甘えて、甘やかして

 陸が入浴を済ませてリビングに戻ると、まるでタイミングを見計らったかのように、テーブルに置いたスマホが鳴った。ラビチャの通知音だ。
(一織かな?)
 もうすぐ日付が変わるのに、まだ帰宅していない同居人の顔が頭に浮かぶ。
 濡れた髪をタオルでごしごし拭いながらスマホを見ると、画面に表示された名前は彼ではなく、マネージャーの小鳥遊紡だった。
 今夜彼女は、一織がキャスターを務めていた番組の食事会に同行している。こんな時間にどうしたんだろうと陸はスマホを手に取った。
 四年前、一織は大学に進学してすぐ、ニュース番組のキャスターとして週に一度のレギュラー出演が決まった。
 アイドルのキャスター起用は特別目新しいことではなかったが、一織の評価はとても高く、おかげでアイドルに興味がなかった層にもIDOLiSH7の知名度はぐんとアップした。
 そして一織はこの春、大学卒業と同時に番組を卒業した。まだ発表前だけれど、同局での秋からの報道番組のレギュラーが決まり、そちらに専念するための卒業だった。
 新番組もこれまでと同様、週に一度の出演ではあるが、今回はメインキャスターとしての登用である。四年で培った経験が認められてのことだった。
 今夜の食事会は、一織の番組卒業と新番組への門出を祝してお世話になった先輩キャスターが開いてくれたものらしい。彼は一織が高校生の頃、Re:valeの番組企画でキャスター体験をしたときから親交のある人だ。こういった集まりはあまり得意ではない一織も、今日の会は楽しみにしているようだった。
 だいぶ帰りが遅いけれど、きっと楽しんでいるのだろう。陸はそう思っていたのだけれど――。
『陸さん、お疲れ様です。お休みのところ、こんな時間に申し訳ございません。まだ起きていらっしゃいますか?』
 ラビチャを開くと、紡から届いたメッセージはそんな内容だ。陸は髪を拭う手を止め、いそいそと返事を打った。
『マネージャー、お疲れさま! 起きてるよ。一織と一緒だよね? 何かあった?』
『突然すみません…! 先ほどお食事会が終わりまして、只今一織さんと帰宅途中のタクシーの中なのですが、実は一織さん、だいぶ酔っておられまして……』
 文面を読みながら、えっと目を見張る。
(一織が酔ってる!?)
 二十歳を過ぎて飲酒する機会は増えたけれど、一織が酔うのは珍しい。それも仕事の付き合いでとなれば尚更だ。
 こうして紡が連絡してきたということは、余程のことなのだろう。陸は心配になった。
『そんなに飲んだの? 大丈夫?』
『量はさほどではなかったのですが、アルコール度数の強いお酒を飲まれたようです。今日は一織さんが主役でしたし、お世話になった方々のお酌は断れなかったのだと思います。ご本人は平気だと仰っていましたが、後からアルコールが回ってきたのか、タクシーに乗るときもお一人では歩けないほどでして……。幸い御気分は悪くないようですし、今も眠ってらっしゃるので心配はないかと思うのですが、念のため陸さんにはお伝えした方がいいかと思いまして……!』
「うわあ……」
 思わず声が出た。一織がそこまで酔うなんて初めてだ。紡が同居人の自分にこうして連絡してきたのも納得である。
『それじゃオレ、タクシーが着いたら下まで迎えに行くよ』
『いえ! もうこんな時間ですし、私がお部屋までお連れしますから……!』
『遠慮しないで。いくらマネージャーでも、眠ってる一織は担げないでしょ』
『はい……仰る通りです。すみません、ではお願いできますか?』
 今どの辺かと訊ねると、マンションまで三分とかからない場所だ。陸はパジャマの上にパーカーを羽織り、急いで部屋を出た。
 エレベーターを降りてエントランスに向かうと、ちょうどタクシーが一台、マンションの前に到着した。ドアが開くのを待って後部座席に向かえば、座席にぐったりと身を寄せた一織の姿が目に入る。
 色白な彼は、酔うとすぐに顔に出る。薄く桜色に染まった横顔は情事の彼を思い起こさせ、陸は思わずどきっとした。……なんというか、いつもの数倍色っぽくて目の毒だ。
「すみません……!」
 反対側のドアから降りた紡がこちらに来て、深く頭を下げた。
「陸さん、もしかしてお風呂上がりでしたか…? お出迎えして頂いてしまって申し訳ないです……!」
 濡れた髪を見て察したのだろう。恐縮しきる彼女に陸は笑った。
「いいっていいって! ちょうど出たところだったからタイミング良かったんだよ。マネージャーこそ、明日も仕事だろ? 遅くまでお疲れさま。あとはオレに任せて、このままタクシーで帰りなよ」
 そんな話をしていると、車中から「七瀬さん……」と声がかかる。振り向けば、一織がぼうっとこちらを見ていた。
「あ。起きた?」
「……はい……」
 状況を把握しているのかいないのか、一織はそう返事をしてタクシーを降りようとする――瞬間、その体がぐらっとよろめくのを見て、陸は「わっ」と声を上げ、慌てて彼の腕を掴んだ。
「は……びっくりした……大丈夫?」
「っ……すみません、平気です」
 一織はそう言うが、ふらつく体はとても平気そうには見えない。
 陸は短く息を吐き、彼の肩に腕を回した。微かに香るのは、確かなアルコールの匂いだ。本当に酔ってるんだ、となぜだか感心してしまった。
「慌てると危ないから、ゆっくり行こう。自分で歩ける?」
「はい……」
 素直に頷く一織に小さく微笑む。そして陸は、心配そうにこちらを見つめる紡を振り返った。
「じゃ、オレたち部屋に戻るね」
「はい! 何かあったら駆けつけますので、いつでも連絡してください」
「うん、ありがとう。おやすみ、マネージャー!」
「おやすみなさい。一織さんも、ゆっくり休んでくださいね」
「はい……。あなたも、遅くまでお疲れ様でした。お気をつけて」
 赤い顔をしてふらふらしているくせに、紡への受け答えはしっかりしている。こういうところが一織だなと思いながら、陸は紡の乗ったタクシーを見送り、彼の体を支え直した。
「行くよ、一織」
「あの、七瀬さん……」
「ん?」
「髪……濡れてませんか」
「あ、ごめん。冷たかった? さっきお風呂から出たばっかりでさ」
「そんな恰好でいたら、風邪をひくでしょう……。ちゃんと乾かしてください」
「わかってるよ。部屋帰ったら乾かすって」
「あなたはいつもそう言って……」
「あっ、ほら、エレベーター来たよ」
 ただでさえ口うるさいのに、酔っ払った一織のお小言ほど面倒なものはない。陸は一織の言葉を遮って、彼を連れてエレベーターに乗り込んだ。
 ふたりきりの箱の中、一織がゆるゆると息を吐く。その横顔を間近に見つめながら、陸はふふっと笑った。
「一織がこんなになるなんて珍しいね」
「そうですね……そのようです……。私としたことが、今夜は羽目を外しすぎました」
 そう呟く一織は、ひどく反省した面持ちだ。そこまでひどい酔い方でもないのにと、陸は笑った。
「たまにはいいと思うよ。楽しかったんだろ? 良かったな」
 そう告げると、一織は「はい」と頷く。嬉しそうな表情を見るに、本当に楽しかったのだろう。なんだか自分も嬉しくなった。
 それにしても、今夜の一織はやけに素直だ。これは酔っているせいなのか、それとも眠いせいだろうか。
 そんなことを考えながら、いつもの倍の時間をかけて部屋に戻り、陸はまっすぐ一織の寝室に向かった。だいぶ眠たそうだから、このまま寝かせた方がいいと思ったのだ。
「よいしょ……、と」
 小さな明かりをつけ、肩を抱いたまま並んでベッドに座ると、一織ははあっと息を吐く。陸は気だるげな彼から腕を離し、「一織」とその顔を覗き込んだ。
「もう寝な」
「……いえ、シャワーを……」
「そんなふらふらでお風呂なんて危ないよ。明日の朝にして、今日はもう寝よう。な?」
 幼い子供に言い聞かせるように優しく言うと、一織はこくりと頷く。そしてそっと、こちらにもたれかかってきた。
(わ!)
 寄りかかる重みに、どきっとして息を呑む。すると彼は、「七瀬さん……」と口を開いた。
「う、うん?」
「水……飲みたいです」
「みず……? あっ、水か! わかった、すぐ持ってくる!」
 一織がこんな風に甘えてくるのは珍しい。
 やっぱり酔っているんだと思いながら、そんな彼がどうしようもなくかわいくて、陸は高鳴る胸を抑えながらキッチンに向かった。
(やっぱり一織って、酔うと甘えたになるよな……)
 彼が酔うこと自体滅多にないからはっきりとした確証はなかったが、陸は今夜確信した。
 酔うと甘えたになるといえば壮五だが、彼ほどではないにしろ一織にもその傾向がある。二人は似た部分が多いから、こういうところも似るのかもしれない。
 それにしても、と思う。
 普段は圧倒的に自分が甘える方だから、慣れなくてくすぐったい。けれどいつもは涼しげな顔ですましている一織に甘えられるのは、悪い気がしなかった。
 冷蔵庫から出したミネラルウォーターをグラスに注ぎ部屋に戻ると、一織は上着のジャケットを半分脱いだ状態で目を閉じ固まっていた。
「一織?」
 近付いて小さく声をかけると、一織ははっとしたように瞼を上げる。眠ってしまったかと思ったが、まだ起きていたようだ。陸は微笑み、グラスを差し出した。
「水、持ってきたよ」
「すみません……。ありがとうございます」
 一織は陸からグラスを受け取ると、ごくごくと水をあおる。あっという間に飲み干した彼に、「もっと飲む?」と訊ねると、一織はいいえと首を横に振った。
「気分は悪くない?」
「はい……」
「良かった。じゃあもう寝ような」
 空になったグラスを一織の手から取り、サイドテーブルに置く。そうして彼が中途半端に脱ぎ掛けたジャケットに手をかけると、一織は大人しく身を委ねてきた。いつもの彼なら、自分でできると突っぱねるに違いないのに。
(やっぱり今日の一織、めちゃくちゃかわいい……!)
 口に出したら真っ赤な顔で怒られそうだと思ったが、今の一織ならそれもないかもしれない。
 ふふっと笑うと、一織は不思議そうにこちらを見る。酔っているせいか、いつもより潤んだ瞳と視線が絡み、どきりと鼓動が跳ねた。
「いお……」
 呼びかけた声は、途中で消える。突然腕を引かれ、えっと思った次の瞬間には、陸の体は一織の腕にすっぽり包まれていた。
「っ……」
 ベッドに腰掛ける一織の膝に乗り上げる体勢で強く抱き寄せられ、さらに心臓が跳ね上がる。びっくりして彼の肩口に埋めた顔を上げると、すぐそこに一織の顔があった。
(……あ)
 交わる眼差しが、甘くとろける。
 無意識に「一織」と零れた陸の声は、彼の唇に飲み込まれた。
「ん……っ」
 当たり前のように重なったそれは、いつもより熱い。アルコールの味と香りが彼の唇から直接伝わって、頭がくらっとした。
「んぅ、……ん!」
 最初のキスはいつだって優しく触れてくるのに、今夜の一織は違った。
 少しの躊躇いもなく歯列を割って差し入れられた舌に、びくっと体が震える。
 絡みつく舌からさらに強いアルコールの香りがして、陸は思わず呼吸を止めた。一織の背をぎゅっと掴んだけれど、それでも一織はキスをやめてくれない。
 絡まる舌を甘噛みされ、強く吸われると次第に頭がぼうっとしてきて、気持ち良くなって、陸は一織にしなだれかかりながら彼のキスに身を委ねた。
「……ふ、ぁ……」
 一織の動きを追うように舌を絡ませていると、やがてくちゅ、と濡れた音をたてて唇が離れた。はあっと深く息を吐きながら視線を合わせれば、さっきよりもずっと甘い眼差しが自分を捉えている。陸はびくっと震え、息を呑んだ。
「っ……、いおり……」
「七瀬さん……」
 まだ濡れている陸の髪に指を絡め、一織が名前を呼ぶ。艶を含んだその声にどきりとしながら視線を返すと、一織は小さく、けれどはっきりと口を開いた。
「好きです」
「……えっ」
 突然の告白に、思わず声が裏返った。
 一織と恋人同士になったのはもう随分前のことだし、今はこうして二人で暮らしてもいるけれど、彼がこんな風に自分から好きだなんて言ってくれることは滅多にない。だから陸は、こんなシチュエーションには慣れていなかった。
「ど、どうしたんだよ、いきなり……!」
 言いながらかあっと顔が熱くなる。鏡を見ないでも、赤くなっているのは明らかだった。
 一織は僅かに目を細めると、陸の背に回した腕に力を込める。そしてもう一度、まっすぐ瞳を見つめ「あなたが好きです」と囁いた。
「……っ」
 優しくて甘いその声と眼差しに、胸がきゅっと切なくなる。
 恥ずかしくて、でも嬉しくて、何も言えずぎゅっと抱き着くと、一織も同じように抱きしめ返してくれた。
 一織がこんなことを言うのは酔っているからだ。
 頭ではわかっているけれど、どうしようもなく嬉しくて、胸の奥から愛おしさがあふれてくる。
「一織……」
 首筋に顔を寄せて名前を呼ぶと、一織は微かに震えながらもう一度「七瀬さん」と名前を呼んだ。
 いつもより少しだけ、甘えるような声色だ。
 その声に顔をあげると、一織は拗ねた顔で陸を見つめる。まっすぐ見つめ返すと、彼の瞳は小さく揺れた。
「……あなたも、言ってください」
「え?」
 なにを、と視線で訊ねると、一織はいつもより少し掠れた声で呟く。
「私のこと、好きって言って」
 普段の一織なら絶対に口にしないその言葉に、陸はぽかんと彼を見た。
 自分は今、何かを聞き間違えたのだろうか?
 一織がそんな、まさか。
「……好きじゃないんですか」
 呆然としていた陸は、そう言って眉を寄せる一織にはっとした。
 聞き間違いなんかじゃない。一織は今、確かにその唇で言ったのだ。
「っ……好きだよ!」
 頭で考えるより早く声が出た。花紺青の瞳をまっすぐ見つめ、陸はもう一度繰り返す。
「オレも一織が好き。大好き。いっぱい好き!」
 勢いよくそう告げると、一織はふ、と嬉しそうに微笑む。その笑顔が悔しいくらい格好良くて息を呑むと、彼は陸の背中を優しく抱き寄せ耳元で囁いた。
「私も、いっぱい好きですよ」
「……うん」
 彼らしからぬ可愛い返事に、ふにゃっと頬が緩む。
 抱きしめる力は決して強くはないけれど、こうしてくっついているだけで泣けてしまうくらい幸せだと思った。
 しばらくそうして互いの鼓動を感じていると、やがて背中に回った一織の腕がすっと落ちた。あれ?と思って顔をあげると同時、一織の体がぐらっとよろめく。
「ぅわっ……!」
 つられてバランスを失った陸は、一織と一緒にベッドの上にばたりと倒れこんだ。一瞬何が起こったのかわからなかったが、目をみはれば、そこにあるのは穏やかな寝顔だ。
「なんだ……寝ちゃったんだ……」
 残念なような、微笑ましいような複雑な気持ちに包まれて、陸ははあっと息を吐いた。
 目の前の一織は、気持ちよさげにすうっと寝息をたてている。
 ベッドの上に身を起こし、彼に布団をかけてやってから、陸は考えた。
 一織のベッドは一人用だ。今日は疲れただろうし、ゆっくり休ませてあげたい。自分はまだ髪だってきちんと乾かしていないけれど、でも。
(離れられないよ)
 胸のうちでごめんと謝りながら隣に潜り込むと、すぐに一織の腕が背中に回った。
 びくっとして顔を見たが、彼は相変わらず眠っている。ということは、これは無意識なのだろう。そう思うと、胸が甘く震えた。
「……おやすみ」
 小さく囁いて頬にキスすると、くすぐったいのか、一織は小さく肩を竦める。そんな様子をかわいいと思いながら、陸は彼の背にそっと腕をまわした。
(明日目が覚めたら、もう一回言ってほしいな)
 酔いが覚めた一織にそれを望むのは、だいぶハードルが高そうだけれど。
 陸はふふっと笑いながら、狭いベッドから落ちてしまわぬよう、一織にぴたりとくっついて瞼を閉じた。


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