2億の男
「"タタミ"って、最高……」
「そんなに気に入ったか」
「うん」
良い香り、とエマは床に大の字に寝転んで深呼吸を繰り返す。
「よく空いてたわね、こんな素敵な所」
「あァ、運が良かったな」
「最高の休息だわ。静かで、空気が新鮮で、綺麗なビーチもあって…!」
「あんまりはしゃぎすぎるなよ」
「それ、私よりシャチやペンギンに言った方がいいわよ」
エマたちハートの海賊団がこの島についたのは、つい先ほどのことであった。
海賊、海軍共に争いは一切禁止のリゾート地"ルタヤ島"は、エマたちをVIP待遇で迎え入れた。
慣れない歓迎ムードに、あのローでされえ裏があるのではと身構えていた。
しかしその理由は、案内人の見せた1枚の手配書で分かる事になる。
「死の外科医、トラファルガー・ロー……懸賞金、に、2億ベリー…!?」
「「「ええええええ!!?」」」
「あの時の海軍との一戦で、上がったんだわ……」
「2億か、悪くねェ」
皆が驚愕する中、当の本人だけは口角を上げて笑みを浮かべていた。
VIP待遇ともなれば、泊まれるホテルや旅館はグレードアップし、更に一部のサービスは無料となるそうだ。
話を聞いているうちに、クルー達の目はキラキラと輝いていった。
「……ここは?」
「はい、こちらはあのワノ国をモデルとした建物となっております。大変人気が高く空きがある事はなかなか無いのですが…ちょうど今、利用されているお客様はおりませんので空いておりますよ」
丸々一棟お貸し出来ます、という案内人の一言でローが即決し、今に至る。
「ワノ国、いつか行けるかしら」
「行ってどうする」
「本当にこんな感じなのか、実際に見てみたい」
「今は、鎖国中で簡単には行けねェぞ」
「え、そうなの?」
ローの言葉に、エマは「残念」と口を尖らせた。
すると、部屋の外から誰かがエマを呼ぶ声が聞こえてくる。
複数の足音と共に顔を覗かせたのは、腕いっぱいに荷物をかかえたイッカクと、その後ろをまるで付き人のようについてきた男のクルー達だった。
「あ、やっぱりここにいた」
「イッカク、どうかしたの?」
「ちょうどお昼時だし、裏の庭でバーベキューしようかと思って。ほら、皆傷だらけで海はまだ入れないでしょ?」
「沁みるもんね」
エマがそう言うと、全員がうんうんと頷いた。
「キャプテンも行きましょうよー!」
「新鮮な魚買ってきましたよ!」
「2億のお祝い!パーッとやりましょう!!」
キャプテン、キャプテン、と材料を手に持ち座椅子に座るローの周りをぐるぐると回る。
「分かったからやめろ!」というローの一喝で、子供のようにはしゃいでいるクルー達は四方に散っていった。
「ふふふ、皆楽しそうね」
「うるせェだけだ」
「悪くないって思ってるくせに」
はい、とエマはローに向かって手を差し伸べる。
「行きましょ、船長」
「あァ、」
「……船長…?」
手を掴んだまではよかったものの、一向に立ち上がる気配はない。
ぐっと力を入れて引っ張るが、ローの腕が少し伸びただけだ。
「ねぇ、」
「なんだ、起こしてくれるんだろう」
「起きる気はあるの?」
「一応な」
「あなたと私の対格差分かってる?」
「ひ弱な奴だな」
「なんですって…?」
片手で引っ張るのを止め、腕を捲って両手でしっかりと握った。
「んっ…!!」
エマが全体重をかけて引っ張っても、ローも反対方向に体重をかけてくる。
当たり前だが、ローよりも体重でもパワーでも劣っているエマでは、起き上がらせる事など出来やしない。
「ちょっと!わざと体重かけてるでしょ…!?」
「ほら、早くしろ」
「置いていったっていいの、よ!?」
「そりゃ困ったな」
「えっ、ちょ、わああ!いたっ!」
エマがもう一度引っ張り上げたその瞬間、同じタイミングでローがひょいと立ち上がった。
その反動でエマの身体は背中から後ろへ転がってしまう。
運悪くそのちょうど後ろが壁となっており、後頭部を強打した。
「なんでいきなり立ち上がるのよ!」
「お前がなかなか起こさないからだろ」
「起こせなかったの!」
「ほら、」
「っ、」
今度はローから差し出された手を、恐る恐る掴んだ。
仕返しのつもりで思い切り後ろに体重をかけてみたが、ローはなんなくエマを立ち上がらせた。
「……ずるいわ…」
「鍛え方が違うんだよ」
「私も鍛えようかしら、船長をお姫様抱っこ出来るくらい」
「やめろ。第一させるわけねェだろ」
「照れなくたっていいわよ」
今やってみる?とエマは冗談めかして言った。
「……そうだな、やってみるか」
「うん、じゃあやって……ん?」
「抱かれるのはお前だけどな」
「え、嘘…やめっ、」
やめて、と言い終わる前に身体はフワリと宙に浮いた。
背中と膝の裏にはローの腕が回り、ガッチリとホールドされてしまった。
「このままあいつ等の所まで連れて行ってやる」
「うそ、待って嫌よ恥ずかしい…!!」
「暴れるな落とすぞ」
「それも嫌!!」
「エマ、」
「な、なに…?」
「お前、少し太ったか」
「……ねぇ、もう私怒っていいわよね?」
とりあえず下ろして、とエマが言えば、彼のいたずら心は満たされたのかその手から逃れる事ができた。
「早く行きましょ。主役が遅れたら、始められないでしょ?」
再び差し出された手を、今度は素直に手に取った。
・
・
・
「エマ〜〜!酒!酒ついでくれ〜〜!!」
「エマ!こっちも〜!!」
「ちょっと、飲み過ぎじゃない?大丈夫なの?」
昼過ぎから始めた宴は、夕陽が沈んだ時間になっても続いていた。
「シャチ、一回お水挟んだら?」
「バカ言ってんじゃねェ!!キャプテンが2億の男になったんだ!そのクルーがこれしきの酒で酔っ払ってちゃ話にならねェ!そうだろ、ベポ!」
「アイアイ〜〜!!」
「まぁいいけど…フラついてまた傷口が開くなんて事しないでよね」
「ウッッ!!」
昨夜の出来事は、シャチの中では相当のトラウマとなったらしい。
その証拠に、エマが手に持っていた水の入ったコップを奪い、言われた通り飲み干していた。
話題の本人といえば、宴が始まって空腹を満たしたかと思えば、すぐに離れにあるという露天風呂に行ってしまった。
そこから戻って来ないという事は、すでに部屋に戻って休んでいるのだろうとエマは考えた。
「シャチ、あなた何されたの…?」
「き、聞くな!!おおお、おれは!もう怪我なんてしない!!」
「あっ、ちょっと…!」
水を飲んだ傍から、次はジョッキいっぱいに入った酒を飲み干して叫んだ。
どうなっても知らない、とエマがその場から立ち上がると、それを止めるかのように両肩に腕がかけられた。
「何よ、シャチ、ペンギン」
「エマ、お前ちゃんと飲んでるか?周りの世話ばっかりしてねェでよ〜〜」
「そうだぜエマ、飲もうぜ〜〜!」
「じゃあ世話させるような飲み方、しないでもらえるかしら?」
「ほら〜〜!飲め飲め!!」
「んっ!?」
油断していた、と後悔するには遅かった。
いきなり顎を掴まれ顔を固定されたかと思うと、考える間もなくコップを口元に付けられた。
そのまま傾けたコップからは、当たり前だが液体が流れ込んでくる。
混乱の中、エマが唯一思ったのは「咽たら酒を吐き出して醜態をさらしてしまう」だった。
眉間に皺を寄せながら、最後の一滴までそれを飲み込んだ。
胸が焼けるように熱く、満遍なく広がっていくアルコールに、かなり強い度数を飲まされたのだと分かり元凶のシャチを睨み付けた。
「よっ!いい飲みっぷり〜〜!!」
「いきなり何するのよ!……っ?」
勢いよく立ち上がったせいでアルコールが回ったのか、ふらりと視界が傾いた。
「あれ?エマってもしかして、あんまり強くない…?」
「……強くないわよ、お酒は好きだけど…だから毎回ちゃんとセーブしてるのに…!」
「え〜〜!セーブなんてするなよ!今日は祝い酒だしせっかくのバカンスだ!酔い潰れたって大丈夫だって!」
「そうだそうだ!お前あの時、おれ達以外の男と楽しそうに飲んでたじゃねェかよ〜〜!」
「おれ達とは飲めないっていうのかよ〜〜〜!!?」
「なんでそんな前の事覚えてるのよ……」
ほらほら、とシャチはまたもや酒を注いでエマの手にコップを握らせた。
そんな様子を心配するクルーの声も聞こえてきたが、エマの頭はすでにふわふわとしていて、あっという間にそれは記憶から消去されてしまった。
「エマ、無理すんな…よ!?」
「あーあー」
コップの中身をじっと見つめていたエマだったが、やがてそれを一気に飲み干した。
「……これで満足…?」
「いいぞエマ〜〜!もっと飲め〜〜!!」
「飲もうぜ〜〜!!アイアイ〜〜!!」
「よぅしッ、キャプテンが2億の男になった事を祝して!もう一度、カンパーーイ!!」
――そして二度目の乾杯から早2時間が経とうとしていた頃、いつまでも騒がしい庭に存在感のある低い声が聞こえてきた。
「お前ら、そろそろ終いにしろ」
そう言って現れたのは、浴衣に身を包んだローだった。
しん、と静まった庭は数秒後に絶叫の嵐となった。
「キャー!!!きゃきゃきゃキャプテン!?」
「なんなんですかその恰好は!!!」
「かっこいい!!」
「美しい!!」
「色気爆発!!」
「……うるせェな」
両手で両耳を塞いだローは、心底迷惑そうな顔をした。
どうやら脱衣室に用意してあったそれは人数分用意してあるようで、ローも試しに身に着けてみたようだった。
「浴衣、というらしい。ワノ国では一般的な服装だそうだ」
「めちゃくちゃ似合ってますよキャプテン〜〜!!」
「いやキャプテンは何着てもかっこいい!!」
「分かったから離れろ…!」
纏わりつくクルーを引っぺがし、ローは空いていたいた椅子にどっかりと腰かけた。
「どうぞ、キャプテン」
「あァ、」
悪いな、と言いながらローは酒の入ったコップを受け取る。
それに口を付けながら騒がしいクルー達を見渡すが、目当ての人物の姿がない。
「……あいつはどうした」
名前を呼ばなかった事に意味はないが、察しの良いイッカクはすぐに誰の事をさしているのか感付く。
「エマなら、あそこです」
イッカクの視線に合わせてそこを見やれば、木にかかったハンモックに蹲る人影があった。
気になって近くに寄れば、エマが一升瓶を大事そうに抱えたまま、すぅすぅと寝息を立てていた。
「潰れたのか」
呆れられているとは露知らず、当の本人は眠り続けている。
しかしローが一升瓶に手を伸ばした瞬間、エマの手は瓶を取られまいと強く握り締めた。
「だぁ、め……」
「寝惚けてんのか?寝るなら中で寝ろ」
おい、とエマの頬を軽くぺちぺちと叩く。
するとくぐもった声が聞こえ、その後ゆっくりと目を開いた。
「ん、……ろー…?」
「こんな所で腹出して寝てんじゃねェぞ」
「腹なんか、出してないわよ……」
ローの言葉に寝惚け声ながらもムッ、として言い返した所を見ると、多少の酔いは冷めているらしい。
しかし、身体を起こしても腕の中の一升瓶は離さないままだった。
「まだ飲むつもりか?弱ェんだから止めとけ」
「私が弱いんじゃなくて、皆が強いのよ。いいの、私だってたまには……」
「どうした」
まだ半開きだったエマと目が合うと、その目は驚いたように見開いていった。
かと思えば、すぐに細められてにっこりと微笑んだ。
「ロー、すごく似合ってるわ」
「あァ?」
「浴衣って、言うんでしょうそれ」
「知ってたのか」
「ふふ、かっこいい」
「エマ、お前どれだけの量飲んだ」
エマは首を傾げてふふ、と楽しそうに笑うだけだ。
普段お世辞にも素直ではないエマから、素面でこのような台詞がポンポン出てくるとは考えにくい。
完全に酔っ払っている、とローは眉間に皺を寄せた。
「シャチがね、飲め〜〜ってうるさかったのよ」
「またあいつか……」
「船長が、2億になったお祝いだからって。それもそうだなって思って、」
「で、こんなになるまで飲んだってワケか」
「あぅっ、って、……あれ?」
「ッ、チィ…!」
おでこを軽く小突かれただけだったのだが、ゆらゆらと揺れるハンモックでバランスが取りにくかった事と、単純にエマが酔っ払っていた事が重なりその身体はゆっくりと後ろへ倒れていった。
伸ばされた小さな手を取って、少し乱暴に引き寄せる。
エマは反射的に目を瞑ったが、地面に落ちた衝撃はいつまで経っても襲ってくる事はなかった。
その代わり、ドン、と瓶が地面に落ちる鈍い音がした。
「どんくせェ奴」
上から振ってくる声、そして逞しい胸板に、間一髪で助けられたのだと理解した。
その左胸から聞こえてくる心音は、少しだけ速くなっていた。
「ごめん」
「なんだ、随分素直じゃねェか」
「……でも、元と言えばあなたが頭を小突いたから」
「前言撤回だ」
くすくすと笑って、エマはそのままローに身体を預けた。
「キャプテーン!エマ!大丈夫っすか〜!」
「エマ、起きたのか!水飲むか?」
「……お前等、こいつにあまり酒は飲ますな。危なっかしくて見てられねェ」
「大丈夫よぅ…心配性なんだから……いたいっ、わぁっ、」
「酔っ払いは黙ってろ」
ローは再びエマの頭を小突くと、そのまま俵のように肩に担いだ。
「せ、船長…もうちょっと、運び方……」
「吐いたら殺す」
「うっ……」
「あのキャプテン、エマならおれ達が運んでおきますよ」
「おれ達が調子に乗って飲ませ過ぎちゃったんで…!」
「必要ない」
「でも、」
足を止め、ゆっくりと顔だけで振り返った。
「おれの女だ」
「え?」
それだけを伝えると、ローは「ほどほどにしとけよ」と言い残して部屋へと戻って行ってしまった。
「「「エ〜〜〜〜〜ッ!!?」」」
イッカクを除き、クルー達のここ最近では一番の絶叫が島中に響いた。
***
「何、話してたの…?」
吐かない様に、とそちらに集中していたエマは、先ほどのクルー達の大絶叫の原因が何かを分かっていなかった。
そんなエマに、ローは「明日になれば分かる」とニヤッと笑った。
「これに着替えろ」
「んむっ、」
「……さっきも言ったが、酔うとどんくさいな」
「失礼ね……」
顔に投げつけられた布を広げると、それはローとは色違いの女性用の浴衣だった。
「お風呂入りたい……」
「冗談だろ、溺れ死ぬ気か?明日にしろ」
反論できず、エマはぐっと口をつぐんだ。
そして諦めたのか、ローに背を向けてつなぎを脱いで浴衣を羽織った。
一方のローはといえば、部屋の窓から外を眺めていた。
ほどほどに、と伝えたはずだが、庭の方からはクルー達のバカ騒ぎが今も聞こえてくる。
「ロー」
そんな賑やかな声とは打って変わって、ゆったりと落ち着いた声に呼ばれた。
振り向けば、薄暗い中でも目立つ桃色の浴衣を身に着けたエマがいた。
「これで合ってるのかしら…?」
両腕を広げてくるくると身だしなみを確認するエマに、手招きをする。
「襟は左が上だ」
「そうなの?」
「貸してみろ」
帯を解きながら、引き寄せる行為を同時に行う。
襟を左を上に直し、帯を締めるために細い腰に腕が回った。
器用なローはあっという間に着付けると「終わったぞ」とエマに声を掛けた。
「ありがとう」
「さっさと寝ろ。さっきから言葉に覇気が……、」
逸らされた顔が、赤く染まっている事に気が付いた。
その瞬間、自分の口角が上がっていくのが分かる。
「煽るのも大概にしろよ、エマ」
「……あなたのせいでしょ」
エマの手を取り、一組しか敷かれていない布団へと押し倒して、その唇に吸い付いた。