櫂先輩のお家に、遊びに来ました。

優しいてのひら


「あー、つぐみくんいらっしゃい!」

「お、お邪魔します」

「どうぞどうぞー、でもごめんね、おばさんでかけるからかまってあげられなくて。ゆっくりしてってね、つぐみくん」

「あ、はい」

弟くんの合宿にお父さんも一緒に行っているらしく、お母さんもこれから仕事で明日の昼まで帰らないとのこと。そんなみんなが留守を狙って“お泊まり”に来たつもりはなかったけれど、結果的にそうなってしまった。

制服姿ともバイトの格好とも違う、外に出掛けるときとも違うラフな格好の櫂先輩は、家の中で見るとやっぱり大きい。櫂先輩のお家は全体的に天井や敷居が高いからあまり気にはならないけれど、それでもやっぱり窮屈そうだ。

なんて、そんなことを考える余裕なんて本当はあんまりないくせに。櫂の家で明日まで二人きり、ドキドキしないわけない。DVDを借りて適当にお菓子を買って準備は万端。けれど僕にとっては誰かの家にお泊まりする、ということ自体あまり経験がなくて緊張している。
一度、クリスマスに泊まらせて貰った時は突発的だったし、先輩の家族もみんないた…その違いだけでもう胸が一杯になってしまっている。

「つぐみ?」

「え、あ、はいっ」

「それ貸して」

「ああ、はい、」

DVDの入った青い袋を櫂先輩に渡すと、リュックもおろせばと笑われてしまった。いつも、櫂先輩とさよならする時は寂しい。まだ一緒に居たいと思う。それが、今日は来ない。明日になればもちろん帰らなくちゃ行けないのだけれど。いつもよりずっと長い時間一緒にいられるんだから、まだそれは考えないでおこうと決めてリュックをおろした。

「あっ、これ有くん?」

「あー、そう」

「格好良いね」

櫂先輩の部屋、テーブルの上に広げられたままだった写真を見つめながらソファーに座る。それはバスケのユニホームを身に纏った有くんのもので、表彰や集合写真だけではなく、試合中と見られるものもある。

「やっぱり、大きいね、有くんも」

櫂先輩とよく似た目が鋭くコートを見渡している。手足が長いから走る姿も格好良い、けれど、トロフィーを持って笑う顔は、やっぱりまだ小学生で可愛らしい。どうして櫂先輩の部屋にあるのか聞くと、昨日の夜合宿前に有くんが見せに来てそのままにしてただけ、と答えが返ってきた。

「櫂先輩のはないんですか」

「中学までのならどっかにあるんじゃねえの」

何でもないようにさらりと言う櫂先輩に、けれど本当はいけないことを聞いてしまったんじゃないかと不安になった。当の櫂先輩はけろりとした顔で、借りてきたDVDをどれが見たいかと聞いてきた。外国のアクションを三本と、ホラーが一本。お笑いのライブが一本。

「じゃあ、これがいいです」

「ん、」

テレビがDVDを読み込む間、僕はもう一度有くんの写真に視線を落とす。櫂先輩の話は良く分かったつもりでいる。でも、こういうのを見て櫂先輩自身はどう思うんだろうとか考えてしまう僕はきっとすごく、重い。

テレビ画面に文字が現れ音が聞こえて、慌ててそれを綺麗に揃え飲み物で汚してしまわないよう、側にあったカメラ屋さんの袋に入れてテーブルの隅に置いた。

「吹き替え?字幕?」

「あ、このままでいいです」

画面には字幕が出ていて、設定するのも面倒かなとそのままにしてもらった。そこで櫂先輩もようやく隣に座り、ソファーがギッと少し窮屈そうな音をたててしなった。そう言えば関谷くんは吹き替えの方がいいと、英語の授業で外国の映画を見たときに言っていたなと、ふと思い出して隣を見ると櫂先輩はじっと画面を見つめていた。

「なに?」

「えっ、あ…吹き替えの方がいいのかな、って」

「俺はどっちでもいいけど」

「じゃあこのままで…前に、関谷くんが吹き替えの方が見やすいって言ってたから、どうなのかなって」

「まあ、疲れるしな」

「そうなんですか?」

物語はもう始まっているのに、僕が話しかけるから櫂先輩はこっちを見ていて、少し驚いたように目を見開いた。それから「字幕もなくていいの」と言うから素直に頷いて、小さい頃アメリカに住んでたことがあるから少しは分かるんですと答えた。

「父さんと母さんが同じ時期にアメリカ赴任になったことがあって、たぶん、一歳?とかから六年くらい住んでて、あとは日本だったりまたアメリカだったり、いろいろ…」

転校ばかりしていたという話しは前にしたことがあるし、今でも両親ともに忙しく海外を飛び回っていることは櫂先輩も知っている。だから納得したように頷き、テレビへと視線を戻した。
密着して座るソファーは、櫂先輩の体温をじわじわと僕に伝えてきてドキドキが治まることはなくて。ドキドキのラストシーン、とは関係なく終始胸を高鳴らせていた僕は、ふいにのびてきた先輩の手に大袈裟に肩を揺らしてしまった。

「あ…」

「なに、具合悪い?」

「ちが、なんか…」

ドキドキして、という言葉を飲み込みトイレ借りますと言って部屋を出た。泊まる、二人きりの夜、朝まで一緒、それが櫂先輩の体温で頭の中をぐるぐると回り、とりあえず落ち着こうとひとつ大きくため息を落とした。

「はぁ〜もう…」

期待しすぎているのがバレていそうで怖い。実際期待していない訳じゃないから言い訳も出来ないけれど。一人悶々と考えながらトイレを済ませて櫂先輩の部屋に戻ると、電話をしている声がドアの外からでも聞き取れた。

「はは…行かないですって……はい…いやいや、」

敬語だ、誰だろう。
盗み聞きなんてしなくてもいいのに…堂々と入っていって、そそくさと電話を終わらせてしまうのは何だか悪い気がしてドアにかけた手を一旦離した。

「有は?…あいつ負けず嫌いだからな……え?ああ、その話は……はい、はい、うん、だから、あー…まあ、そうですけど」

櫂先輩にしては珍しい、面倒というより返事に困って濁される言葉。相手が誰かはすごく気になるけど、有くんの名前が出たのだから疚しい電話ではないんだろうと思う。たとえば、たとえば?そう、たとえばバスケ関係の人、とか…僕はもう一つ深呼吸をしてからドアを開けた。櫂先輩はチラリと僕を見て、軽く手招きをしてくれた。良かった、嫌な顔されなくて。

「バイト?してますって……無理無理」

さっきと同じ、隣に座って床に積まれたレンタルDVDを手に取った。テレビからはDVDが出てきたままそこに挟まっている。

「また、考えときます…少しだけ。……は?やめてくださいって。じゃあ、切りますよ…はい、はーい、」

ピッ、と通話を終わる音が聞こえて櫂先輩を見ると、疲れたように大きな体が後ろへのけ反った。

「櫂先輩?」

「んー?」

「……2、見ても良いですか」

「ああ、」

「僕やります」

続き物の映画の1から3までを、明日帰るまでに見るつもりだったわけではないし、夜は長いんだから今から慌てて見ることもない。のに、僕はソファーを離れてテレビの前に腰を下ろした。出てきていたDVDをケースへ戻し、次のものを押し込むと背中に「面白かった?」と問いかけられた。来月4が映画でやるから見たいと言ったのは僕だ。

「面白かったです」

「そう」

「…あの、」

確かに面白かった、けれど…僕はテレビがDVDを読み込む空白の間に、思わず「電話」という単語を口にしてしまった。

「ああ、有の…」

「バスケの、人?」

「まあ。クラブチームの、コーチ、みたいな。今日親父も行ってるから俺も来ると思った、って」

僕の知らない櫂先輩がいる。知ってることの方が少ないのかもしれないけれど、それでも、知らないことを突きつけられると無性に不安になる。

「僕、アメリカに居た頃少しだけバスケやってました」

「えっ」

「あ、馬鹿にした!まあ、体も小さかったし、周りの子にも馬鹿にされてたから良いんですけど…小学一年生の頃とかだし、日本ではあんまり身近なものじゃなかったから、それきりなんですけど」

再生ボタンを押そうとした僕を止めるみたいに、櫂先輩は静かに「馬鹿になんてしてないよ」と呟いた。だるそうな、やる気のない声ではない、ひどく優しい声で。思わずチャンネルを落として振り返ると、少し暗くなった室内で灰色の瞳が僕をじっと見ていた。

「櫂せんぱ、」

「庭にゴールあるけど、する?」

「え?」

「バスケ」

「したい、したいです」

よし、と腰をあげた櫂先輩に腕を引かれて階段を降り、靴を履いて中庭へ行くと年季が入ったバスケットゴールが置かれており、踏み固められた土が敷き詰められていた。その隅には遠慮がちに作られた花壇があって、まだ蕾もついていない木が一本、ゴールから離れた場所に立っている。

櫂先輩は玄関から持ってきたボールを抱えて靴紐を結び直した。大きなバッシュだ。たまに学校にも履いて来ることがあるなと、気づいたのは櫂先輩が立ち上がったときだった。

「ん、」

「わっ…バスケットボールだ、なんか、懐かしいにおいがする」

「外用だから、汗と土のにおいだろ」

「体育以外は、外でしてました」

ストリート、と呼べるほどではない。学校が終わったらグラウンドで、公園で、鬼ごっこをするみたいな感覚で仲間に入れてもらっていただけ。それを、やっていた、というのは失礼な話だったかもしれないと気づいたけれどもう遅い。渡されたボールを胸に抱えてから思いきって地面に落とすと、タン、と心地良い音とともに再びてのひらに帰ってきた。

櫂先輩がゆらりと僕の前に立ち、軽く手を翳す。それだけで、シュートなんて絶対入らないと思わせるほどの威圧感に思わず一歩下がってしまった。

「トラベリング」

「えっ、そういうの無しにしてください」

日の暮れた空と櫂先輩の髪の毛が解け合って、その向こうのゴールがじわりと滲む。思いきってドリブルをしてみると、目の前の先輩が楽しそうに口元を緩めた。
それに胸が締め付けられた理由は分からないけれど。汗をかいて土に手を汚してやったバスケはとても楽しかった。見たかった映画より、ずっと心に残るもののような気がした。

「あ、」

「あっ!」

もうそろそろお腹もすいたし暗いし最後にしようと言った直後、僕が放ったボールは不格好にボードに当たって、リングの縁をくるりと一周してネットを揺らした。

「入った!」

「俺の負けかー」

疲れたと、その場に座り込む櫂先輩に、僕は拾ったボールを投げ渡した。

「また、すればいいのに」

「は、」

「そしたらもう負けないと思います」

汚れちゃったんで靴下脱いで上がらせてもらいますと、顔を見ないように背中を向けて続ける。馬鹿、前にも同じことを聞いて、もうしないよと言われたじゃないか。どうしよう、と俯くと後ろから体当たりされるみたいに抱き締められた。熱くて、ドキドキしていて、汗の匂いがして、僕はとても重いと思ったことを、口にしてしまったと気づいて慌てて目を閉じた。


「決意」




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