新海凛十とわたしはただのクラスメイトである。
席が近いわけでも、特別仲がいいというわけでもない。用があれば声をかけ、たまに挨拶をする程度。「教室」という世界の一部。あとは、係りが一緒、いちおう。もう一度言おう。わたしたちはなんてことない、ただのクラスメイトである。
それが彼の認識だろうし、わたしもそう思っていた。だからこそ今のこの状況が飲み込めなくて、彼いわく「すっげーマヌケヅラ」を晒している。
そんなことは今はどうでもいい、お願い。誰か助けて。

事は体育倉庫で起こった。クラスの体育係であるわたしと新海くんは、使った用具を片付けていた。新海くんはボールを戻したかごをぶつぶつと愚痴を零しながらも、倉庫へ運んでいく。しっかりと役目を果たしてくれたので粗方の整理も早めに終わり、倉庫の中で道具のチェックをしていた時だった。
ふいに後ろから両肩をがっしり掴まれた。硬い指先が強く肩を押さえ込んでいる。色気も何もあったものじゃないけれど驚きのあまり、ひっ、と情けない声が口から飛び出す。振り向く間もなくうなじ近くに違和感を感じた。

「し、んかいくん!?」
「いいからちょっとじっとしてろ」

何もよくない。全然、よくない!体育のあとの乙女にはいろいろ事情があるのだ。それを捕まえて、後ろから匂いを嗅ぐなんてちっともよくない。最低だ!横暴だ!心の中のわたしは果敢に反抗している。
ただし混乱したわたしの口からは溢れていかず、どんなに身を捩っても男の子の力には敵わない。新海くんの吐き出す息が首筋を這った。
新海くんが犬のようにすんすんと匂いを嗅いでいる間、わたしは本当に死にたかった。汗臭いのは自分でも分かっているし、確認なんてされたくない。なのに彼はやめてくれる素振りもない。

「…おまえ」
「え?」

どれくらいそうしていたのかは分からない。1分に満たなかったかもしれないし、10分以上経っていたかもしれない。顔を上げた気配を感じて、少し力が抜けた。あ、やめてもらえる。と、思ったのも束の間、今度はもっと肌に近いところ、それこそ鼻の頭が当たるくらいのところで匂いを嗅がれた。すんすんすんすん。
それは苛立ちを含んでいたように思える。掴まれたところに更に力が入った。

「ひえっ!」
「おい、オマエ」
「なあに…?」
「…ニオイが、する」
「た、体育のあとだもん」

ちげーよ!ぎろり、首だけで後ろを向いたらすごい顔で睨まれた。こ、こわい!なんで?!この人なに怒ってんの?!完全にパニックである。わけが分からなくて固まったまま彼を見上げると、また新海凛十から犬に戻ってしまった。
運動した時とは違う汗が背中を流れる。冷や汗だ。だんだんクラクラしてきた。恥ずかしくて意味が分からなくて、涙も滲んでくる。首元に神経が集中しているみたいにあつい。
早くやめてほしくて言われたとおりにじっとしていると、今度こそ体が解放された。
おそるおそる新海くんを見上げると、やっぱり怒ったような顔をしてわたしを見ている。本当に意味が分からない。

「おまえ、さくのにおいがする」
「…?」
「だから、お前から朔のニオイがするって言ってんだよ」
「さくの、におい」
「そうだよ、かがみさく」
「かがみさく、…朔くん?」
「だからそうだって言ってんだろ」

いらっ。物分かりの悪いわたしに痺れを切らせ「朔のにおいだよ」と繰り返した。朔くんのニオイ?わたしから?呆然として二の句を告げないでいると、苛立たしげに舌打ちをされた。ぎらり、新海凛十から犬へ、犬から猛獣へと姿を変える。あっ、わたし、終わったかも。心臓がひやりとした。

「朔と何した」
「し、してない!なにも!」
「オマエ朔と付き合ってんのか?」
「新海くんが何言ってるか分かんないけど、誤解してるから…っ」
「は?」

にじり寄ってくる彼から一歩、また一歩と後退る。その度に近付いてくるから逃げ場はないけど。それでも逃げることをやめられない。わたしは自分の身が可愛いのだ。
ふと、見下ろす瞳が苛立ちに揺れているのに気が付いた。どうしてそんな顔するんだろう。この人はわたしに何を求めているんだろう。
近付く距離に耐えなれなくなって半ば叫ぶように言い訳が転がり出た。

「朔くんとはっ、幼なじみなの!」
「…は?」
「つきあってなんか、ない」

ジャージ忘れたから、かりまし、た。威圧感に押されて言葉尻がよれた。ふいに手首を掴まれて、鳴りを潜めていた猛獣がむくりと首をもたげた。「本当に付き合ってないんだな?」やけに攻撃的な声色だ。慌てて何度も頷く。

「ほ、ほんと!ほんとだから!」
「ふーん、覚悟しとけよ」

そういって猛獣はわたしの手首に噛み付いた。
お願い、朔くんたすけて。



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