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日本号のちょい呑み配信5




 障子の向こうの外は暗いというのに、鳥の囀りが聞こえてくる。夜に何故鳥が鳴くのだろう、そんな疑問に時計へ視線を向けると間もなく寅正の頃であった。
 日付が変わる頃には休もうと思っていたというのに、日を跨ぐどころか夜明け間近とは。集中すると時間が過ぎるのが早い。我ながら進みが良いと思ったが、こんな時間ならば相応の進捗か。
 文机には大量の手書き書類が乱雑に並び、それらに囲われたように電子帳簿が置かれている。これらは明後日に迫る中間決算に提出するもので、ここ数日部屋に籠もって纏めていたものだった。
 今年は主が学業で忙しく本丸を不在にすることが多かったからな。どうしても帳簿の確認が不十分になってしまっていたのだろう。それでも事務作業が得意な男士に振り分ければなんとかなりそうな量であったのが幸いだった。
 非番だった者は早々に終えていたし、俺の分も纏めた内容を他の連中に添削してもらって問題なければ無事に終わる。そうなると残りは朝になってから、自分の仕事は終えたも同然。そう思うと安堵したのか、腹の虫が鳴った。
「……」
 鳴った腹を擦っては空腹を覚える。朝も近いこの時間に腹が減ってもおかしくないか、と考えては、再び「ぐうう」と腹が主張してくる。
 何か食べたいな。
 朝餉を期待して時計を見る。つい先程見たばかりの時計は当然ながらあまり時間は進んでおらず、今度は布団が仕舞われている押し入れへ目を向ける。今の時間は夜食にするにはあまりに遅く、かと言って朝餉を待つにしては早い時間帯だ。このまま空腹を辛抱して寝てしまうのが良いと思うのだが、一度覚えた食欲は失せてくれない。
 暗がりで灰色に見える障子を眺め、そうして灯りに照らされ色濃く影を落とす書類へ視線を移し、時計へと巡り戻っていく。時計から目を離したのは両手の指を使って数えられる程の短い時間。朝日はまだまだ遠い存在だと実感する。
 厨へ何か食べ物を探しに行くか。このままこうして無駄な時間を過ごすより、慰み程度でも何か食べて寝てしまえ。
 そう思ったが早く、音を立てないよう気をつけながら部屋を出る。厨へ繋がる廊下へ足を伸ばすときしりと床が軋んだが、それに反応する者はいない。外からは相変わらず鳥の囀りが聞こえる。あれだけ鳥が鳴いていれば床の軋みなど些細なものか。そう思うと足取りは速くなり、すぐに廊下よりも暗い厨へ到着した。
 いつもは調理中の熱気で汗を垂らすほど暑いというのに、今は羽織り物を持ってくれば良かったと考える程度に寒い。日が昇ればこの厨に限らず暑いというのに、いつの間にか秋はすぐそこまで来ていたのか。
 二の腕を摩りつつ照明をつけると、たらい一杯の卵が灯りの下に現れた。正確な数はわからないが、百……いや、その倍は越える程あるだろうか。朝食に使うため昨晩の内に用意されたものか。そうなると副食には卵料理が出るのか。朝は時間がないから簡単なものが多いが、一体何が出てくるか。
 そんなことを考えつつ、目的の食料庫を開ける。中は使いやすいようきっちりと収納された乾物と調味料があるが目当てのものは一切ない。調理が殆ど不要な即席麺や缶詰があればそれをひとつ拝借しようと思ったが都合良くあるものではない。
 そうなると探す先は冷蔵庫になるが、すぐに食べられるものはあるだろうか。運が良ければ朝餉にと拵えた惣菜などあるかもしれないが、確実にあるものではないから期待してはいけない。
 果たして何が入っているかと扉を開ければ、みっちりと食材が入った棚が出迎えてくれる。隙間無く食材が入った冷蔵庫に、これなら調理不要のものもあるのではないかと少しずつ物を出しながら探っていく。
 しかし、様々な食材が出てきても、そのまま口に出来るものは一向に出てこない。
「あ、」
 冷蔵庫の奥にチャック付きのビニール袋が見える。それだけなら然程気に留めることはなかったのだが、ビニール袋の表面に『日本号』と書かれているのだ。この本丸は刀剣所有数百振りを超える大所帯、冷蔵庫に自分のものを入れる際は名前を書くのが決まりだ。つまり日本号の名前が書かれた袋は当然日本号のもので、俺は好奇心の赴くままにそれに手を伸ばす。
 袋越しでもわかる柔らかな感触。奥から引っ張り出すと、袋の中のものは黄土色をしていた。色合いからあまり食べ物のように見えないが感触と色からして味噌か? つまみ用の味噌なのだろうかと揉み込むように触っていると、柔らかなものの中に固い感触が混じる。
 更にこの中に何かが入っているのか。味噌と思っていたものに異物があることに気付き、封を開けて中を覗き込む。すると独特の匂いが一気に広がり、これは味噌ではなく糠漬けであることを知る。
 以前燭台切から日本号が糠漬けを作っていると聞いたが、まさかこれが話題に上がったやつか? 癖のある匂いを放つ糠を確認し、そして袋の表面を再度確認する。先程見た通り袋には『日本号』と書かれている。これが日本号の作った糠漬けでなければ何なのか、そんな間抜けなことを思っていると、突っ込みを入れるように腹が鳴った。
 当初の目的を忘れていたが、俺は食べ物を求めて厨へやってきたのだ。こんな明け方前、わざわざ日本号の糠漬けを探りに来たわけではない。糠漬けは仕舞って食べ物探しを再開しようと封を閉じようとしたが、糠の匂いにいつか食べた茄子漬けの味を思い出して手が止まった。
 あれを食べてからひと月経とうとしているのだが、今でもあの味を思い出せる。もっと美味しいものを料理番が作ってくれるというのに、どこか甘いあの味をまた味わいたい気持ちが込み上げてくる。
「……」
 いやいや、この糠漬けは日本号のものだ。俺が何を思おうが、これはあいつのものなのだから食べようなんて思っては駄目だ。そそくさと袋の封を閉めて元の場所へ押し込むと、他の食べ物を探し始める。
 流石は大所帯の本丸で使用される冷蔵庫、どんどんたくさんの食材が出てくる。しかしめぼしいものはなく、冷蔵庫の扉を閉めると同時に溜息が出た。せめて練り物辺りが出れば、と探してみたが、そのような加工食品は一切無かった。普段食卓には上がるのでたまたま無いだけだろうが、全く無いというのは運が悪いとしか思えない。
 これは食わずにさっさと寝ろという暗示か。そんな疑心を覚えていると、たらいに入っている卵が目に入る。
 調理は面倒で避けたかったところだが、卵を電子レンジで熱するだけなら洗い物は皿だけで済むのではないか? そうだ、凝った物は食べるつもりはなかったのだ。この卵をひとついただこう。
 もしも男士の数だけ用意していた場合を考え、ひとつ卵を貰ったこと、もし数が足りなかったら俺の分を減らして対応してほしいと書き置きする。これでひとまず大丈夫だろう。
 書類のインキがついた手を念入りに洗うと食器棚から少し深さのある皿を出して、その中に卵を割って塩を振りかける。ゆで卵でも良かったが、殻付きの卵を電子レンジで温めると爆発してしまう。それくらいは普段料理をしない俺でも知っているのだと、どこか得意な気分で皿の上にラップフィルムを張ると電子レンジへ投入した。
 時間は一分半くらいで良いだろうか。生焼けだった場合は追加で加熱すれば良い。出力と時間を設定して「スタート」と書かれている釦を押す。
 作動したのを確認し、この間に殻を片付けてしまおうと手を動かす。生ものを纏める塵紙があった筈だが、どこに……周囲を探していると、突然小さな爆発音がした。
 音がしたのはかなり至近距離、一体何だ。まさか敵襲?そう思うが先か、背後を守るように壁際へ飛び退いて厨の中を見渡す。しかし電子レンジが動いているばかりで、他に気配は感じられない。まさか時限爆弾? だが、気配どころか破壊された箇所もまったくない。
 聞き間違いかと一瞬考えたが、鳥と自分しか起きていない静かな時間帯に何と間違えるのか。ゆっくりと息を吐きながら思考を落ち着かせる。
 すると電子レンジが終了を知らせる電子音を上げたので、釣られて視線がそちらへ向かう。
「……?」
 電子レンジの中が何かおかしい気がする。緊張する体はそのまま、目を少し細めて電子レンジを注視する。
 薄らと見える電子レンジの中がやけに汚く見える。皿を入れた時も、作動させた時もあんなに汚れていなかった筈だが見れば見る程記憶する様子と違うことに違和感を覚えて、確認のために近付いていく。そしてはっきり電子レンジの中が見える距離まで来ると、先程とはまた違う緊張に体が強張った。
 卵が原型を無くし飛び散っている。もしや爆発音は卵から? 爆発するのは殻付きの卵だっただろう。
 電子レンジの扉を開け改めて中を確認する。皿に張ったラップフィルムは破れ、白と黄のものが散り散りになっている。まさに卵が爆発したとわかる惨事に、俺は安堵と落胆に座り込んでしまった。
 結局夜食は諦め、電子レンジを片付けた俺は一睡もせず朝を迎えた。お陰で空腹は限界で、普段はあまりしない料理番の手伝いをしていち早く朝食にありつこうとする始末だ。
 俺は調理を進める料理番の横、皿を用意しながら明け方の顛末を話す。
「電子レンジで卵を熱するのは殻が付いてなくても危ないですよ」
 料理番のひと振りである堀川が皿に厚切りベーコンを盛りながらそう言うと、周囲の者も同意とばかりに頷く。
「そう、なのか?」
「はい。もしも電子レンジで卵を温めるなら、溶き解した卵が安全です」
「覚えておこう」
「それにしても大丈夫だったかい長谷部君、卵が爆発して火傷した事故も過去にあったそうだよ」
 心配そうに伺ってくる料理番の燭台切に、問題ないと軽く手を広げる。
「幸いにも爆発は電子レンジ内で済んだ。俺に外傷はない」
「それなら良かった。いくら僕等は人間より丈夫だといっても痛いものは痛いからね」
 確かに、火傷は回避出来て良かった。空腹でただでさえ良い気持ちではないところに負傷など、想像するだけで惨めな気分になってくる。
 ああ、徹夜のせいか気分の落ち込みが早い気がする。今日は馬当番のみで出陣はないから、夕餉が終わったら早々に寝てしまおう。人間とは体が不調だとどうにも気持ちがそちらに引っ張られて不調になるのが困りものだ。
 主を支えるには適した姿であるのは承知ながら、こういうところは不便だと内心嘆いていると、出汁の利いた良い匂いに意識が持って行かれる。そうだ、俺がこうして手伝いをしているのは朝餉が待ちきれなかったためだ。今は嘆くより空腹を満たすのを優先しよう。
 匂いに釣られて視線を移すと、皿には赤と黄の鮮やかな色合いが並んでいた。
「赤茄子と卵の炒め物か」
「赤茄子って生で食べることが多いですけど、炒めて中華系の調味料で味付けすると美味しいんです。あとは盛るだけなので長谷部さんが食べる分持って行って良いですよ」
 お腹空いてますよね? 笑顔で食事を促す堀川に礼を述べ、遠慮無く米飯と味噌汁を用意すると副食と共にお盆へ乗せて食堂へ移動する。本丸内に多くの声が行き交うが、食堂には誰もいない。滅多に無いひと振りでの朝餉に、言い様のない新鮮味を覚えて落ちていた気分が上がるようだ。
 落ちるのも早ければ上がるのも早いものか。
 いただきます。と手を合わせ、待ちに待った食物を頬張る。いつも料理番の作るものは美味いが、今日はより美味しく感じてしまう。まさに空腹に勝る調味料は無しだ。
 出来立ての料理はそのまま食べるには熱いものもあるというのに、俺は食欲に任せて躊躇いなく口に放り込んでしまう。だが、熱いものは熱くて、はふはふと口内へ空気を送って熱を冷まそうとする。
 しまった、食べることばかりに頭が行っていたので飲み物を持ってこなかった。飲み水があればこの熱を誤魔化せるのに。
 熱さに耐えるよう口元を押さえていると、場を読んだよう目の前にどかりと水が入った洋盃が置かれた。
 こいつは助かる。一体誰が持ってきてくれたんだと、早速水を口にしながら視線を上げるとそこには三名槍が揃って立っていた。そしてあろうことかこちらを見下ろしていた日本号と目が合ってしまい、驚きに水を吹き出しそうになる。
 そんな俺の動揺を知ってか知らずか、三槍は食卓を挟んで向かい側に座る。
 まさかこんな場面で会うなんて。
「お早う御座います長谷部殿」
「……、…お早う、蜻蛉切」
「早いなあ長谷部、今朝は俺達が一番乗りかと思ったのによ」
「まあ、今朝は色々あってな」
「ほぉ、色々ねえ」
 日本号の眼差しが何か言いたげに細められる。色々とは説明する程ではないことだ。追求するなと言う代わりに、日本号から視線を外して水を一気飲みする。用意されたばかりなのか冷たい水は熱い口内をすっかり冷やしてくれて密かにほっとする。
「ところで、水をくれたのは蜻蛉切か。ありがとう」
 三槍の中で一番気が利くのは蜻蛉切だ。だから俺に水を渡してくれたのは蜻蛉切だと考えたのだが、当の蜻蛉切は否定する。
「水を渡したのは日本号だ。礼ならば彼にしてくれないか」
 よりによって日本号か。蜻蛉切に礼を述べた手前、奴に礼を言わない訳にはいかない。だが、先程の眼差しを思い出すと言い出しにくく、黙る理由作りに米飯を口一杯に頬張る。
「おいおいお前さん、さっき口に沢山入れ過ぎて焦っていたばかりだろ」
「……むぐ、」
 あんな眼差し向けながらこちらの事情を把握していたのか。水をくれたのは助かったが、見透かされているようでどうにも面白くない。
 時間を掛けてよく咀嚼して飲み込む。
「礼は言っておく」
「応よ」
 無愛想な返事に怯む様子はない。そんな可愛らしい性分ではないかと、頭の天辺でひょこひょこと揺れる黒髪ばかりが可愛らしい大槍を睨み上げる。あの髪の下は全部可愛くない。きっと水を渡した時だって憎らしいことを思っていたのだろう。
 寝不足で不安定な思考は日本号への八つ当たりを開始する。しかし、そんな思考の最中でも最低限の理性は残っているのか、言葉として出ることは無い。
 それにしてもどんなに寝不足で不機嫌でも、美味いものは美味いものだな。炒め物を食べて、脂で照ったベーコンに齧り付いて、その塩味で米飯を食べて、口直しに味噌汁を飲む。昼や夕と比べてしまうと簡素な献立だが、朝からこれだけ食べられると満足度は十分だ。日本号を睨み付けていた目は次第に食事へ集中し、不安定な思考も食事のことで占められてゆく。
 夜食は残念だったがこれで帳消しだな。そんな上機嫌なことまで思っていると、殆ど空になっていた皿の上にベーコンが乗せられた。それを乗せたのは向かいに座る日本号で、奴への八つ当たりの念が失せた俺は睨み付けるのも忘れてじっと見つめてしまう。
「……今日はよく食べると思ってな。腹が減ってそうだから、そいつ、やるよ」
 水を貰った時と違い、日本号から先に視線を逸らされる。どこかぎこちない様子もあった気がするが、今の俺にとっては目の前の食事に集中するのが第一だ。やる。というなら遠慮無く貰おう。
 日本号から貰ったベーコンを食べると、何故か日本号の隣で食べていた御手杵が声を上げる。
「なあなあ日ノ本、ベーコン食べないなら俺にも一切れくれよぉ」
「もっと欲しいんなら料理番へ頼め。残ってんのは全部俺が食う分だ」
「長谷部ばっかずるいって」
「まあまあ御手杵」
 賑やかに食事をする三槍に、俺は黙々とベーコンを咀嚼する。寝不足で食欲が満たされ始めてぼんやりした思考はただただ朝餉の美味しさを堪能するばかりで、彼等のやり取りまではよく咀嚼することが出来なかった。


 内番を終えると風呂と夕餉を早々に済ませた俺は自室に布団を敷いて寝転がる。昼間に少しカフェイン飲料を摂取したが、夜にもなれば抗えない眠りが襲ってくる。布団は自身の体温でどんどん温くなり、その心地良さに溺れそうになる。
 明け方近くまで纏めていた書類は昼間添削してもらい、今日の内に提出された。先方から特に連絡がないのでこのまま寝てしまっても大丈夫だと、意識がどんどん眠りの淵へと沈んでゆく。
 体が眠りの体勢になっていたのか、浮遊感のようなものを覚えていると、聞き慣れた通知音が聞こえたような気がした。
「……はいしん…?」
 今は夜で、そんな時間帯に通知が来るものとなると大概は日本号の配信だ。普段配信を見るのに使っているタブレット端末は遠い位置にあるので、枕近くに置いてあった通信端末から配信アプリを起動する。
 眠気でぼんやりする視界にいつもの動画プレイヤーが確認できる。そして視界同様ぼんやりする耳に、日本号と博多の声が聞こえてきた。予想した通り、日本号の配信だったようだ。
 今日はもうやることがないのだし、のんびり配信を楽しむか。そう思うのに眠気が瞼を重くする。
『――……うは、玉子ふわふわを作る』
『ふわふわ玉子じゃなかとー?』
『ふわふわが先じゃねえ。玉子ふわふわだ』
 ふわふわが先か玉子が先か。そんな重要なことなのか。日本号と博多が『ふわふわ』と連呼するのが、ふわふわし始めた頭ではどうにも面白くて、思わず「ふふ」と笑ってしまう。普段なら笑ってしまった時は口を押さえてしまうところだが、今はそんな余裕も無く、口がにやにやしてしまう。
『変な名前だがちゃんとしたりょう……、……浦島から教えてもらったんだ』
 浦島とは、まさか浦島太郎ってことはないだろうし浦島虎徹か。
 ふわふわした頭で必死で考えながら、閉じそうになる瞼をこじ開ける……が、呆気なく閉じてしまう。耳には辛うじて日本号と博多の声が届いているが、二振りのやり取りの穏やかなこと、眠気を誘う効力を覚える。
『この玉子ふわふわだが……』
 またふわふわ言っている。博多なら未だしも日本号はふわふわと縁遠そうなのにな。一体このふわふわ玉子とはどんな料理なのだろう。
 興味はある。だが、それ以上に眠気がある俺はふわふわした日本号の声を聞きながら眠りに落ちてしまった。


   ◆◆◆

 
 ここひと月、厨が空いている時は調理練習をするようになった。きっかけは電子レンジで卵を爆発させてしまったことだ。あれから料理番と話した結果、どうやら俺には料理に対する基本的な知識が足りないということを知ったのだ。
 日本号の料理配信を見つけたのも、元はといえば主のために酒の肴を作れるようになりたいと色んな料理配信を見ていった末である。どうして本来の目的を忘れてしまったのか、いつの間にか視聴者として配信を楽しんでしまっていた。
 これはいけない。いきなり主に料理を振る舞う場面を迎えたらどうする。出来ませんと引き下がるつもりはないし、かといって下手なものを出して主に不快な思いをさせるつもりもない。いつかのために、俺は料理の腕を磨かなければ。そんな意気込みで練習をしているのだが……最近思わぬ悩み事に躓きを覚えていた。

 朝餉を終えて暫く経った厨。片付けを終えた料理番は解散し、食堂の方を確認してものんびり食事を続けている男士の姿も居ない。厨が空いていれば食堂に誰が居ても構わないのだが、なんとなく気になっただけだ。決して調理している様子を誰かにも見られたくないとか、そのような小さな理由ではない。
 さて、今日は何を作るか。夕に出す海老と小松菜以外は好きに使って良いと料理番から確認している。一体何があるか、相変わらず食料が沢山詰まった冷蔵庫を覗き込む。
 手前には下拵えされた海老が大量にあり、それをうまいこと寄せながら中を探っていく。お、油揚げと豆腐が出てきた。これは使えそうだ。あとは朝に出た小松菜の煮浸しの残りに、少量ながら加工肉や練り物もある。下の方に魚が数匹あるのが見えたが、魚の捌き方はよくわからないから触れないでおこう。
 その後一通り食料庫を確認し、使えそうな葉物や根菜、卵を多く見つけたところで自然と口から唸り声が出た。
 調理練習を始めて暫く、作るものを決めてから自分で食材を購入していた。しかし俺が自由に使える金銭は有限だ。実費で食材を用意して練習を継続していくのは無理があったため、最近は料理番に確認した上で厨の食材を使うようになった。そうなると金銭の心配は解消されたのだが、食材を見てから作る料理を考えなければいけなくなったのだ。
 油揚げと豆腐を見つけた時点で味噌汁を作ろうかと考えたのだが、味噌汁は既に何度も作ってきたのでできるだけ違うものを作りたいところだ。これが食事のための料理なら味噌汁で十分なのだが、練習を踏まえるとなると難しいものだ。
 頭を捻っても「これ」と思う料理が浮かばず食料庫の前で悩んでいると、誰かが厨へ入ってくる気配がして、そちらへ反射的に振り向く。
「厨に長谷部とは珍しい顔だな」
 投げかけられた一言に思わず口が歪むのを覚えながら、振り向いた先にいる男士に気付かれないよう咳払いをする。
「それはこちらの台詞だ。ここに何の用だ日本号」
 開放されている厨に誰が来ようとも構わない。だが、無数にいる男士の中で日本号が来るのはどうなのか。運命の悪戯と洒落たことも一瞬考えたが、悪戯で片付けるには居心地の悪い予感を覚える。
 そんな俺の様子に気付かないのか、日本号はこちらへ近付いてくる。
「何って昼餉の準備だ。お前さんもそれでここにいるんじゃないのか」
 時間としては少し早い昼餉にしても良い頃、午後から出陣を予定している場合などはこの時間帯に軽く食べるのが丁度良いくらいだ。昼餉作りに厨を利用しても何らおかしくない状況に暫し考える。
「いや、飲み物を取りにきただけだ」
「そうか」
 昼餉を作りにきたという日本号。そこで俺も料理をしにきたと素直に答えれば、一緒に作る流れになる可能性がある。作り手が多い方が作業分担できるし、実際に厨に居合わせた者達で食事を拵えることは多い。
 素っ気ない返答の日本号を尻目に、棚から薬缶を出して湯を沸かし始める。
 早いところ口実通り飲み物を用意して退散しよう。黙々と湯呑や珈琲粉を取り出していると、視線の端に冷蔵庫から油揚げと豆腐を取り出している日本号が見える。
「……ちなみに、何を作るつもりだ」
 そんな疑問を思うと同時に声に出てしまい、半ば無意識に動いた口を押さえる。だが、日本号にはしっかりと聞こえたようで、食料庫から青菜を取り出してそれを見せつけてきた。
「今日は豆腐と高菜があるからまんばのけんちゃんを作る」
「まんばと、けんちゃん……?」
 まんばといえば、他本丸の審神者が山姥切を「まんばちゃん」という愛称で呼ぶことは知っているが、多分に日本号が言う「まんば」はそれではないだろう。だが、まんばに続く「けんちゃん」とは……人間の愛称として聞いたことがあるが、まんばと同様にそのような意味ではない筈だ。そもそも日本号はどんなものを作るか答えたのだから、料理名を言ったに違いない。かといって、名前からはどのような料理か想像出来ず、俺は名前を呟いたきり閉口してしまう。そんな様子を見た日本号は、察したように俺からも見やすいように食材を並べて説明し始める。
「まんばとは高菜の一種、けんちゃんとはけんちんが訛ったもんだ」
「けんちんとは、けんちん汁のけんちんか?」
 けんちんと聞いて真っ先に思いついた料理を述べると、今度は曖昧にするよう首を傾げる。
「断言はできねえが多分そうだろう。野菜の油炒めに豆腐を加えて煮込んだり、更に炒めたものをけんちんと呼ぶしな」
 なるほど、そのような料理があるのか。すらすらと説明してくれる様子に、そんなものよく知っているなと素直に感心してしまっては何だか面白くない気持ちが湧き上がってくる。別に自分より少しばかり日本号の方が料理に詳しくても、何があるでもないというのに。
 我ながらこんな些細なことを気にするなんて大人げないなと微かに自戒の念を覚えていると、不意に薬缶が沸騰するのを知らせるようかたかたと蓋を揺らす。
「おっとぉ」
 俺が手を伸ばすより先に、日本号が薬缶の火を止める。しゅん、と穏やかに注ぎ口から湯気を出す薬缶にほっと息を吐く。そんな俺を気に留めることなく、手を洗った日本号は豆腐をキッチンペーパーに包んだりと下準備をしていく。
 こちらへ関心の薄い反応に安堵しては、薬缶の湯を湯呑に注ぎながら日本号の様子を盗み見る。早いところ厨から退散するべきと思いつつ、調理練習を目的としていた俺としては日本号がどんな風に料理をするのか気になったのだ。
 料理をする日本号といえば配信で見る日本号なのだが、うちの日本号はどうなのか。多少にも料理を嗜むことは知っているが、これまで直接その腕前を見たことがなかった。要は日本号が料理をすることに興味を持ってしまったのだ。
 しかし、こちらが興味を持っているのは悟られたくなかったので、あくまでもさり気なく湯呑の珈琲に一口、二口とちびちび飲みながら日本号の手元を覗き見る。
 いつの間にか水がたっぷり入った大きめの鍋が火にかけられており、それを確認している間にも日本号はボウルに大量の冷水を入れていく。そして粉末の和風出汁を水に溶いたり調味料と煮干しが小皿へ用意される様子に、俺が見ても料理初心者ではないとわかった。俺もそこそこ調理に慣れてきたと思っていたが、今の日本号のように空き時間でこのように次の準備ができるだろうか。
 そんな事を考えている内にふつふつと鍋の水が沸騰しており、日本号の手がさっと高菜を投入する。
 日本号の話し振りだと高菜は炒める筈だが茹でてしまうのか。高菜の調理法はよく知らないが、茹でるということは灰汁抜きが必要な食材なのかもしれない。後で調べてみるか。
 ふむふむと興味深く眺めていると、不意に何かが脇を小突いてきた。一体なんだと確認すると、それは日本号の肘だと知って後退る。
「なあに見てんだ」
 言いながらにやりと笑う日本号に仕返しとばかりに脇に肘を入れたが、湯呑の珈琲を溢さないように注意しながら動いたせいか肘は日本号を少し掠める程度となってしまう。
「近くに熱湯があるのに危ねえじゃねえか」
「俺だって熱い飲み物を持っているんだが」
 手元の珈琲はまだ湯気が立っている。火傷する程ではないにしても熱いだろう。決して嘘ではないことを返せば、にやりと上向いていた日本号の口角は一気に下がってしまった。
「……まあ、これから高菜を湯から上げるから手ぇ出すなよ」
 少しは己の不注意を反省したのか。そう思える奴の変化にひっそりと笑う。そんな俺に気付いていない日本号は湯がいた高菜を冷水へ移し、鍋の熱湯を流しに捨てると流水とスポンジでそれを濯ぐ。そして鍋底の水気を布巾で拭うと、再びそれを火にかけた。
「もう少ししっかり洗ってはどうだ」
「すぐに灰汁を流すなら濯ぐくらいで大丈夫だ」
 言いながら日本号は冷水に浸していた高菜を取り出すと、力強く握りしめて水気を切る。そうしてしんなりした高菜をまな板に並べると、とんとんと軽快な音を立てて細切りにしていった。
 高菜に添えられた奴の指先はいかついながらも無骨さはなく器用に動いてゆく。それは美しささえあり、浮かんでいた笑みが引っ込んだ。
 少し距離を取りつつ日本号を眺める。瞬く間に高菜は全て細切りされたかと思うと、油揚げも同様に処理されてゆく。食材を同じ大きさで切るのが良いと料理の指南書で書いていたが、こうして日本号が実際にやっているのを見ると不思議な心地だ。
 食材が切り分けられる内に鍋が十分に熱されたのか、中に油が敷かれると煮干しが投入される。
「煮干しを炒めるのか?」
 再び疑問が口から出てしまいはっとしたものの、今度は誤魔化すことはせずに日本号の隣へ移動する。料理を始めるまではこの場を去ることを考えていたというのに、今では調理の様子が気になって仕方がない。
 煮干しを炒めるのだって、料理の指南書でも見なかったものだ。興味が惹かれるというものである。
「この煮干しは良い出汁が出るが、具材としても良くてな。炒めることで香ばしさが出る」
「ほう」
「煮干しが十分に炒められたら高菜を入れる」
「油揚げは入れないのか?」
「一緒に入れちまうと鍋に敷いた油を油揚げが吸っちまう。先に高菜を油でしっかり炒めてから油揚げを入れるのがいい」
「なるほど」
 料理には変えると良くない手順があるというが、この料理の場合はここなのだろう。なるほどと言いつつ、どう仕上がりが変わってくるのかわからない俺は次はどうなるのか静観する。
 僅かに色合いが変わった高菜に油揚げが投入されると、菜箸で鍋をかき回していた日本号が俺を呼ぶ。
「なんだ。もう何も言っていないし、何もしていないだろう」
 料理している様を眺めてはいるが、眺めるのさえ文句があるのかこいつは。そんな思いに眉間に皺が寄るのがわかる。
「何言ってんだお前さん……近くにいるから頼みたいんだが、水切りしていた豆腐を千切って鍋に入れてくれないか」
 まさかの頼み事に目を丸くすると、日本号は急かすように再度俺を呼ぶ。
 豆腐を千切って入れるくらい、これまでの手際の良さを見ると容易いと思うのだが、借りられそうなものは片っ端から借りようということなのか。何故俺がこいつを手伝わなければならないのか。そんな不満もあったが、断って狭量な奴だと思われるのも癪だ。湯呑を置いて手を洗うとキッチンペーパーから豆腐を取り出す。
「助かるぜ」
「豆腐の大きさはどれくらいだ」
「適当で良い。炒っている間に食べやすい大きさになる」
「適当は困る」
「そんなものかね」
 今の日本号の指示もそうだが、料理における「適当」「適量」という表現が一番困る。これが料理の指南書に出てきた時には、適量がわからないから指南書を見ているんだと不満を持ったものだった。料理とはこのようにいい加減なものなのか? そんなことを考えながら、ちょい呑み配信の日本号も時折目分量で調味料を投入することがあったと思い出す。配信も、隣にいる奴も日本号であるが、果たしてこのいい加減さは日本号特有のものなのか、それとも料理がそういうものなのか。どちらにしても今の俺にとってはもう少しわかりやすいようにしてほしいと思いながら、ぶちぶちと一口大に豆腐を千切っては鍋へ放り込む。
「文句言いながら上手いことやるじゃねえか」
 こんなことで褒められてもな。まだまだ練習中だが、料理の心得くらい少しは知っているのだ。
 料理の指示が適当ならば褒めるのも適当か。調子の良いものだと思っている内にまんばのけんちゃんが完成する。
 鍋から大皿に移される瞬間、湯気と共に油揚げと出汁の美味そうな匂いが立ち上がる。日本号に思うことはあれど食べ物には罪はないといったところか、食欲をそそる匂いに溜め息が出る。まんばのけんちゃんは知らなかったが、この匂いは確実に美味しいものだ。
 これは良い料理を知った。調理の様子を見るに真似できない程の高度な手法は使われていない。後で指南書を探そうと計画していると、日本号が目の前に小鉢が差し出してきた。それは普段の食卓でもよく出されるもので、見慣れた食器のひとつである。その筈なのだが、奴の大きな手に収まってしまうとお猪口のような別の器に見えてくる。
 俺よりも刃長のある本身を振るう肉体となれば、これくらいの大きな手が必要なのか。並べて比べなくともわかる日本号の手の大きさに内心動揺にも似た心地を覚えていると、小鉢の中にまんばのけんちゃんが盛られていることに気付く。
 手の大きさに気を取られていたが、どうやらこれを俺に見せるのが目的のようだ。
「なんだ」
「味見してくれ。他の奴の反応も確認したい」
「味見とは……別に俺じゃなくても良いだろう」
「ああ。味見してくれるならあんたじゃなくても良いがちょっとくらい良いだろう?」
 日本号からすれば遠くにいる誰かより、すぐ近くにいる俺へ味見を依頼する方が楽だ。それくらいは容易く考えられて、大した理由もなく断るのも大人げないと小鉢を受け取る。俺の掌に乗る小鉢はどこからどう見てもよくある大きさの小鉢で、先程の珍妙な光景が嘘だったのではないかと己の視覚を疑いかけては、そんなわけがあるかと内心突っ込みながら味見をする。
 少し冷めてしまった具は風味を損なうことなく、咀嚼する度にじわりと旨みを感じる。そしてもうひと口、ふた口と食べて、米飯が欲しくなったところで小鉢は空になってしまった。
 空腹ではなかったがもう少し食べたかったなんて思っていると、日本号が控えめにこちらを覗き込んでくる。釣られて視線を上げると目が合ってしまい、即座に小鉢へ視線を落とした。
 そうだ、今は味見をしているところであった。食べてそれで終いとはいかない。
 不意に視線が合ったことに少しばかり動揺しつつ、俺は感想のために言葉をまとめる。
「…………あるもので作ったにしては、悪くないのではないか」
 暫しの沈黙の後、言えたのはそれだけだった。こういう感想を述べることに不慣れであるが、ただ『美味しかった』と言えば良かったと、後悔が顔を覗かせる。
 そう。感想としては美味しかったのだ。味見なのだから難しいことは言わずに美味い不味いで答えれば良いのに、何となく素直に言いにくくて『悪くない』と捻って答えてしまった。
 流石にこの返答は日本号も苦笑ものだろう。もしくはいつか見た「への字」口をして不快を顔に出しているか……まあ、そんなことは今に始まったものではない。これまでだって似たような場面があっただろう。何を気にすることがある。
 半ば投げやりな気分になってくる。こいつは荒れない内に厨を出ようと顔を上げると、再び日本号と視線が合う。
 その瞬間、首の後ろから背中にかけて何かが触れたようにざわりとした。
「悪くないってか……へへ、そいつは良かった」
 視線が合った日本号は笑っていた。それも苦笑ではなく、はにかむような、どことなく恥ずかしげな気持ちを滲ませた柔らかな笑みだった。
 少なくとも悪い印象を持った笑みではないのは投げやりな心情の俺でもわかり、耳の裏が晒されたように冷えてくる。
 良かったってなんだ、普通は美味いと言われて喜ぶだろう。そう。普通は、普通はそうなのに、何故あのような捻くれた感想でそんな笑顔を見せるんだ。
 疑問と共に汗が噴き出るような奇妙な心地がして、居たたまれなくなった俺は小鉢を日本号に押しつけると、文字通り厨を飛び出した。厨を出る時に日本号がまた何か言ってきた気がするが、そんなものに構う程の余裕はない。
 兎に角ここから離れて気持ちを落ち着かせたい。その一心で自室までの道のりを走り抜ける。普段は廊下を走るなと他の男士に注意する俺だが、今は走ることを許してほしい。
 そんな願いがどこかに届いたのか、誰とも擦れ違うことなく自室へ到着した。
「……はあ、」
 戦闘に特化した刀剣男士のひと振り、厨から自室まで全力で走っても息が切れない程度の体力はある。それなのに胸がどくどくと高鳴って止まなく、胸を押さえながら床へ座り込んでしまった。


 厨での出来事から数時間、俺は未だ調子が出ずに夕餉もそこそこに自室へ引っ込んでしまった。夕餉には滅多に食べられないいちご汁が出ていたというのに、十分に味わうことができなかった。それのこれも日本号がおかしな場面で笑ったせいだ。全く何が良かったんだ、あいつにとって何も良いことなんてなかったじゃないか。わけがわからなくて調子が狂う。
 だから俺が動揺してしまったのだと憤慨していると、タブレット端末が日本号の配信を知らせる。
「……」
 いつもなら間髪入れず配信を観始めるのだが、今日ばかりはタブレットに手が伸びない。
 流石に今の心境で日本号の姿を見るのは控えたかった。他本丸の日本号であっても日本号は日本号だ、見たら確実に厨でのことを思い出してしまう。
 なんで、俺を見ながら笑ったんだあいつ。
 味見の感想に対しての一言だけでなく、あの笑顔が記憶にこびり付いて離れない。合戦場で豪快に本身を振るう時も、他の男士と一緒に話している時も、あんな笑顔を見たことがない。日本号の「良かった」という言葉をそのまま表出したものなのだろうが、それ以外にも何か理由が潜んでいる気がして落ち着かない。
 視界の端、タブレットがちかちかと光って通知が来ていることを主張している。全く、今日のことがなければ普段通りに配信を観て、日本号と博多のやり取りを楽しめたというのに。
 そう思うとそわそわした気持ちに苛立ちが混じり、俺は記憶の中ではにかむ日本号に恨めしい気持ちを募らせていくのだった。


   ◆◆◆


 早朝の遠征を終えて朝餉もそこそこに、一息ついた俺は自室の文机に向かう。机上にはタブレット端末が置かれており、画面には動画プレイヤーが表示されている。再生されているのは日本号の料理配信で、昨晩のアーカイブ動画であった。
『どうも。今夜も日本号のちょい呑み配信、付き合ってくれよ』
 落ち着いた低い声はいつも配信で聞くもの。それなのに、配信とは違う「日本号」がちらつくようになったのはいつからだろうか。そんな自問をしていると日本号と博多のやり取りが始まってほっと息を吐く。
 いつからなんてわかっている。ちらつくのは厨で見た日本号の笑顔なのだから。あの笑顔にどんな意図があったのか。件のことから間もなくひと月を迎えようとしているのだが未だに思い当たることがない。そこまで引き摺っているなら日本号へ聞けば良いだろうと考えもしたが、率直に「なんであの時笑ったんだ」と聞くわけにもいかない。俺が勝手に気にしているだけで、別にあの場面で日本号が笑っても何ら悪いことはないのだから。
 俺が意図があると思っているだけで、きっとあの笑顔に深い意味はない。
 そう言い聞かせながら、俺は配信へ集中することにする。映像では既に食材が並べられており、里芋と胡桃がごろりと転がっている。
『今夜はこれらの食材を使った里芋の共和えを作る』
『俺からまず質問ばい。ともあえは魚介で作るもんじゃなかと?』
『よく出回ってる共和えは魚介だが、別にそれに限定したもんじゃあない。共和えとは和えるものと和え衣に同じ食材を使ったものを指す。魚介類の共和えも同じ食材から作られるだろう?』
『やけん「共」和え呼ぶんやね』
『今日使う里芋の数は二十個、五、六個は和え衣として使用する』
 共和えといえば昨年の冬に食べた鮟鱇の共和えを思い出す。季節の珍味だから欲張らずに少しずつ食べるようにと、歌仙が何度も皆に注意したが、あっという間になくなってしまったものだった。米飯のおかずに数口食べた程度だったが、あれは油断すると際限なく食べられる一品だった。
『まずはよく洗った里芋を半分に切り、二十分程蒸し器で蒸す。蒸し器がないなら電子レンジで十五分熱してから、三、四分程蒸すと良い。目安は竹串や箸などで刺して突き通せるくらいだな』
『今日の差し替えはここばい! 里芋蒸すんは時間かかるけんねぇ』
 並べられていた里芋が隅へ寄せられ、入れ替わりに耐熱皿に入った里芋が映される。日本号はそれらを手にすると、硬そうな皮を手早く向いてゆく。相変わらず器用なものだと感心していると手元が狂ったのか、皮と一緒に中身を潰してしまう。
 これは珍しい。日本号も失敗をするのか。
『おっと、加減を間違えた。潰れたこいつは和え衣にするか……里芋の皮を全て剥いたら和え衣を作る。ここで胡桃の出番、こいつをフライパンで二、三分炒る』
 既に硬い殻を剥かれていた胡桃がフライパンに投入される。
『この和え衣には五個の胡桃を使っているが、胡桃好きな奴はもう少し多くても良いかもな』
『胡桃といえばみんなに聞いてほしかことやけど、おいしゃんが胡桃一キロも買うたばい! 一キロって百二十個くらいあるっちゃけど、無計画やと思わん?』
 博多の声がどことなく不機嫌な響きを含む。画面では確認できないが、話の内容からして拗ねているのだろうか。
 想像しては微笑ましくなりつつ、拗ねている博多の目の前に百を越える胡桃が並んでいると思うと、口元が真一文字になる。それほど多い数の胡桃を見たことはないが、日本号だけで消費は困難であることくらい容易にわかる。そうなると浪費に目敏い博多からすれば、文句も言いたくなるのだろう。
『そうは言うがね、一キロで八百円だったんだぞ。それに、これくらいは本丸の連中に配ればあっという間に無くなる。良い買い物だと思うぜ』
『本丸の連中って、そげんいい加減な……』
『近い内に長船の奴等と一緒に赤すぐりと胡桃のケーキを作るんだが、粟田口の分も作ったらそれだけでも結構使うと思わないか?』
 画面が少し揺れ、僅かに上の方を映す。すると日本号の顔が見え、こちらをじっと見下ろしてきかたと思えばにやりと笑った。
 この笑顔は撮影者である博多に向けている。そうはわかっているが、細められた眼差しが真っ直ぐに向けられていることに背筋がざわざわと落ち着かなくなってくる。
 そんな自身の反応に固まっていると、動画横に高速で流れる視聴者のコメントが目に付いた。その多くは笑顔に反応するもので、一瞬にして体の強張りが解ける。
 なんだ。俺だけが異様に反応しているわけではないようだ。別に、ここで動揺してしまうのはおかしいことではなく普通のことだ。別に。別に、俺だけがおかしかったわけではない。
『……ひと振り、最低二個は欲しか』
『了解。さて、胡桃を炒ったら次はこいつをすり鉢で粗めに潰していく』
 すり鉢でごりごりと音を立ててt胡桃が潰されていく。そうしてある程度胡桃が砕かれたところへ味噌などの調味料が投入されて里芋が続く。
『俺はこのまますりこぎ棒で混ぜるが、胡桃を粗めに残したいなら匙で里芋を潰しながら混ぜるといい』
 手早く、そして満遍なく擦り潰された和え衣に残りの里芋が加えられる。里芋の和え物は食べたことがないが、香ばしく歯応えのある胡桃と味噌の組み合わせだけで美味いのは保証されている。
 小鉢に盛られると、画面真ん中に見栄え良く置かれる。
『里芋は今が良く出回る上に美味い時期だ。良ければお試しあれ』
 挨拶もそこそこに動画が終了し、仄かに覚えた充実感に弛んだ頬を撫でる。動画視聴中に自身の挙動が怪しいところもあったが、そんなことは大変不本意ながらこれまでもあったことだ。
 なんだ。思っていたほど大丈夫ではないか。何をあんなに気にしていたんだ。そんな、安堵のような気持ちを抱きながらタブレットを仕舞っていると、部屋の外から俺の名前を呼ぶ声が聴こえた。
 その声に、全身に緊張が走る。
 返事をひとつ戸を開けるとこちらをじっと見下ろす眼差しとぶつかる。その目は自分と同じ色をしており、先程まで弛んでいた頬が限界まで引き締まるようだった。
「俺についてこい」
「……来て早々最低限の要望だけ言うのはどうなんだ日光」
 俺の一言にまったく表情を動かさないのは日光一文字という、夏真っ盛りの時期に顕現されたばかりの太刀だ。南泉と山鳥毛に続いて顕現された福岡一文字のひと振り、そして北条から黒田へ贈られた宝刀として有名な奴である。
 そんな日光は黒田家宝刀としての性質をしっかりと持っており、俺を「弟分」と称しては今のようにちょっかいをかけてくることがあった。
「それもそうだな。これからお頭が本丸の者達に菓子を振る舞うので、できるだけ多くの働き手が欲しいのだ」
「それで、俺へ声をかけたと」
「ああ。手伝ってくれたならお頭から褒美もある。決して悪い話ではなかろう」
 無数の刀剣男士がいる中で、どうして俺が働き手に選ばれたのか。それは日光にとってへし切長谷部とは「弟分」だからに違いない。それはこちらが一切黒田の話を口にせずとも揺るぎが無いもので、厨の日本号と共に俺を悩ませるものだった。
 ここは断るのが得策と思いつつ、そんなことでは日光との関わりが半減しない事実と、奴の隣に並ぶ山鳥毛の姿が過る。日光とは極力関わりたくないが、奴を動かすのはあの山鳥毛だ。一派の長と疑う余地を周囲に与えない程の優れた刀剣の存在を考えると自分の中の良心が疼いてしまう。決して山鳥毛に良い顔をしたいわけではない、それに俺が断るくらいで然程支障が出るとも思えない。だが、日光と関わりたくないというだけで断るのも何か違うような気がしてくる。
「山鳥毛が人手を要しているというなら手伝おう」
 黒田のひと振りではなく、あくまでも本丸に住まう仲間として手伝うのだ。それ以外の理由はない。
「どこに行けば良い。菓子というなら厨か?」
「厨は厨でも、太郎太刀次郎太刀の部屋に併設されている厨だ。そこを借りて餅を拵えている」
「……大太刀の部屋に厨があるのか」
「ああ」
 そいつは初耳だが、主に交渉して自室を改築するのは禁止されていることではない。俺が知る限りでも大部屋の壁を取り壊して更に規模を拡げた大部屋を作った粟田口や、天井を高くしてロフトを拵えた三池もいるのだ。たまたま俺が知らなかったことなのだろう。
 太郎次郎の部屋の場所は覚えている。ここから少し離れたところにある、槍や薙刀といった大柄な男士向けの部屋が並ぶ内の一室だ。
 日光の横をすり抜けて早速部屋へ向かう。日光に誘われたからではなく、あくまでも自分の意志で山鳥毛のところへ向かっているのだ。
 時折すれ違う男士達へ挨拶をしながら歩く内、自室より高い位置に鴨居がある部屋が目立ってくる。この辺りの部屋は長身に合わせた作りになっているのかと感心していると、どこからか機械音が聞こえてきた。
 これは……なんだ? ただの機械音ではない、違う音が入り交じっているようだが……。
 思わず立ち止まると、後ろを歩いていた日光に追い抜かれてしまう。
「大太刀の厨はこちらだ。ついてこい」
 迷ったわけではないと反論する間もなく日光がとある一室へ入ってしまう。そこは目的地である太郎次郎の部屋で、結局日光に続く形となってしまった。
 大太刀が二振りいても余裕がある室内に、割烹着姿の山鳥毛と南泉が出迎えてくれる。傍らには掌大の餅が無数に並べられており、具体的な数は一見するだけではわからないが、この本丸に住まう刀剣男士全てに配れる程はありそうだ。
 これは働き手が欲しいのも納得だ。作るのも大変だが、配るのも一苦労だろう。
「お頭、へし切長谷部を連れて参りました。どうかご指示を」
「急な呼び出しに応じてもらい感謝するへし切長谷部、早速で悪いが奥の厨で胡桃を炒っている日本号達の手伝いをしてくれないか」
 出された名前に、驚きを越えて表情筋が固まる。
 俺が呼ばれるくらいだ、日光が他の黒田縁の刀剣男士を呼ぶくらいは予想できることだ。むしろ他の連中を差し置いて俺だけに声がかかった事態の方が恐ろしい話ではあるが、日本号か……他にも黒田縁の者はいるというのによりによって……いや、日本号「達」というから他にもいるに違いない。そうでなければどこぞにいるかもわからない神すら呪いそうになる。
 一体自分がどんな表情をしているかわからない程に顔を強張らせながら、日光に案内されるがままに奥へ移動する。部屋の主である太郎や次郎の姿がないが、日本号と一緒に厨にいるのだろうか。それならば俺としては有り難いところだ。
 だが、そんな都合良いことは起きないらしい。
「…………」
 通された厨は近代風のものだった。機能性重視と言わんばかりに電化製品が「コ」の字に並ぶ中、日本号だけが立っていた。
 太郎も次郎も居なかった。それどころか他の黒田の刀も居ない。それだけでも頭を抱えそうだというのに、眺める光景にとある既視感を覚えてしまう。
 その既視感の正体が頭の端にちらつくが、それは有り得ないと何かが警告してくる。
「よぉ長谷部、お前さんも日光に呼ばれたか」
 そんな俺の動揺を余所に、日本号はへらりと笑いながら火にかけたフライパンを掻き回して胡桃を炒めている。
「俺はお頭の手伝いをしてくる。胡桃餅ができたら声を掛けてくれ」
「応よ。手伝いが居りゃああっという間だ、いつでもこっちに移動できるようにしておけ」
 日光が厨から出て行き、日本号は炒めていた胡桃を近くに置いてあったすり鉢へ投入していく。その様子は一度見たもので、その一度は何処で見たかと思い出すと目眩がしそうだった。
 それをぐっと堪えて、極力平然を装う。
「手伝いとは、何をすれば良い」
「そうだな。後ろにボウルに入った餅があるんだが、そいつに黒糖を混ぜてくれないか」
 日本号の背後には餅と黒糖があり、これを混ぜろと言っているのが一目でわかった。
 ざわざわと落ち着かない心地のまま、言われた通りに餅と黒糖を混ぜてゆく。その後ろでは日本号がすり鉢で炒り胡桃を砕いており、手元が覚束なくなりそうな錯覚を起こす。
 それを誤魔化すよう、必死で話題を探す。
「な、何故、山鳥毛はいきなり菓子を配ろうと提案したんだ。貴様は聞いて、いるか?」
「ああ。なんでも、山鳥毛が商店街の福引で餅つき器を当てたから使いたかったんだと」
「そうか」
 いかん。こんなに話題が広げられそうな内容だというのにうまい返答が浮かばない。
 途切れた会話、胡桃を砕く音と餅が練られる音ばかりが響く。無音ではないだけましと捉えるか、沈黙が際立つと捉えるか。今の俺にはそれすら考えていられない。
 悶々黙々と黒糖色に染まってきた餅を混ぜていると、肩越しに日本号が覗き込んできた。
 間近に感じる日本号の気配に飛び退きたい気持ちに駆られる。しかしそんなことをすれば日本号とぶつかるのが落ちで、視線ばかりが右往左往してしまう。
「その中に胡桃を入れる。そのまま混ぜていてくれ」
「お、おう」
 とりあえず手だけは動かし、食べやすい大きさに砕かれた胡桃が投入されていく様を眺める。手を動かすとあっという間に餅に馴染んでゆく胡桃に、とふと思い当たることがあった。
「この胡桃は、一文字が用意したのか」
「いや、こいつは俺が買った特売鬼胡桃だ」
「特売というからには、その、安かったのか」
「応よ。一キロもあって八百円、良い買い物だろう?」
「八百円……や、安いとはいえ、一キロも消費できるのか? 些か無計画だと、思うが」
「博多だけじゃなくあんたもそう言うかね……まあまあ多かったが、今日は胡桃餅、明日はケーキで使って全部消費する予定だ」
 俺は買い物上手なんだ。どこか誇らしげに話す日本号の声が、近いというのに遠くに聞こえる。それは何故なのか。なんて自問しては、これは現実逃避の前兆だと、冷静に判断する自分がいては、とある確信に震えそうになる。
「おいしゃんおまたせ!」 
 そんな俺の心情を無視するような元気な声が響き、下から博多が覗き込んでくる。青い眼は真っ直ぐ俺を見つめるとにっこり笑う。
「長谷部も呼ばれたんやねぇ」
「あ、ああ。日光に呼ばれ、仕方なく……」
 言葉尻を濁す俺に対し、博多はにこにこと笑っている。その顔は愛らしいの一言だが、その愛らしさは俺を動揺させる。
「餅と胡桃が混ざったな。じゃあ、残り作業は場所を変えてやるとして、厨へ山鳥毛を呼ぶか。長谷部、あんたはそのまま餅を持っていって山鳥毛と場所交代しろ。俺と博多は打ち粉と皿を持っていく」
 言われた通り交代して厨へ向かう一文字一派を見送っていると、入れ替わりに日本号と博多がやってくる。その二振りの並びをこの本丸内でも見たことがあるのに、別の光景が浮かんで胸の高鳴りを覚えた。
「山鳥毛しゃんはみたらし餅ば作るんやね」
「みたらしも良いよなぁ。香ばしく焼いた餅と甘じょっぱい味には酒がよく合う」
 そんなやり取りが夢心地のようにぼんやり聞こえたが、手に持った胡桃餅の生々しい感触にこいつは夢ではないと気付かされる。
 
 もしかすると、いつも見ていた配信の日本号は、この本丸にいる日本号かもしれない。

 そんな可能性に口から腸が出そうになり、そこからの記憶はとても曖昧だった。ただただ震えそうになる体を誤魔化すのでいっぱいいっぱいになってしまった。


2023.04.17 15:30