かごのとり5
白龍がまたあの部屋に行ったと聞いて、少しだけ足を運ぶのが億劫になった。
また、アリババは白龍に抱かれて泣いているんだろうか。どうもあの涙が嫌いだ。俺に抱かれた後に流したことのなかった涙がどうにも見ていて居心地が悪かった。俺よりも白龍の方があいつの中で大きく心を占めている存在だと、見せ付けられているようで。
またその涙を見せられるのかと思うと気分が悪い。それでも俺が足を運ぶのはなんでだろう。理由がはっきりせず胸がむかついた。アリババに同情を感じるような精神を俺が持ち合わせているなら、そもそもこんな場所に監禁することもないだろ。だから同情ではないことだけはハッキリとわかっていた。
扉を開ける。
次の瞬間、俺の内側を占めていた陰鬱な気分は、全く違う意味で消えていた。
静かな部屋。手付かずの食事。
――この部屋はもとから静かだ。
元々アリババ一人しかいないということのもある。寝ていることもあるが、起きていても鎖で繋がれているせいで、ぼんやりとイスに座っていることが多いからでもあった。
けれども、部屋の奥。ベッドの上には誰も横たわっていなかった。もちろん机のイスにも誰も座っていない。ベッドのシーツに潜り込むように繋がっていた鎖は引っ張れば、じゃらりとその先が床の上に落ちた。鎖の先は鋭い刃物で切り落とされたように断面が平らだった。
食事を運んだ女中から異変の報告はない。となれば、この部屋からアリババが抜け出したのは食事が運ばれた後なのだろう。あまり時間は経ってないが、アリババはこの部屋から抜け出していた。
――ああ。何だ。そーゆーことか。
空になった部屋を見て、俺は一人胸中で呟いた。
信頼していた友人に犯されて傷ついているフリで、俺から同情かって注意を逸らさせた。で、二人して逃げる算段をつけてたってことなんだよな。刃物なんてこの部屋にはない。侍女が持ち込むはずがないとなれば、他に思い当たるのは白龍くらいだった。
――まんまと騙されたわ。
ふつふつと湧き上がってきたのは怒りだった。騙された。謀られた。俺の前で見せた涙は全部演技かなにかだった。
いつ口裏を合わせたのかという疑問は浮かばなかった。白龍にはアリババを逃がした際に俺がどう行動するかは伝えてある。少なくとも軽はずみな理由で鎖を外したりはしないだろう。
――連れて来たのは誰だと思ってんだ。
四人目の生意気なマギに、自分が選んだ王が無残に堕転した様を見せ付けたかった。堕転せずとも犯され穢された惨めなアリババの姿を見せつけたかった。どんな風にあのチビマギが自分の王を見るのか。絶望するのか。怒りに狂うのか。それが愉しみだった。
アリババの逃亡によるショックが、俺に忘れかけていた当初の目的をしっかりと思い出させた。
――誰が逃がすかよ。
俺はきびすを返して部屋を後にした。
重い体を引きずって、建物の物陰に隠れつつとにかく移動した。
昨晩散々酷使された体は動かすのも億劫なほど重い。それでも目が覚めた後、足枷に鎖が繋がれていないことに気付いてすぐに俺は行動に移した。食事には手をつけなかった。また薬を盛られている可能性だってある。そんな食事を食べれるはずがなかった。かといってお腹が空かないかといえばそうじゃないのが辛いところだった。
道がわかるわけじゃないし、当てがあるわけでもない。唯一一度行った練白瑛の住居への道は、複雑に入りこんでいて一人で行ける自信がない。そもそも、俺は練家の住居を目指したいのではなく、人通りの多い市街地に出て人ごみに紛れたかった。逃げる。それしか今の俺には考えれなかった。
――このまま逃げていいのか?
不意に脳裏によぎった迷いに足が止まった。頭に浮かんだのは泣き出しそうな白龍の顔だった。白龍をこのまま置いていっていいのか? そりゃ、今の関係は間違っている。俺はもう抱かれたくない。だったら、逃げるしかないんだ。そうだろ? ここに連れてこられてから初めて手に入れた逃げ出すチャンスだ。ずっと機会をうかがっていたチャンスをわざわざ自分で無為にすることはない。
バルバッドの宝剣を取り返して、レームに戻って、修行を再開して、力を身につけて――。
『それなのに、どうして俺が一人じゃないなんて言えるんだ!?』
脳裏に白龍の言葉がよみがえった。思わず胸に沸いた感情に奥歯を噛み締める。
俺が何を言っても、あいつは今一人なんだ。ザガンのときのように一人で何かを背負って、自分一人で何かを成し遂げようとしている。バルバッドで霧の団の頭領をやってた時の俺と同じで、心が閉じこもっている。
こうゆう時に何が必要なのかを俺は知っている。目的を成し遂げるのに十分な力じゃない。一緒に考えて、一緒に戦ってくれる仲間だ。そうすれば一つの考えに固執せずに、今よりもっと良い方法を、目的を達成するのに別のやり方だって選ぶこともできる。
――一緒に居てやらなきゃなんて――。
ばかげている。自分でもそう思う。監禁されて、繰り返し陵辱されて――。その相手を気遣うなんて、普通考えられないだろ? 絆された? 省みる必要なんてないんだ。逃げるか、復讐するかが当たり前なんだ。信頼していたのに裏切られたのはこっちだ。食事には薬を混ぜられた。嫌だと言ったのに抱かれた。
重い足を引きずって細い路地を歩く監禁されて体を動かせない生活が長かったせいか、体力はがっくりと落ちている。まずは安全に身を隠す場所を早く探さないといけない。頭ではわかっている。それなのに。
――それなのに、どうして足が止まるんだよ。
本当に、俺は馬鹿だ。
何もなかったことになんかできない。見なかったことになんかできない。
まだやり直すことができる、間に合うかもしれないと、希望を捨てきれない。どうして俺の鎖を外したままにしたのか、その訳も聞かないまま俺はこの国から出てはいけない気がする。
来た道を振り返る。何度小道を曲がったかわからない道を今更戻れるだろうか。いや、戻る必要はない。
白龍を探そう。
見つけてちゃんと話をすればわかり合えるかもしれない。
一度じゃ無理なら何度だって言葉を交わすんだ。手遅れになんか二度とさせない。
「そこでなにをしている!?」
急にかけられた声に慌てて顔を前に戻した。槍を手にした兵とおぼしき人間が俺を睨んでいる。
――しまった。姿を見られた。
逃げる必要なんてないかもしれない、と考える間もなく俺は反射的に駆け出してしまった。
曲者だ! 追え! 後ろで声がする。馬鹿な事をした。逃げるなんて自分から不審者と白状したようなもんだ。堂々としていれば疑われなかったかもしれないのに。今の俺はジュダルから与えられた煌帝国の衣服に身を包んでいるのだから、この付近を歩いていても違和感などなかっただろうに。後悔したけど、遅い。
体が重く、思った以上に早く走れない。細い路地をわき目も振らず、勘だけで走っていった。上がる息、心臓がどくどくと音を立てる、脇腹が痛い。走りながら思った。今まで歩いてきた道も走ってきた道も人とはすれ違わなかった。日中で人が出払っているのか、そもそもこの近くには人があまり住んでいないのかもしれない。人混みに紛れ込んで身を隠すことはできなさそうだ。
行き止まりにつきあたらないよう祈りながら、わき道を見つけたそばから次から次へとわき道に入って行く。
何度目かのわき道に飛び込んだ時、最悪が待っていた。
行き止まりだ。
どこに行った。とそう遠くない場所から声が聞こえる。
身を隠してやり過ごせそうな場所は道にはない。後ろから迫ってくる兵士の声にその突き当たりにある塀の中へと俺は跳び込んだ。
塀を越えた先にあったのは、煌帝国で良く見かけられる瓦屋根の屋敷だった。茂みの一つに身を紛らせて息を殺す。そうして、大した時間も経たない内に兵士たちの足音が近づいてくるのが聞こえてきた。
――頼むから気付かないでくれよっ!
心臓の音とは正反対に、俺は気配を消した。兵士達が近づいてきたことに気付いたのは俺だけじゃなかった。この屋敷には住人がいたらしい。騒がしくなる外の様子に気付いたのだろうか、奥から姿を現した。茂みから見るだけじゃ顔まではわからなかった。紅玉や白龍を思わせる重厚な紅の着物だけが俺の視界に映る。身分の高い人間なのか兵士達が息を呑むのが伝わってきた。
「何事ですか」
凛と澄んだ女性の声が聞こえてきた。
「はっ! 不審者がこの近辺をうろついていると報告がありまして」
「こちらでは姿を見かけませんでした。他をあたりなさい」
「……はっ!」
短く交わされた言葉だけで兵士達の気配は遠ざかって行った。思えば塀の入り口を越えて兵士達は入ってこなかった。それだけ身分の高い人が住んでいる屋敷なのだろうか。
ちらりと茂みから兵士達を追い返した人物を伺う。確かに着ている服は上流階級の質の良さそうな服だった。
「もうしばらくこちらで姿を隠しているといいわ」
唐突にハッキリと自分に向けられた言葉に肩がはねた。向けられた視線は俺が茂みにいることを知っている。バレていたのか? ……なら、隠れていても仕方がないだろう。
ゆっくりと俺は身を起こした。顔を上げて、屋敷の入り口に立って微笑んでいる妙齢の女性に一礼する。
「見逃してくださり、ありがとうございます」
「礼には及ばないわ。私も、あなたとは一度会ってみたいと思っていましたから」
――会ってみたい?
女性の言葉に眉をひそめた。俺はまだ自分の名を名乗ってもいない。しかも、茂みに隠れていたのだから俺が女性の顔を見れなかったのと同様に、女性からも俺の顔は見えなかったはずだ。それなのに、『思っていた』という言葉は不自然じゃないか? 俺が立ちあがった時も女性は顔色一つ変えなかった。あたかも俺が立ちあがる前から、その顔を知っているように。でも、やっぱりおかしい。この人は、俺が茂みに姿を隠してから屋敷から姿を現したんだ。
俺がサルージャ王家の人間として顔が割れていたとしても、やっぱりおかしい。
「あなたは……?」
問いかけながら、目の前の女性が自分の知人達に似ていることに気付いた。練白龍と、先日会ったばかりの練白瑛に。艶やかな黒髪に、まつ毛の長い整った顔と口元のほくろがそっくりだった。
一歩、思わず後ず去ったのは、脳裏に最悪の可能性を思い描いたからだろうか。
――練玉艶。
白龍と白瑛の母親。そして、白龍に言わせれば、白龍の父親と兄達を謀り殺したアル・サーメンの魔女。
口元の笑みを変わらず浮かべながら、その女性は会釈した。
「お初にお目にかかります。バルバッド元王国のアリババ・サルージャ第三王子。そして、第四のマギ、ソロモンの傲慢に選ばれた王の器よ。私は現煌帝国皇帝、練玉艶。それとも、アル・サーメンに関わるもの。と言った方があなたにはわかりやすいかしら」
女性の言葉に、俺は返す言葉を失った。
口元に手をあてて、楽しそうにその人は笑った。
「あなたに会いたくてもジュダルが会わせてくれないものだから、あなたから来てくれるように鎖を解いたの。喜んでもらえたかしら」
――最悪だ。
行き止まりにぶつかった時と同じ感想が胸をよぎり、俺の背中をつぅ――と冷や汗が流れた。
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