裏側の人間、とはよく言ったものだ。
俺と蓮の世界は全然違うのに。
それでも、俺は蓮の世界が見たかった。
とても優しく微笑むくせに、吐き気がするほど優しいくせに、蓮は絶望していた。俺には人間らしい感情もなく、たくさんのことを諦めていたくせに、絶望さえできないでいた。
潔すぎる彼を綺麗だと思ったのは間違いないが、そんな絶望を背負っていてほしくなかった。蓮はやたらと“僕の世界は変わらない”と口にした。その理由さえ、俺は最後の最後まで知らなかった。知ったところで俺の考えは変わらなかったと思うけれど。
だから、蓮は怒るだろうから、絶対に言わない。俺の目で、世界を見てほしい、なんて。
蓮の為じゃない。俺の為だ。そう言っても、きっと蓮は受け入れないだろうから。同情じゃないってことを、分かってもらえそうにないから。裏側しか見てこなかった俺の目で、蓮の中を、蓮の世界を見てほしかった。それで蓮が両目の失明を免れるなら一石二鳥じゃないか、くらいの、それくらいのおまけだって話なのに。
ただそれだけのことを、蓮はきっと拒絶するから。
手術の後、俺は片目しか見えなくなって、それはわかりきっていたことだったけど、鏡に映った自分から目が離せなくなったのは予想外だった。何も見えないくせに、蓮の目は綺麗に澄んでいて、屋上で見ていたあの琥珀色に光る瞳が今、俺の目にあるのだ、と。そう思ったらどうしようもなく愛しくなってしまったのだ。
親父には怒鳴ることさえ面倒だと呆れられたけれど、片目だからと言って跡継ぎでなくなることはないと言われた。そう、だから、蓮にはもう会ってはいけないと気持ちを抑え込んでいた。
「……」
なのに、どうしてここへ足を運び続けるのか。
蓮と出会った屋上へ。
ここに来るたび、あの十日間の記憶が鮮明に甦る。言葉の一つ一つまで確かに、思い出せる。そして…俺の知らない映像が、浮かぶ。蓮の見てきたものの残像なのかなんなのか俺には分からないけれど、それが良いものでもそうでなくても、また少し自分の中の蓮が大きくなるように感じていた。
あれからもう一年が経つのに…俺はいまだにここへ足を運ぶ。週に何度も足を運ぶこともあれば、二週間来ないときもある。数十分で帰るときもあれば、何時間もいる時だってある。会えるはずないと断言しているくせに、諦め悪く縋っているのだ。そう、あの時と同じ。自分の中で勝手に賭けている。もっとも、賭けにもならないほど結果はいつも見えていたのだけれど。
蓮が来ないことが負けなら、俺はもうここへ足を運んではいけない。頭ではそう分かっているのに。
一度だけ交えてしまった体温を、俺は今でも忘れられない。あれから、誰も抱けなくなってしまった。蓮に触れたくて触れたくて、俺の背中を見て、唯一綺麗だと言ってくれた彼が、恋しくて。好きだった花の名前は蓮で、彼そのもので。そんな些細な偶然が、俺には全然些細なことではなくなっていた。もしこれが運命なら、必然なら、きっと俺はまた蓮と巡り会う。
そんならしくないことを考えて、もう何度、これで最後にしようと思ったか。遠くから聞こえてくる足音に、俺は耳を澄まし続けていた。期待し続けていた。
きっと違うとどこかで冷静に言い聞かせながら、それでも。だから、開いたドアの前、現れた姿にこの一年間負けっぱなしだったことなどどうでもよくなった。
「とら」
そう呼んだ声に。俺の、どうしようもないものしか見てこなかった目が、ちゃんとそこに存在していたことに。ただそれだけで、満足してしまった。
そう、もう離せるわけがないのだ。
あの日離れたことは間違いではなかったと思うけれど、それが最善だったこともわかっているけれど。それを無駄になどしたくないけれど。
「会いたかった」
ただ本当に、どうしようもなく、好きだと思ったのだ。
“会いたかった”
残像の中ではなく、触れることの出来る清く暖かな彼に。
会いたかったの一言に全ての思いを込め、双眼から落ちた涙の温度を確かめるように、蓮の世界と自分の世界を混ぜる。胸に抱いたその存在はもう、決して離してはやれない。
/fin
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