「ありがとう、先生」
「はい、おしまい。女の子なんだからあまり怪我はしないようにね」
「はーい、じゃあね」
覚醒していく意識の中、遠くから聞こえた声。
パタパタとスリッパが床をたたく音、ガラガラとドアが閉まる音。ぼんやりと白く滲む世界に、また深く眠ってしまっていたんだと気づく。
白いカーテンに囲まれたベッドは、それから薄く透過された光を受けていた。無機質な天井がゆっくりとクリアになっていき、聴力、視覚、そして嗅覚を呼び覚ますようにコーヒーの匂いが鼻腔を擽る。
鉛のように重い体を無理矢理起こし、眠ってしまった経緯を考えてみた。けれどそんなのはいつもと同じで。結局しっかりと思い出さないままカーテンに手を伸ばした。
「…ああ、愛嬌くん」
真っ白の布団に埋もれたままの足はそのままに、俺はこの部屋の責任者を見つめた。
「目が覚めましたか」
淡いブルーのシャツの上に白衣を羽織る、その男。コーヒーの匂いを全身に纏って柔らかく微笑む、その男。静かに俺に歩みより、カップを持っていない方の手を俺の額に当てた、その男は。
「気分、悪くないですか?」
「……は?」
「少し前に様子を見たとき、酷く汗をかいていた様だったので」
前髪を避けて触れた手が、まだうっすらと湿ってるらしい額を拭って離れていった。嫌な夢を見たのだろうか、覚えていない。そもそもそんなものに魘されたことなどない。ただ暑かっただけだろう。
「別に」
「そうですか、なら良かった」
太股まで覆い隠す白衣が翻り、一瞬だけ細身の腰がちらついた。
「何か飲みますか」
太陽の光を背に浴びながら俺を見る彼。
俺から見たらそれは、彼自身が輝いているようにしか見えなかった。
「……同じの。園村と」
「砂糖、多めですね」
揃えて脱いだ覚えはないのに、ベッド脇にきちんと並べられたスリッパ。おそらく彼が、園村が直してくれたであろうそれに足を突っ込み、軋むベッドを降りた。
時刻は2時。あと少しで5限が終わる時間だ。ここへ来たのは昼休みが始まってすぐだから、1時間半ほど眠っていたらしい。
「はい、どうぞ」
「…ん」
使い捨ての紙コップに注がれた茶色の液体を見下ろし、保健室内に設置されたソファーへと腰を下ろした。
こんな待遇、生徒にするなんてありえないと思う。思うと言うか、俺は園村しか、知らない。“保健室”にいる“保健の先生”。
充分に息を吹き掛けてから揺れる水面をしばらく見つめて、口の中へと流し込んだ。甘さの中にふわりと香った苦味。俺の好みをよく知っている園村だが、飽和状態が限界だと思っているのか、溶けきる量しか砂糖を入れない。
それが俺には少し物足りないけれど、それでも飲めるのだから構わない。
何より、俺は彼に心を許していた。
「内緒ですよ」
いつも通りの柔らかな笑みを浮かべて笑う、園村に。
「6限は授業出てくださいね」
「……」
「愛嬌くん」
「分かってる」
始まりはよく覚えていない。
と言うのは嘘で、思い出すと未だに胸が高鳴るから嫌だ。
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