小説 | ナノ


  ゆめとうつつと3


 空中を移動したのだろう。
 匂いは空気にまぎれて、僅かにしか香ってこなかった。けれども、私にはそのほんの僅かでも跡が残っていれば十分だった。その跡を追って、建物の屋根を蹴って宙を舞う。確かに私は真っ直ぐその跡を追っていた。僅かずつではあるけれど、濃くなっていく匂いに私は道が間違っていないことを確信した。

 以前、アリババさんの匂いはどんな匂いがするのかと、問われたことがある。私は、他のどの匂いとも違うように感じたから、どう形容していいのかわからなかった。似た匂いを並べられても、私はハッキリとアリババさんの匂いをかぎ分けられる。どうしてかわからないけれど、それだけは実際にそうなると本能から感じ取っていた。
 その理由なんて知らなかった。アリババさんに再会して、彼女に強い好意を抱いていたことを自覚する前は。

――迷わずアリババさんを追いかけられるのは、大切な『仲間』だから、という理由だけじゃない。

 宙を駆けている間に、胸に抱いていた焦燥は落ち着き、胸の内が静かになっていく。
 悩み続けていた後悔は、アリババさんの身を案じた瞬間消えていた。後悔も悩みも忘れた訳じゃない。ただ、どんなに理由をつけても、自分の内側にある思いはたった一つだけだった。

 昨晩の記憶がないと言ったところで、全く身に覚えのないことでない。彼女を抱きたいという思いは以前からずっと私の内にくすぶり続けていたのだから。

 それをアリババさんに知られるのが怖くて、昨晩の行為を許そうとする彼女から私は逃げてばかりだった。そんな自分の態度が何よりもアリババさんに哀しい顔をさせていたのだと、思う。

 自覚した自分の思いを隠すことでアリババさんを苦しめてしまうなら、その思いなど隠さなくて良い。
 懺悔と共に告げて、その上でその思いが砕けるなら、それでいい。
 それが、私自身が選んだ私への罰だ。

 後悔は全て後ろに置いていく。

『……モル、ジアナ……』

 風に乗って声が聞こえた瞬間、私は足元を強く蹴った。
 一直線に、その声が聞こえた場所へと跳んでいく。

――アリババさん、私は。

 あなたのことが好きだ。
 あなたの傍にいたい。
 あなたを守りたい。

 あなたを誰にも渡したくない。奪われたくない。
 あなたを私だけのものにしたい。
 あなたから離れたくない。

 あなたと、どこまでも一緒に行きたい。

 元奴隷として過ぎたる思いであることはわかっている。
 けれども全て話してしまおう。どんな結果になろうと告白しよう。

 建物の分厚い土壁を、音を立てて私は突き破った。






 土ぼこりが舞う薄暗い部屋の中でも、私の眼ははっきりと相手を捕らえていた。
 匂いで敵が誰かもはっきりとわかる。自分の能力をこれほど恨めしく思ったことは今ほどないだろう。敵が分かるのと同時に、ベッドに押し倒され、裸体のまま組み敷かれているのが誰なのかもわかってしまったのだから。

 それを認めた瞬間、何かを考える前に体が動いていた。
 暗闇の中、跳び込み、うなる右足を突きだせば、身を起こした相手に足が届く前に見えない障壁――魔法使いの強固な防護壁に遮られる。こうなることはわかっていた。弱い防護壁なら壁ごと相手を蹴り飛ばされるが、相手がマギとなればそんなに簡単にはいかない。
 が、そんな相手が軽く浮いた。相手の足場がベッドの上だったせいだろうか。不安定な足場と不利な体勢で力の相殺を誤ったのか。その一瞬を逃さず私は足にいっそうの力を込めた。バランスを崩し浮いた防護壁ごと、ジュダルを部屋の壁へと弾き飛んでいく。
 そのまま間髪いれず、ジュダルから庇うようにアリババさんの前に立った。

「アリババさん。遅くなって、すいませんでした」
「……モルジアナ、なの、か?」
「はい」

 近くにあった布を空気にさらされたままの彼女の肌を隠すように被せた。その近くに、布包みのままの彼女の剣をそっと置く。周囲に散らばった衣服が目に入り、拳を強く握りしめて部屋の奥を睨みつけた。手首の拘束を今すぐにでも外してあげたいが、その隙を相手が与えてくれるとも思えなかった。

「チッ。来るのが早えーよ。こっちはお楽しみ中だったんだから、空気読めよな」
「……」

 杖を胸元から取り出した相手と静かに対峙する。
 怒り、というものは本当に感じてしまうと何も言葉が出てこないらしい。
 胸を焦がす怒りとは対照的に、状況を観察する思考は冷静だった。腕の眷属器に、炎がぼんやりと灯る。アリババさんの近くに金属器を置くことで、眷属器が使えるようになるかどうかは賭けだった。

「……もう、遅れはとりません」
「眷属器使いのくせに俺に勝てるとでも思ってんの?」
「試してみますか?」

 腕輪から伸びる鎖は、私の意思がそのまま伝わっているかのように小さく音を立てている。

 どちらが先に動くのか。

 睨みあいながらいつでも跳びかかれるように、足幅を僅かに広げた。

「――アモン」

 そんな中、部屋に響いた声は、小さくとも私でもジュダルのものでもなかった。

「!?」
「!?」

 振り返らずとも背から感じる熱気。目の前のジュダルも予想外のアリババさんの行動に、息を飲んだようだった。
 ジュダルから目を逸らさないようにしながら、視線をずらせば剣を手に立ちあがり魔装をしているアリババさんの姿があった。よほど想定外だったのか、ジュダルはアリババさんの姿を呆けるようにして見ていた。
 暗闇でもわかる赤と黒が混じった鎧が、内側に炎を秘めているように淡い紅い光を放っている。
 剣は構えているが、アリババさんの足元はまだおぼつかないように見える。立っているのも辛そうだった。

 一拍置いて、呆けてアリババさんを見ていたジュダルが声を立てて哂った。

「は、ははははは! よくその身体で動けたもんだな。……仕方ねえなぁ。アリババクンの根性に免じて今日は引いてやるよ」

 そう哂いながら、ジュダルは空中に細かい氷の槍を一斉に出現させた。杖が振り下ろされるのと同時に、それらが迫ってくる。

「炎翼鉄鎖――アモール・セルセイラ――!」

 私の叫び声と共に、眷属器の鎖が宙を舞う。熱を帯びた鎖で、その全ての氷の槍を砕き、蒸発させていく。
 一瞬視界が真っ白な水蒸気で包まれ、部屋に空いた穴から人影が出ていく。視界が晴れた後はジュダルがいた場所には誰も残っていなかった。

――逃げたのか?

 周囲に意識を張るが、隠れてこちらを狙う気配はもうない。本当にジュダルは去ったらしい。
 ゆっくりと私が息を吐いた後ろで、とさり、と音がした。その音に振り向けば魔装が解いたアリババさんがベッドの端にもたれかかるようにしてしゃがみ込んでいた。




「アリババさん!」

 崩れ落ちた彼女にかけよれば、苦しそうに息をしながら彼女が顔を上げた。安心したように笑ってはいるけれど、頬に残っている涙の跡が痛ましい。

「……あり、がとな。モルジアナ。助けに来てくれて……」

 被っている布はずれ落ちていて、アリババさんの素肌が半分以上月明かりに照らされていた。照らされ白く浮かび上がる肌に、食い入るように眼を奪われていたことに気付いて、私は慌てて首を横に振った。

――な、何を考えているんだ、私は!

「モルジアナ?」
「な、なんでもありません!」

 首をかしげてアリババさんに上目遣いに見上げられると、鼓動がはやくなる。素肌をさらけ出して、潤んだ目で見上げるなんて――。無意識にやっているのだとしたら、人が悪すぎる。
 目にしてしまうのがいけないんだ。と、ずれ落ちている布を彼女の肩までかけ直そうと、私は手をかけた。布ずれの音と共に、アリババさんが体を震わせた。

「ヒャァッ!」
「……ア、アリババさん?」

 突然上がったのは甘い声。
 一瞬、何が起きたのかがわからず私は目を白黒させてしまった。え? 変な所を触りましたか、私? と聞くこともできず、顔を真っ赤にして口を押さえているアリババさんを前に、手を止めてしまう。布を掴んだまま、何も言うことができず向かい合っていた。
 沈黙を破ったのは、部屋の外から聞こえてくる足音だ。壁を壊したり、騒いだりしているのだから、宿の人間が様子を見に来ないはずがない。

「と、とにかくここを去りましょう!」
「お、おう」

 床に散らばっているアリババさんの服をかき集め、見つけた鞘にアモンの剣を収める。それらの荷物を一まとめにして、布を巻きつけたアリババさんを両腕に抱きかかえた。
 さっきの様子が気になるけれど、細かいことを気にしている時間はない。

「このまま私達の宿に戻りますが……。いいですか、アリババさん」

 服を脱がされてはいたけれど、最悪は回避された。
 そう思っていいんですよね。アリババさん。駆け寄ったときに彼女が見せてくれた笑顔はそうゆうことだって思いたい。

「……ああ」

 返ってきた返事は小さかった。アリババさんは何かを堪える様に、口を結んで震えていた。

――その理由も後で聞こう。

 入って来た時と同じように、私は、壁のふちに足をかけた。






 体が熱い。熱くてむず痒くて、気を抜くと変な声が口から漏れてしまいそうだった。
 ジュダルに飲まされた薬がとうとう本格的に回ってきたらしい。体の熱は上がっていく一方で、モルジアナに抱きかかえられている間も酷くなっている気がする。
 特に、モルジアナが地面を蹴る衝撃。そいつを感じるだけでも、色々とヤバイ。布越しに全身を揺さぶられて、声を堪えるだけで精一杯だ。

――もっと触れて欲しい。

 ぼんやりと、そんなことを考えながらモルジアナの顔を見上げていた。
 布越しじゃなくて、素手で、俺の肌を、もっと――。
 と、そこまで考えて、不意に熱に浮かされた思考から解放され、慌てて心の中で首を振った。

――イヤイヤイヤ。何考えちゃってんの、俺。薬。薬のせいだよね? そうに決まっているよね?

 頭に浮かんだ想像を俺は必死に振り払う。
 熱に浮かされて余計なことを考えていた。大体、モルジアナが俺にそんなことを――。
 そう考えて、俺は現実を思い出した。

――ああ、そうだった。

 昨日のモルジアナの行動は全部ジュダルが仕組んだこと。
 それを俺はモルジアナに伝えないといけない。モルジアナは何も悪くないって、モルジアナは何も気にする必要がないって――、伝えないといけない。
 自分の意思じゃないのに、俺に乱暴を働いたんだと、自分自身を責めてモルジアナは苦しんでいた。彼は不当な苦しみから解放されるべきだ。
 覚えてもいないんだ。彼が何の感情も俺に向けてないってことはわかったじゃないか。
 俺を抱きながらモルジアナが俺の名前を呼んでいたのも、全部ジュダルが仕組んだことだろ。

 それなのに、俺が彼を『欲しい』だなんて。
 今度は俺の身勝手で彼を苦しめるだけじゃないのか。

 モルジアナはこの街のどこにいるともわからない俺を、こうして見つけて助け出してくれた。
 俺は感謝こそしても、これ以上彼を苦しめるつもりはない。ジュダルがやったことをモルジアナに話せば、本当の意味でこの話は終わりになるんだ。文字通り、『なかったこと』になる。

――でも、俺は。

 何故か、そう思うと胸が苦しい。
 
――俺は、モルジアナのことをどう思っている?




「……モル、ジアナ……」
「どうしました?」

 呼べばやさしい彼は足を止めてくれた。足を止め、俺の顔を覗き込んでいる。夜風が月明かりに照らされた彼の髪を撫でる。
 その彼に布の隙間から手を伸ばした。頬に触れると、風に当てられてか冷たくなっていた。火照っている手にはその冷たさが気持ちがいい。

「ア、アリババさん?」

 彼の腕の中で、身を乗り出して――。
 自分の気持ちを確かめるように、俺はモルジアナの唇に自分の唇を重ねていた。少し乾いた唇。でも、重ねているだけで胸が暖かくなっていく。

――うん。嫌じゃない。安心する。

 痛くて怖かったけれど、それでもジュダルに操られたのがモルジアナで良かった。って俺は思っている。

「俺、やっぱりモルジアナのことが好きだ」

 『なかったこと』になんてしたくない、なんて。俺はわがままなんだろう。
 それに、これが最後になってもいいから、もう一度モルジアナに抱いて欲しい、だなんて。

 口角を上げて言ったけれど、俺はうまく笑えたんだろうか。






  モルジアナから手を離して、俺は両腕を掻き抱いた。モルジアナがどんな表情をしているのか、見てみたいけれどそれも叶わず俺は俯いた。

――マズイ。

 熱を上げていく体が、どんどん思考を熱で支配していっている。
 嫌でもジュダルに飲まされた薬の意味がわかってしまう。どうして、あんなにもあっさりとジュダルが引いたのかという理由も、わかってしまう。
 このままじゃ俺の意識なんていつまで保てるかわかったもんじゃない。体が誰でもいいから、他人を求めてしまいそうな恐怖。気が狂っていく。俺がこうなるのをジュダルはわかっていたんだ。その上で俺が苦しむことも織り込み済みなんだろう。
 でも、そうなるなら――俺だってなけなしの理性で選びたい。

「頼み……が、あるんだ」

 吐く息が熱い。モルジアナの顔も見れない。説明したくても言葉をろくに繋げられる時間がない。
 最初で、最後のわがままにしようと思った。

「俺を、抱いて欲しい」





「……後悔、しませんか?」

 こくり、と俺は頷いた。 


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