Natalia
薔薇の園から幼い童謡がきこえてきます。
ふわふわと柔らかい豊かな髪を揺らして、小さな女の子が花に悪戯をしたり、その芳(かぐわ)しい香りを好きなだけ堪能したりしていました。
やさしい花の色をほんのり頬にのせて、血の色の唇で小さく歌っていました。鮮やかなブルーの瞳をきらきらさせては、あちらこちらに目移りします。陽の光に包まれた女の子は、アメジストのドレスのよく似合う、幼い天使でした。
「ターニャ、ここにいるのかい?」
「おとうさま!」
女の子は弾かれたように薔薇の垣根の間を駆けていきました。真っ白な石畳を蹴りあげて、大好きな背中に飛びつきました。
「つかまえた!」
男はすぐさま彼女を抱き上げて、愛おしげに頬擦りをしました。
「ああ、私のターニャ。私の小さなお姫様。なんて可愛いことをしてくれるんだい?」
「やあ、おとうさま、くすぐったい……っ」
明るい笑い声が響きました。ターニャは父の首に顔を埋めて、甘えた声でさえずります。
「ねえ、おとうさま、ミーシャは?ミーシャはどこなの?」
「ミハイルはまだお稽古中だよ。さあ、おいで。兄さんのお勉強が終わるまで、お父様とおやつを食べよう」
「うんっ」
小さなお姫様は、とびっきりの笑顔で大きく頷きました。
タチアナ・ロマノフ。貴族らしい白磁の肌に青い瞳を持った、まだ五つにも満たない女の子です。
小さなターニャは、活発で明るい女の子でした。父・イヴァンは、娘をうっとりと見つめてはこんなことを言うのでした。
「お前は、昔のナターシャに……お母様によく似ている」
毎回のことでした。ターニャはいつも何も答えませんでした。似ていると言われても、困ってしまうのです。ターニャはお母様のお顔も見たことがありません。お母様は誰にも会うことができないくらい重いご病気にかかっているとお父様は言いました。
「おかあさま、きっとなおる?」
「ターニャが良い子にしていたら、きっと」
そんなやりとりを繰り返しては、幼心に母への想いを募らせていました。母のため、良い子になろうと努めました。
わがままはいいません。だだもこねません。いいこにします。いいこでいます。
そうやって、ターニャはたくさんの我慢をしました。
それでも、お母様に会うことは、いつになっても叶いませんでした。どんなに会いたいと泣いても、せがんでも、お父様は決して引き合わせてくださらない。さみしいときに限って、お父様はお仕事でいないというのに。乳母をあてがうだけで、お母様のいるお部屋すら教えてくれないのでした。
母親代わりに、ちいさなターニャを慰めてくれるのが兄のミハイルでした。
「ターニャ。ぼくの小さなお姫さま。どうか泣かないで」
くすんだ色の長い髪色は癖もなく、綺麗に真っ直ぐしています。ふわふわと広がるターニャの髪とは正反対なのでした。ミハイルは、父のイヴァンを真似て髪を伸ばしていました。王子様のような品のいい口元がにこっと笑いかけてきます。そんな顔をするものだから、ターニャは少し正直になって、兄に甘えてみせるのでした。
「ミーシャ、わたし、おかあさまにあいたいの」
「またそんなことを言って。お父様を困らせてしまうよ」
「でも、おかあさまに、あいたい……。ミーシャだって、あいたいでしょう……?」
「……ほら、おいで」
ミハイルは幼い妹を出来得る限り優しく抱きしめました。
「ぼくは、ターニャがいれば、他の誰だっていらないよ。ターニャだけでいいよ」
彼は、いつだって妹の王子様でいたいのです。ターニャもまた、その手によしよしされているのが何よりも好きでした。
でも、求めるものとは何かが違っていました。包まれるような、安心して眠っていられるような、自分を守ってくれる人。イヴァンやミハイルは、ターニャにとって、そんな人ではないのです。不思議とそんな風に感じたことは一度だってありませんでした。何を言われても、どんなに甘い言葉を貰っても、彼女の心は何故だかそれらを受け取ることができませんでした。理由はわかりません。
いらないとは言えないから、言わないだけで。
「ぼくがずっとそばにいてあげる」
兄の言葉をききながら、ターニャはどうすれば母に会えるか考えていました。
せめて、どこのお部屋にいるかでもわかればいいのに。
翌日、ターニャはこっそりと部屋を抜け出しました。イヴァンやミハイルには内緒で、お母様を捜すことにしたのです。
方法は至って単純なものでした。ただひたすら扉を一つずつ訪ねていくのです。そうすれば、いずれ母のところに行き着く。地道でいて、完璧な作戦のように思われました。
歩いてみてはじめてわかるものがあるというものです。まず、この屋敷の大きさに小さな女の子は圧倒されることになりました。空間がどこまでもどこまでも繋がっています。見知らぬ風景を描いた油絵の前を幾つも幾つも通り過ぎました。見つけた扉を片っ端からコンコンと叩いて、中を覗いていきます。その中には用途のわからぬ部屋もたくさんありました。召使いの部屋にもお邪魔しました。乳母には、散歩をしているとだけ伝えました。
頼りない少女の足は、すぐに疲れて、使いものになりません。住まう家を間違えているんじゃないかと思いました。足の裏が疼痛を訴えています。捜索は早々に打ち切られました。開始から、およそ一時間にも及びぬ捜索劇でした。ターニャは、しょんぼりと階段のすみっこに縮こまっていました。早くも心が折れて、立ちあがる元気もどこかへ飛んで行ってしまいました。
なんて不都合な家でしょう。こんなに部屋があったって、何の役にもたちません。むしゃくしゃしてきて、そばに花瓶があったなら床に叩きつけて粉々にしてやりたいところでした。ターニャはあたりを見渡しました。
幼い少女はぽつんと一人でした。ひっそりとした回廊は、深紅の絨毯が血の海の如く広がっています。心細い日の光はぼんやりとして、あたりはそこはかとなく薄暗いのです。少女は背筋を震わせました。この段をのぼっていった、高い天井の奥に、黒々とした闇が口を開けて自分を待っている。侍女たちも不吉だと言って、誰も足を踏み入れません。
そこは、ターニャの叔父にあたるアレキサンドル・ロマノフのかつての寝室でした。サーシャと親しまれた青年の死後、部屋は潰され、使用されていないとききました。一度死者を出した部屋だから、穢れていて、決して近づいてはならないのです。
ターニャは引き返そうか迷って、じっと佇んでいました。あんな暗いところに一人でいくのは恐ろしいのです。
それでも、一歩、踏み出しました。壁をつたいながら、ターニャは光の射さぬ方へ向かって歩いていきました。
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