これ の続き

土曜日、昼下がり。朝のうちに洗ったジャージを抱えて、お隣の朔くんの家に向かう。天気がよくてよかった。おかげで分厚いジャージもすぐに乾いてくれた。
そういえば、朔くんの匂いって…そんなに強かったかな?香水とかしてたんだろうか。元凶となったジャージをくんくんと嗅いでみたが、それはもううちの柔軟剤の匂いだった。
新海くんのイライラした表情と猛獣の瞳。それから掴まれた手首と…、そこまで思って首を左右に振った。昨日のことを思い出すと顔が熱くなって、どっと疲れが押し寄せてくる。心が乱される。だめだ、思い出さないようにしよう…。
カーディガンを無理矢理引っ張って手首を出来るだけ隠す。生地が擦れて、ちりっとした感覚がどうしてもそこを意識させた。

インターホンを鳴らすと、朔くんが出てきた。おばさんたちは出かけているらしい。
何故か昔から朔くんはわたしが家へ訪れると、待ち構えていたかのように素早く迎え入れてくれる。確かに玄関のすぐ横にある階段を登れば突き当たりは朔くんの部屋だ。だけど、こんなに早く出てこられるだろうか?どたばたと駆け下りる音も聞こえない。魔法のようで、不思議なことだった。

「朔くん、これありがとう」
「ああ、持ってきてくれたのか」
「うん。早く返した方がいいでしょ?月曜日まで待つと忘れちゃいそうだし」
「わざわざ悪いな」

抱えていたジャージを手渡した。これで任務完了だ。
受け取った朔くんは、作業中だったのか少し疲れた顔をしている。もしかして結構、煮詰まっているのかな。彼は昔から熱中すると止まらないタイプだから心配だ。
そういえば。心配するわたしをよそに、朔くんが思い出したかのようにそう言ってにっこり微笑んだ。体がびくっと強ばるのが分かる。あ、れ。これ、機嫌、すごく悪いやつだ。急いで回れ右をしようとしたけど手首を掴まれてしまった。秘密の手首を。

「もう帰るのか?」
「う、うん、あの、あの、宿題、あるから」
「ななし、じゃあその前に」
「あっ、だめ!」

掴まれた腕を引き寄せて、袖を捲くられた。くっきりとした青紫の歯形が存在を主張している。ぎらり、朔くんの瞳に苛立ちが灯った。
終わった。どう言い訳しても朔くんは納得しないだろう。彼はわたしに男の子が近付くのをひどく嫌う。いわゆる、シスコンってやつだと思う。うちのななしに何か用か?仲のいい男の子ができると、必ず朔くんはそう言って笑った。

「…ななし」

笑顔の朔くんが静かに名前を呼ぶ。綺麗な笑顔なだけに恐ろしさはひとしおだ。こわい。ぷるぷる震えながら返事をすると、掴んだ手首を目線の高さまで持ち上げた。朔くんの目は笑っていない。
ていうか、なんで気が付いたんだろう。隠そうとしすぎて必要以上にそこを意識してしまっていたのだろうか。本当に朔くんの駆除センサーは侮れない。

「これは?」
「えーっと、えっと、なんだったかな?」
「誰にやられた」
「えっ?あの、誰かなあ」

新海くんの身が危ない。わたしが庇わないと!新海くんが原因だということもすっかり頭から抜け落ちて、使命感にかられる。朔くんの中ではもうすでに、わたしに好意をいだく不届きな輩がいて、それによって出来た傷だということになっている。いや、正解なんだけど。正解なんだけど、脳内では実際よりもずっとずっと大事になっているに違いない。
とにかく、わたしが庇ってあげないと本当にバンド解散の危機とかになるかもしれない。いくらわたしと新海くんがクラスメイト程度の関係で、彼らの活動について疎くてもそのくらいは察せる。朔くんは、本気だ。

「ななし、言えないなら…分かるな?」
「ひっ、ごめんなさい!新海くんです!新海くんに噛まれました!ごめんなさい!」

ごめんなさいお母さん。わたしは自分可愛さに般若にクラスメイトを売りました。だって駆除モードの朔くんってほんとに怖いんだよう…。
凛十のやつ…。呟かれたそれはいつもの声よりも低くて朔くんの怒りを表していた。歯形を一撫でするとぽんぽんと頭を叩かれた。

「ななし、俺はちょっと用事が出来たから」
「え?!待って!朔くん、もしかして新海く」
「なんのことだ?」
「食い気味だね?!ぜっ絶対そうでしょ?!ちょっと、やめてよ!恥ずかしいから!」

だめだ、これは。完全に駆除モード入ってる。確かに朔くん助けてとは思ったけど!そういうことじゃなくて、事が起きる前に助けて欲しかったというか!今はもう遅いというか!
久しぶりのことについていけず、軽く目眩がする。

「凛十…絶対許さないからな」

新海くん、逃げて!ちょう逃げて!


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