Liz
ジャックには父との思い出がほとんどありません。
いるにはいました。けれど、自分が父親からこころよく思われていないことは幼い子どもにもすぐ理解できました。
父は帰ってくると、息子には目もくれないで、すぐに母とふたりきりになりたがりました。自分の息子のことを、まるで妻をたぶらかす若い燕(つばめ)でも見るような目で見ては、彼女のそばに寄るのを許そうとしませんでした。
「おとうさん……」
差し出した手には、庭で摘んだ一輪の白い花。母と父の間に入れてほしかった少年の思いついた、小さな贈り物。それは、好かれたいがためにお菓子をあげるのと同じことだったのかもしれません。
受け取る代わりに叩きつけられた扉の悲鳴が、今になっても彼の耳に残っているような気がします。
父を憎むのには、もう一つの理由がありました。
この男には、母の他に女がありました。その女との間にも子が二人あります。母と出会う前から結婚していたのです。
ジャックの純粋で正義に溢れる心はその事実を決して許しませんでした。幼いながらも父の行いが悪であるのがわかっていたのです。
母は、貴族の養子として育てられてきました。貴族の養子。それは、貴族の歪んだ性欲のはけ口であるか、あるいは血を繋いでいくための道具に過ぎません。
先の戦争で母の家はなくなりました。家を追われた彼女は父の家に身を寄せる他なく、正妻とその子どものいる家の中に身重の体で入っていかねばなりませんでした。それはどんなにつらいことだったでしょう。
この家に来てからというもの、彼女はずっと虐げられてきました。周囲からは妾(めかけ)と見下され、言い返すこともかなわぬ母の姿を、ジャックは幼い時分から見てきました。
真夜中。皆が寝静まったころ。明かりのない部屋で母の背は震えていました。
「おかあさん」
「ジャック、起きてきてしまったの?」
「またひどいことをいわれたの?」
「違うわ……ひどいのはお母さんの方なの」
白い頬は濡れていました。
「きっと、あの人たちも私がいて苦しいはずだわ」
母は、良心の呵責に苛まれているようでした。正妻たちを気の毒がって、こうして毎晩のように泣いているのです。
ジャックはそばへ歩み寄りました。けれど、かけるべき言葉が見つかりません。細く頼りない肩に顔を埋めることしかできませんでした。いま必要とされているのは自分のぬくもりではないのだと幼い彼はわかっていました。しかし、仮に父が彼女を慰めたところで、いったい何になるというのでしょう。やさしい母の心が、それで癒されるというのでしょうか。
父は同じ屋敷の中にいました。母が涙に暮れている今この時も正妻のそばですやすやと眠っているのです。
母を悲しませるものをどうして恨まずにいられるでしょう。憎悪は水面に氷が張っていくようにジャックの心に広がっていきました。
それからして、妹が産まれました。父はリズの誕生を喜びました。リズは成長するにつれ、母によく似てきました。父親似のジャックとは違って、目元も明るい緑色で、よく笑い、とても愛らしいのです。父は相変わらず息子は除け者にしましたが、母と娘のことは深く愛していました。ジャックも父を憎む気持ちは消えませんでしたが、母と妹さえそばにいてくれれば、それでかまいませんでした。
[ 2/15 ]
[*prev] [next#]
26/55