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平凡だった。
それで良かった。
そのはずだった。
アラガミが蔓延る世界で生まれた。
物心ついた時にはそういう世界だった。
外には危険な化け物がいるらしい。
そう教えられて育った。
たまに母に連れられて見る外の風景の端は、高い壁に覆われていた。
その先に行こうとも思わなかった。
母の用事が終われば、一緒に建物の中に入る。
エレベーターで地下に降りる。
我が家だ。
この内部居住区なら安全だと、この中で遊びなさいと言われ、何不自由なく暮らした。
父も夜には帰ってきて相手をしてくれる。
母もいつも笑っていてくれる。
当たり前に享受していた。
ある日。
内部居住区から出て、母に連れられて買い物をしていた時だった。
突然襲われた。
殴られたのか、何なのか、次に目覚めたら真っ暗な世界だった。
身体を動かそうにも椅子に座らされて、何かひものようなものが食い込んでいて動けない。
声を出そうにも、口に何かが挟まってうまく発音できない。
全身から血の気が引く。
何がどうなっているのか。
怖い。
そんな声も出せないまま、なんとかもがく。
「おい、コイツ起きたんじゃねぇのか?」
「起きようがこれじゃ同じだろ」
母の声じゃない。
聞き慣れない男の声がする。
誰かが近くにいるらしい。
「あんまり騒ぐようなら考えるけどな」
「やめなさい!」
男の声を割る、凛とした声。
何度も聞いたことのある。
母親の声だ。
「そんなこと言えた立場かよ」
「お前も大人しくしてろよ?大事な息子がどうなってもいいっていうのか」
「………」
「そう、利口だな」
母の声が消える。
今何がどうなっている。
ここはどこで、自分は何をされていて、知らない声は何人いて、母親は無事なのか。
「フェンリルからの返事は?」
「話通じねぇから1時間後に用意しろつって切った」
笑い声が聞こえる。
フェンリルとは、父と母が働いているところだろうか。
1時間後に何が起こるのだろうか。
単語を拾っても、状況が分からない。
「じゃあ1時間、お楽しみだな?」
「おいおい、良いのかよ?」
「生きてりゃいいんだろ〜」
言葉が滑る。
「その子には、手を出さないで」
「それはお前次第だろ?」
嘲笑に混じる布の擦れ。
母の声が押し黙る。
嫌な予感がする。
必死に身体を捩る。
軋む縄。
それでも手足に痛みが走るだけだった。
どうにか現状を打破出来ないかと諦めずにいれば。
ふと、静寂が走った。
静寂には情報がない。
自分も動きを止めて耳をそばだてる。
遠く、地が鳴る。
聞いた事の無い音が大きくなる。
こんな音を人は立てられるのだろうか。
立てられるとすれば、どれほど巨大な物だろうか。
馳せた思考は唐突に遮られた。
叩きつける爆音。
身体が跳ねた。
「アラガミだ!アラガミが来てる!」
「ハァ!?この辺りはいなかったはずだろ!」
地面を突き動かす振動。
喉を震わす声。
何かが、近付いてきている。
「しらねぇよ!とにかく逃げ…」
轟音がきた。
風が突き抜ける。
散開する砕ける音。
「ヴァジュラ……」
掠れた声は、流れる風に消える。
一歩遅れてつんざく悲鳴と、複数の足音。
教えられた、化け物、だろうか。
存在を聞かされていただけ、外に出なければ安全と、教えられた。
本当に、いるのか?
「イーギス!」
冷たくなる身体に、温かいものが触れた。
母親の声だ。
「大丈夫、大丈夫よ。貴方は私が守るから」
その奥で聞こえる悲鳴、何かが崩れる音。
母の息遣いが聞こえる。
激昂する声、断続する銃声。
それも、次第に小さくなっていく。
近づくのは、風圧と、振動と、獣の鳴き声。
「この子には、手は、出させない…」
母の体温が離れる。
名前を呼びたかった。
手を繋ぎたかった。
どちらも為せず、もがく事しかできない自分。
聴き慣れた母の足音に、化け物の足音が重なる。
ゆっくりだったそれが、動き出す。
叩きつける振動。
母の小さな悲鳴。
怖い。
怖い。
目元の布が濡れているのに気づいた。
外に出たら恐ろしい化け物に食べられると聞いた。
自分もそうなってしまうのか。
母もそうなってしまうのか。
「イーギス…」
母の柔らかい感触と体温。
いつもの声。
涙が止まる。
暖かさに包まれる。
愛情を身体全体に受ける。
詰まっていた息を吐き出す。
脳裏によぎる母の笑顔。
だが、それも一瞬で。
粘着質な咀嚼音。
聞いたことのない母の絶叫。
生暖かい液体が降り注ぐ。
これは、何だ。
浅くなる呼吸。
途切れることのない悲鳴。
ぐちゃぐちゃと鼓膜にこびりつく。
例えるなら、何かを食べるような。
何でも食べてしまう化け物と、母の悲鳴と、身体にかかる暖かい液体。
連想される答えは。
声にならない慟哭に、記憶は塗りつぶされた。




不慮の事故だった。
それで片付けられた。
後から聞かされたのは、フェンリルに対して恨みを持った集団が人質を取って支部外に立て篭もり、金銭や食料、権利などを主張していたようだ。
その最中、運悪くアラガミの襲撃を受けて死亡した、という事だった。
父も母も、フェンリルの職員として働いていたから狙われたのか。
アラガミ出現の報を受けて派遣された神機使いに救出され、一命を取り留めたのが自分だったという。
他人事のように、言葉が流れた。
残った現実は、母はもうこの世には居ないということ。
身体の傷は淡々と癒えていく。
明日にはもう、退院して良いそうだ。
「まだここに居た方がいいとは思ったんだけど…」
看護師が言葉を濁す。
いつも気にかけてくれた看護師だ。
「大丈夫、です」
この病室で、いつも何時でも様子の変わることのなかった病室で、過ぎ去る時を待った。
ほんの少しの間だけ、父親が会いにきてくれた。
忙しいのか、身体に触るからと気遣っていてくれたのか、顔を見せる程度だったけれど。
父親も辛いのだろう、致し方ない。
「ひとりは寂しい、から」
小さく、吐き出す。
誰に届くわけでもないそれは、いつの間にか消えた。



病棟からようやく居住区に戻ることが出来た。
荷物は先に父親が持っていってくれていたため、軽装だ。
見慣れた、自宅のドアを開ける。
「…ただいま」
帰る言葉はない。
当然だ。
父も仕事に出ていて居ないのだから。
照明の落とされたそこにあるのは暗闇。
見慣れた廊下の先が見えない。
広がる黒。
黒の先に、何があるのか。
何が。
粘着質な音が聞こえた。
聞いた事のある音だ。
液体がぶつかったような。
ものを引きちぎるような。
何かを、咀嚼するような。
慌てて電気をつける。
見慣れた廊下があった。
息を吐き出す。
いつの間にか心拍が上がっている。
呼吸を繰り返す。
音は聞こえない。
気のせいだったのだろうか。



しばらく経ち、玄関先から鍵を外す音が聞こえた。
父の帰宅だ。
玄関まで駆け寄る。
父と、この光景を久しぶりに見た。
いつも見ていた景色だったのに、口籠ってしまう。
「お、おかえりなさい」
「エリーズ…?」
父の口から漏れた別の名前。
母の名だ。
「え…?」
「あ。いや、ごめんな、今日だったな、退院」
すぐに視線は逸らされた。
俯いた顔は青白い。
「うん…。父さん、すごく顔色悪いよ…」
「あぁ、少しな、忙しくてな」
廊下を進む父の後ろを追う。
こんなに小さな背中だっただろうか。





「これは…?」
数度目になった、父の出迎え。
母がいなくなり、静かになった家。
まだ胸はチクチクと痛む。
でもそれは、きっと父も同じなのだ。
少しでも何か自分に出来る事はないかと探した結果。
出来たことは、母の真似事だったけれど。
母が亡くなってからは、父が仕事から帰ってきて食事を作ってくれていた。
忙しい父の負担が減らせられるのならばと、試みたわけである。
母が残してくれたレシピで、慣れない包丁を持って、慣れないフライパンを使って、出来た物は想像した物とは違ったけれど。
不揃いに切られた野菜。
所々焦げも見える。
父の役に立てるようにやってみたが、これでは逆に足を引っ張っただけではないのか。
そう悩んでいたら父が帰ってきた。
キッチンに広がる惨状に、父が驚いた声を上げたのだ。
とても顔を見る事が出来ず、しどろもどろに弁明を吐き出す。
「えと、ごめん。見様見真似だから、全然、母さん見たいに作れ」
「エリーズ!」
明るい声と、温かい体温。
「ありがとう、うれしいよ」
気付けば父に抱きしめられていた。
笑った。
父の笑った顔を、久しぶりに見た。
久しぶりに、人の体温を感じた。
「いや、すまん、あまりにも、似ている…から」
それはすぐに消えてしまったけれど。
慌てて腕は離され、俯く表情。
それでも、一瞬でも、父の気を晴らすことができただろうか。
そうか、こうすれば父は喜んでくれるのか。
ならばもっと上手くなれば。
もっと母の味に近づけられれば、もっと笑ってくれるだろうか。
そうだ、もっと、母みたいに。





「今日はね、前好きだって言ってたこれ作ってみたよ」
「エリーズ、ありがとう」
父から暖かく抱きしめられる。
毎日作れば、自然と腕は上がっていった。
慣れなかった調理器具も、かなり手に馴染んできた。
母の作ってくれていた食事のように、見た目も、味も近づけられるようになった。
母は、いるだけで周りを明るく照らす人だった。
よく笑う人だった。
母を見習えば、父も笑ってくれる。
父が笑ってくれるなら、元気になってくれるなら、それで良かった。
「エリーズ、聞いてくれ。今日また上司にこき使われて…」
「あはは、でもその上司さんのこと尊敬してるって前言ってたじゃん」
「そうだったか?いやでもとにかく今日は…」
たわいもない話を続ける。
笑い合う声。
家族の団欒。
やっと、取り戻した。
父も笑っている。
自分も笑っている。
暖かい家。
だが、時折何故か妙に寒いことがあった。
胸に冷たい鉛を押し当てられたような感覚。
風邪の引き始めかと、思考しているうちには消えている。
奇妙には思うものの、特に害があるわけでもない。
大事をとって、今日は早めに寝ようと決めその話にケリをつけた。




少し、自分が我慢すればいいだけだとそう思っていた。
父が自分を通して母を見ていることは分かっていた。
突然の母の死を受け入れるには時間が必要だ。
たまの休息で、こうして笑えるならそれでいいじゃないか。
そう思って、黙認していた。
「エリーズ、そろそろ、子供が欲しくないか?」
父の言葉に、耳を疑った。
「君も欲しいって言ってたろう」
振り返った先には、少し照れた父の顔。
何か、言わなければ。
急激に喉が渇いていく。
「明日は休みだし、どうかな」
父が近づく。
「ま、待って…」
ようやく絞り出した声は所々掠れていた。
もう触れられるほどの距離になっていた。
「冗談…だよね?」
「冗談?」
顔を上げる。
視線が合う。
対等に並んだ視線。
「何、言って…、おれ、母さんじゃ」
「黙れ!」
大声に肩を震わす。
合わさっていた視線は外された。
父が頭を抱える。
「やめろ、喋るな、違う、お前は違う」
痛みを紛らわせるように首を振る。
先の大声とは一転して、ブツブツと振動を吐き出す。
「父、さん…?」
様子がおかしい彼に手を伸ばせば。
「嫌だな、まだ父親じゃないよ」
ふっと顔を上げ、にっこりと笑うのが見えた。
事態を飲み込めず、伸ばした手は宙で止まる。
その手首を父が掴んだ。
「君は気が早いね」
口角を上げた表情。
見たかった表情。
でもそれを見せているのは自分にではなくて。
こちらを見ているのに、合わない視線。
「いや…、嫌だ!離して!」
「うるさい!喋るな!エリーズはそんなこと言わない!」
腕を振り払おうと揺らすが、父の手はびくともしない。
「父さん!おれ母さんじゃない!」
「黙れ黙れ黙れ!」
届くようにあげられた声が、さらなる罵声に潰される。
掴まれた腕を引かれ、バランスを崩して床に叩きつけられた。
「お前さえ、お前さえ居なければ!」
硬い衝撃が伝う。
冷たい床の温度を感じる。
「お前がエリーズを殺したも同然だ!」
腹部に走る痛み。
点滅する視界。
口から漏れる空気。
「お前が、お前が!」
何度も、何度も蹴られて、転がされて。
その先で父が息を荒げているのが見えた。
ぼやけた世界で、父の顔が歪んだ。
「お前がいなければ、エリーズは逃げられたんだ」
泣きそうに。
こんな顔をさせたくなかったのに。
「ごめんなさい、ごめん、なさい」
どこを間違えてしまったのだろうか。
無遠慮にめり込む足に、遅れて感じる鈍痛。
だがそれよりも胸に詰まった鉛の方が痛かった。
気付いていたのだ。
あの事件で生き残ったのは自分だけ。
何故自分だけ生き延びる事が出来たのか。
理由は単純だった。
母が庇ってくれたから。
母は化け物の襲撃と共に食べられたわけではない。
逃げる時間は十分にあったはずだ。
もし、動けない自分を置いて逃げていたら。
自分じゃなくて、母が助かっていたら。
父も笑顔を取り戻す事が出来ただろうか。
こんな顔を、させることはなかっただろうか。
「ごめん、なさい」
流れる液体が頬にかかる。
どうやって謝罪をすればいいのか。
父も母も、自分の所為で人生を滅茶苦茶にしてしまった。
ごめんなさい以外の、謝罪の言葉が見つからない。
「ごめ…んなさい。お…、私のせい、です」
言葉だけでは足りないか。
今は父のやりたい事を受け入れる事が罪滅ぼしになるだろうか。
身体の力が抜ける。
父から溢れた感情を飲み干した。





「エリーズ、そろそろ、子供が欲しくないか?」
あざも消えかけた頃だった。
小さく息を呑む。
「君も欲しいって言ってたろう?」
まるでこの前の事など無かったかのように、全く同様に紡がれる言葉。
「………あ、えと…」
ここで否定したから間違えたのだ。
父に悲しい思いをさせたから、殴られたのだ。
これ以上父を悲しませるわけにはいかない。
だが、ここで否定をしなければどうなる。
浅くなる呼吸。
「ふふ、恥ずかしいのかい?大丈夫、優しくするよ」
背中から体温が移動する。
後ろから回された腕。
大丈夫だ、出来る。
今までもずっと母を見習って生きてきたじゃないか。
まずは呼吸を整えなければ。
こんな時、母なら何と言うだろう。
父の求める答えは何だろうか。
震えることすら身体に許さず、正解を紡いだ。




「最近、間違い郵便多くないか?」
郵便受けから男が手紙を取り出す。
フェンリルのエンブレムが施された封筒。
「全くですね、いくらファミリーネームが同じと言っても、この方は存じ上げません」
男から封筒を受け取る。
これと全く同じものを一週間前にも見た。
ファミリーネームは同じだが、宛名は知らない誰か。
「そろそろ指摘するべきかな」
「そうですね…、そもそも同じ姓の方、こちらに居られるんでしょうか?」
この内部居住区内は決して広くはない。
そもそも、全てフェンリルの保護下に置かれているため、どこに誰が住んでいるかなど、一目瞭然のはずである。
それでもフェンリルは間違えて届けてきた。
「いや、聞いたことがないよ」
男は知らないと言う。
そして、自分も知らない。
理由は全く分からない。
「それとも…、君との未来の子供かな?」
男の笑う声がする。
つられて、顔が緩んだ。
「未来からきた手紙ですか。素敵ですね」
封筒から頭をあげる。
視線が絡む。
「…実現させようか?」
すっと、指先が顎の端を伝う。
「……子供、神機使いになってしまうそうですよ?」
唇に触れて止まる指。
「君が居ればいいよ」
その先は、触れ合った体温に呑み込まれた。





鳴ったインターホンに、慌てて返事をする。
駆け寄って戸を開ければ、見知らぬ顔。
同じ制服をきた男性数人が、並んでいた。
何事かと問えば、彼らはフェンリルの職員と名乗った。
フェンリルの職員ならば父に用事なのかと問えば違うと言う。
用事があるのは"イーギス"であると言う。
神機の適合候補者に選ばれたため、出頭せよと話す。
その人物に心当たりはないし、そもそも神機使いになれる年齢の者は居ないと返しても、通じぬ会話。
その問答をしている間に、主人も不審に思ったのだろう。
隣に立って庇ってくれた。
それでも話は平行線だった。
そのうちに焦れたのか、手を出してきたのはあちらだった。
「いや!やめて!離して!」
無理矢理に腕を引かれ、どこかに連れて行かれる。
「大人しくしろ!」
止めようともがく主人も多数の職員に押さえつけられていた。
主人のつらそうな表情。
こんなものは見たくない。
「どうして!彼を連れて行かないで!」
必死に伸ばした腕は届かずに空を切る。
「私が、私がいないと!」
叫んだ声も虚しく消えた。





静かな空間に、落ちる沈黙。
いつもの家じゃない部屋。
職員達に連れてこられ、ここに放り込まれた。
飛行艇の準備がどうのとか、今から行く場所はどこだとか何か言っていたが、全てどうでもよかった。
ここからは出られない。
元に戻れない。
それが事実だった。
父に求められた人物を描けない。
ならば自分に出来る事はもうない。
「イーギス・メラクリーノ、君は適合候補者に選ばれたんだ」
職員がまた何かを言っている。
ずっと噛み合わない会話。
「…誰?人違い、です」
「どう見てもお前がイーギスだろう!」
知らない名前。
でも何故かそれを聞くたびに手の平に違和感を抱いた。
何処にも、何も、怪我などしていないのに。
「……イーギス?」
「そうだ」
知らぬ名を復唱する。
手の平が疼く。
拳を握っても、もう片方の手で押さえても全く改善されない。
名前を呼ぶ度に、聞く度に、叫ぶように疼くのだ。
気持ちが悪い。
「イーギス」
凛と響き渡った優しい声。
顔を上げれば、車椅子に座った女性が居た。
「貴方がイーギスね、初めまして」
柔和に笑う女性。
また、噛み合わない会話。
手の違和感が増す。
「…違う、違う違う違う!私は…!」
「こら、暴れるな」
必死に首を振る。
また職員に咎められる。
何故こんなに必死になっているのだろうか。
何故咎められているのだろうか。
また間違えてしまったのか。
求められている正解は?
「大丈夫」
ふいに、やわらかい感触に包まれた。
「大丈夫よ」
頬から、身体から伝わるぬくもり。
ゆっくりと頭を撫でられる。
「貴方はイーギス」
手の平の違和感が、ようやく消えた。
絡まった緊張が解けていく。
「貴方の母親は、ここにいるじゃない」
「え…?」
視線を上げれば、微笑む女性。
頭を撫でていた手が頬に回る。
あたたかさが伝わる。
「今日から私が、貴方のお母さんよ」
「母さん…?」
はっきりと噛み合う視線。
女性が見てくれているのは、自分だ。
「そう。だから、貴方は貴方のままでいいの。もう演じる必要はないわ」
演じる、そうだ、ずっと演じていたんだ。
父が求めた人物を。
それが贖罪だったのだから。
「でも、父さんには、俺がいないと…!」
「大丈夫、お父様にもお医者様がついてくれています。貴方はまず、貴方の心を癒しなさい」
再び彼女の胸に包まれる。
心拍を感じる。
愛情を感じる。
「辛かったわね」
奥底に仕舞い込んだ悲しみが顔をだす。
これを認めてもいいのだろうか。
「頑張ったわね」
今までしてきた贖罪は、無駄ではなかっただろうか。
俺はここに居てもいいのだろうか。
価値のある人間なのだろうか。
「えらいわ、優しい子ね」
堰を切って溢れ出した涙と慟哭は、やっと声となって産まれた。





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