-03 沈潜

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どうやら目の前の彼女は両親に無理やりここに連れて来られたらしい。
そのことを話す彼女は妙に淡々としていた。
どこか胡蝶しのぶのような腹の底が見えない感覚。
少し苦手かもしれない。


「君は…それでいいのか」
「はい。もう覚悟は出来ております。この3日間、千寿郎様から色々なことを教えてもらいました」
「そうか、千寿郎が」
「とても優しい方ですね」
「そうだろう!千寿郎はとても良い子なんだ!まだ幼いがしっかり家を守ってくれている」

弟のことを褒められて少し気持ちが高揚してしまった。
そんな俺に釣られたのか微かに彼女が笑った。
良かった、どうやら笑えるらしい。


「杏寿郎様は、よろしいのですか」
「ん?」
「見ず知らずの私を妻にすることです。もし貴方が拒否するならば私は苗字家に戻ります」
「よもや!…そうだな、君のことはまだ会ったばかりでさっぱり分からないが、これから知っていけば良い!」
「…はい」

先ほど台所で千寿郎が珍しく楽しそうに笑っていたのを思い出した。
物心つく前から母親のいない弟は、俺が帰らぬ間ずっと父上と2人きりだ。
そんな弟のためにも家に女性がいるのは良いことかもしれない。

それに嫁いできた矢先に元の家へ戻すなど彼女が惨めな思いをしてしまうだろう。
まだ自分と同じくらい若い彼女が早々に周りから白い目で見られるのはいくらなんでも可哀想だ。
話を聞く限り、とても良い父親とは言えないようだし。
彼女のためにもこの煉獄家のためにも、ここは大人しく夫婦になるのが1番良いのだろう。


「うむ!俺も君とこれから夫婦になる覚悟が出来たぞ!」
「!」
「よろしく頼む!」
「こちらこそ、不束者ですがよろしくお願いします」


深々と頭を下げる彼女の長くて細い黒髪が、動きと共に流れるように落ちていく。
目が離せなかった。
これから目の前にいる女が自分の妻になる。
実感はない。
だが、なぜか嫌な気はしなかった。


「は!そうだ、すまない。名前はなんだったか」

父親に最初、唐突に言われたせいで全く記憶になかった。
俺の失礼な質問にも彼女は淡々と「名前です」と答えた。

「名前!と、呼んでいいのか?」
「もちろんです。ふふ、他になんと呼ぶのですか?」

彼女の顔がくしゃりと笑顔になる。
なんだ、こんな風に笑うのか。
美人だなあと思っていたが、笑うと美人というよりは可愛らしい人だなと感じた。


「では名前、呼び出して申し訳なかった!千寿郎と共に夕餉の支度を頼む」
「はい。杏寿郎様はお疲れでしょうからゆっくり休んでいてください」

緊張が解けたのだろうか。
最初よりも柔らかな雰囲気に変わった彼女は足取り軽く台所の方へ向かって行った。



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