これの続き
いつもより早く仕事を終えて電車に揺られていると、疲れもあってか眠気が忍び寄ってきた。うう、昨日も遅かったもんな。今日の会議で使う書類を連日遅くまで調整していたことを後悔する。 あくびを噛み殺して我慢してもだんだん瞼が重くなっていって、あと少しだし立ったまま寝ることもないだろうと吊革を握り直して目を閉じた。視界が遮られたことで車内のざわめきやガタガタとタイヤが線路を跳ねる音がより耳に入りやすくなったが、それも少しずつ遠のいていった。 次の駅は…お降りのお客様は…。沈みかけていた意識がアナウンスで浮上する。いけない、もうすぐ降りる駅だ。準備しないと。そう思っても目を開くのが億劫でぐずぐすしていると肩を叩かれた。 どうにか目を開いて視線をずらすと、見慣れた少年がわたしの名前を呼んだ。
「ななし」 「あれ、千里」 「いつまで寝てるの」
年の離れた幼馴染の姿がそこにあった。 弟と同じ学校に通う彼と会うのは少し久しぶりだ。家は近いのに、いつも先に帰っていたり何かとタイミングが悪いのだ。 実際、それだけではないだろう。弟にはついこの間、千里には会わなくていいと言われている。むしろ会うなと言いたいようだった。バンドも組んでいるし二人の仲が悪いというわけではないと思うけど、凛十はわたしをできるだけ千里に会わせたくないらしい。 どうやら千里がわたしに気がある、と、思っているようだった。年が10近くも離れているのに、このモテそうな彼がわたしなんかを本気で相手にするわけないだろうに。しかし弟はそうは思っていないらしかった。
「久しぶりだね、凛十は一緒じゃないの?」 「今日は練習の日じゃないから。ななしも今帰りなの?」 「うん、なんとか早く終われたの」 「そうなんだ、お疲れ様。ああ、もう駅着くよ」 「ぎりぎりでいいかなーって」 「ななしは抜けてるとこあるんだから、それだと忘れ物とかしそう」 「あはは、ありえる」
千里が呆れたように溜め息を吐くのと駅に到着するのはほとんど同時だった。足元の荷物を持ち上げると、それは一瞬でわたしの手から消えた。 千里は何でもない顔をしてわたしの荷物を持っている。
「千里、それ重いでしょ、持たなくていいよ」 「いいから。俺がやりたいんだ」 「そう?」 「そう。ななしには特別優しくしたいから」
小さな頃から知っている二人目の弟は、会わない間に随分と口が回るようになったようだった。思い出してみても確かに昔から凛十は千里に言い負かされていたっけ。 甘いマスクに柔らかな声。これはさぞモテるだろうな。昔はお姉ちゃんお姉ちゃんって可愛かったのに。
「言うようになったね〜」 「ななしにしか言わないよ」 「ほんとかなあ?」 「…信じてないね」
冗談を言いつつ歩くペースを合わせてくれる千里と並んで改札を抜ける。鞄に定期をしまっていると携帯が光っていることに気が付いた。取り出してメッセージを確認しようとしたけど、腕を掴まれて千里を見上げた。
「千里?」 「ねえ。なんでななしに優しくしたいか分かる?」 「え?」 「それはね、」 「っ姉ちゃん!」
掴んだ指先で手首を撫で、うっとりとわたしを見つめる千里の言葉を遮るようにして弟の声が響いた。少し怒っているようだ。
「凛十!やだ、どうしたの?」 「迎えに行くってラインしただろ」 「あ、これ凛十からなの。まだ見てなくて」 「まあいいけど。帰ろうぜ」
凛十はそう言うと叩くように千里の手を払って、代わりに手を繋いだ。この間は嫌がったくせに。
「じゃあ俺も一緒に帰るよ」 「は?千里は別で帰れよ」 「方向一緒だしいいでしょ」 「駄目だ、よくない」 「なんで凛十が決めるの」 「よくないからだよ!」 「俺はななしに言ってるんだ。凛十には言ってない」 「はあ〜?!」
二人はわたしを挟んで言い合いを始めた。頭上を飛び交う攻防…いや、守ってないな…攻攻?にわたしは溜め息を吐いた。 凛十はイライラを隠さずに口調を荒げているけど、千里は冷静に言い返している。千里のその落ち着いた口調がまた凛十の苛立ちをつついてヒートアップさせていることに、きっと千里は気付いているだろう。
「とにかく、駄目って言ったら駄目なんだよ!」
言い返せなくなったのか面倒になったのかは分からないけど、凛十は千里からわたしの荷物を引ったくるとほとんど走るようにして駅を後にした。
「凛十、凛ちゃーん、お姉ちゃん足痛いよ」 「あ、悪い」
凛十はペースを緩めると、バツが悪そうにちらりと振り返った。
「なあに、お姉ちゃんとられると思ったの?」 「前にも言ったと思うけど、ほんとそれ洒落になんねーからな!?」 「まさかあ」
千里の初恋が、おそらくわたしであろうことはなんとなく知っている。昔から凛十と取り合うようにしてわたしにべったりだったし、小学生に上がった頃にはどうしたらお嫁さんになってくれる?なんて聞かれたっけ。たんぽぽの花束もってきたりして。 しかし、それが成長した今でもそうだとは思えなかった。
「さすがに千里も本気じゃないと思うよ?」 「いやいやいや、姉ちゃん、あいつほんとにマジだから!しっかりしてくれ」 「うーん?でもお姉ちゃんは凛十のお姉ちゃんだよ」 「…それは当たり前だけど」 「凛十がいいよって言うまでお姉ちゃんお嫁に行ったりしないから」
にっこり笑って言えば、無言でぎゅうと強く手を握り返された。 わたしは一般よりもずっと弟が好きだと自覚している。それは凛十も同じだろう。もちろんそれはティーンズ向けのコミックなどにあるような禁断のなんとかのようなものではない。 だとしても、わたしはこの子が嫌がるならお嫁に行くことだって渋るだろう。未だに家を出ずにいるのも凛十と離れたくないからだ。 わたしの可愛い可愛い弟。
「大丈夫!お姉ちゃんが一番好きなのは凛十だからね!」 「ばっ馬鹿じゃねーの?」
照れてそっぽを向いてしまったが、お姉ちゃんにはちゃんと聞こえましたよ。
「まあ、俺も姉ちゃんのこと好きだけど」
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