみたいに残りの花を口へねじ込み、萼ごと咀嚼してしまいました。
「おいしいの? それ」と庭師のくぐもった声が聞こえました。底なしの海へ落ちていく浮遊感に襲われ、なくなりつつある身体が粟立ちます。
「おいしいもなにも、グリフェプタンの味がするだけさ」
 振動する声帯がみるみるうちに遠ざかり、わたしの意識の塊は粘膜に吸収されるように溶けていきました。彼の体内は熱く、あの風貌や名の印象とは裏腹に清涼感がありませんでした。けれど、それが良いのです。彼の肉体は隅々まであの薬で満たされていました。ここは、土に根を張る生活よりもずっと居心地がいい。
 根から切り離され、形を失ったときに気づきました。わたしは、同胞を土に還したあの子たちのことが知りたかった。それから、花なんか好きでもなんでもないくせに、花壇で時間を潰していた彼のことを知りたい。そして、いつか彼の瞳の色となり、あなたと一緒に宇宙から海を見下ろしてみたいのです。

2024.05.26
タイトル「失青」様より

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