春休み、櫂先輩のバイト先に足を運んだ。高校生大学生働いている人。男の人も女の人も、いろんな人が居て、光と音で頭がチカチカした。その中で櫂先輩を見つけることはできなかった。
蜜の味
「え、ここ櫂先輩のバイトしてるとこだ」
「え、そうなの?」
春休みに入って二日目、関谷くんから遊びのお誘いをもらった。昼過ぎに学校近くのファミレスで待ち合わせ、やってきた彼は中学の友達がライブをするからと譲り受けたらしいチケットを差し出した。そこには何度か見かけた看板と同じ文字が並んでいて。僕は二つ返事で首を縦に振った。ライブについてはよく分からないけれど、そういう場所に行ったことがない身として、普通にドキドキワクワクしたのも本当。ただ、一番の理由はそこが櫂先輩のバイト先だから、というもので。
「え、高梨櫂ってここでバイトしてんの?」
「うん。今日もバイト行ってると思うけど」
「ふーん…」
「なりなり会長はそこで見たことないよ」
「はっ、聞いてねぇって、」
「へへ、ごめん」
そうしたやり取りのあと少し街をぶらっとして、目的の場所へ向かった。暗くなり始めた中で、お店の看板は白い文字を浮き上がらせていて、櫂先輩に会えるだろうかと一人勝手にうきうきしていた。けれど、そんな期待に反して僕が先輩を見つけることはなかった。
「糸井、大丈夫?」
「へ?」
「すっげー疲れてない?」
「ううん、楽しかったよ。関谷くんの友達が一番よかった」
唯一知っている曲を演奏していたからかもしれない。同世代の人たちだし、人気のあるバンドの有名な曲だったから。他の人たちの演奏はそういうのに疎い自分にはあまり分からなかった。それでも櫂先輩に会えなかったことを除いては、なかなかに楽しかった。
「高梨櫂いた?」
「んーん、見かけなかった」
ライブが終わった店内は賑やかにみんながお喋りをしていたり飲み物を飲んだりして、熱気が籠っていた。煙たいのか光の所為なのか、視界も僅かにぼやけている中、関谷くんが腕を引いてくれてカウンターにたどり着く。入り口でもらったドリンクチケットでウーロン茶をもらい、一口含んで喉が乾いていたことに気づいた。
「あれかな、照明とか。裏で飲み物の補充とか」
「かな、」
流石に、ここにいるのに見つけられない、ということはないからそういうことをしているのかもしれない。あの大きな体が、この中で見つけられないというのはないなと、わりと本気で思ったから。
「そろそろ帰る?」
「え、でも関谷くん友達と─」
何人かが関谷くんに軽く手を振っていて、そちらに視線を向けながら喋ると、その集団の向こうに櫂先輩が見えた。
「櫂先輩だ」
「ほんとだ。でけーな、やっぱ目立つわ」
Tシャツに軍手、暑くて脱いだのか、上着が腰に巻き付けられている。ステージ上のものを手際よく片付けるのを眺める僕の横で、関谷くんは友達と軽く言葉を交わしていた。
櫂先輩ともう一人がすべて片付け終えると、ふっと先輩がこっちを振り返った。そしてすぐに僕に気づいたのか「あっ」と驚いた顔をした。
話しかけようか迷う僕に、櫂先輩は一旦背を向けてもう一人の人と何か言葉を交わした。それからもう一度僕を見て、軽く手招きをした。
「誰と来てんの」
「関谷くん。友達が今日ライブするって」
「あ、ほんとだ」
関谷くんの存在を確認した先輩は、「来るって言えば良かったのに」と言って僕の頭を軽く撫でた。大きな手にあった軍手はその片方だけ外されていて、それでもあまり綺麗じゃないと思ったのかすぐに離れてしまった。
「もう帰る?」
「あ、えーっと…」
「関谷と帰んの?」
「途中までは…そのつもりです」
「俺もう終わるけど、待ってる?」
「え、いいんですか」
「逆になんで」と、軽く笑った顔にどきりとしつつ、関谷くんにその旨を伝えると快く了承してくれた。関谷くんとしても、まだここにいたいだろうし、その方が良かったかもしれないなと、一人納得して櫂先輩が帰ろうと言うのを待った。
少し待って、出てきた櫂先輩に駆け寄ろうと思ったけれどそれより先に他の人が行く手を遮った。上着を着て鞄を持った先輩はもう完全に帰れる状態なのに、それを見つけた女の子が数人声をかけたのだ。はっとして、少し前に櫂先輩に女の子が会いに来ていたことがあったなと思い出して胸がぎゅっとした。
「櫂くんもう終わったの?」
「ちょっと一緒に飲もうよ」
めんどくさそうにしているけれど、あれが標準モードだと知っている人ならば気にしない。腕を掴まれ少し強引にカウンターの方へ引かれるのをボーッと見ていたら、思いきり櫂先輩と目があってなんとなく逸らしてしまった。あ、と思ったときにはもう遅くて、櫂先輩の体は女の子の方へ揺れた。
「櫂くん今春休みだよね?今度バーベキューするんだけどおいでよ」
「櫂くんの知り合いもくるしさ、どう?」
「あの─」
「とりあえず飲も飲も。あ、未成年は出してもらえないからソフトドリンクしかないか」
「人、待たせてるんで」
「あっ、」
やんわりと女の人の手を解き、櫂先輩はゆっくり僕の方へ歩いてきた。けれどその足が止まることはなく、手を掴まれただけで声もかけられないままお店を出た。
「あの、櫂先輩…」
無言の櫂先輩に促され自転車の荷台をまたぐと、それはすぐに走り出した。無口なのはいつものことなのに…そう思って目の前の背中にきつく抱きつく。暖かくて広い背中、櫂先輩の背中。すると「寒い?」と、なんともいつも通りの声が返ってきた。
「え、あ、少し…でも大丈夫です」
「そ」
「…あの、櫂先輩?」
「ん?」
「怒って、ないんですか」
「それ、つぐみじゃないの」
「えっ、」
あれ、そうだっけ…なんで僕が…
あ、目を逸らしたからだろうか。櫂先輩が女の子に群がられてるのを見て。もちろん嫌だとは思ったけど、怒っては…
「つぐみ、ついた」
「あっ、はい」
促されるまま荷台を降り、恐る恐る櫂先輩の顔を見上げた。そこにはいつも通りの顔があって、けれど櫂先輩も寒かったのか耳と鼻の頭が少し赤い。櫂先輩の背中で風から逃れ、おまけに抱きついていた自分より、ずっと寒かったはずだ。
「ありがとうございました…」
「来るって言えばよかったのに」
「すみません、急だったから」
怒ってはなさそう、だけど…そうだ、僕が勝手にやきもちを妬いて目を逸らしたから、逆に僕が怒ってると思われてるのか。
「あの、櫂先輩」
「ん?」
「……春休みの間、会えないですか?」
見つめていた目が驚いたように少し大きくなり、すぐに頭を撫でられた。改めて言うことか、と少し微笑みながら。改めて言わないと不安だったのは事実で、さっきも櫂先輩が女の子に声をかけられているだけで嫉妬してしまった。素直にそう伝えれば、呆れたように今度は髪をぐじゃぐじゃにされた。
「また、櫂先輩の家も、行きたいです」
「ああ」
「じゃあ、気を付けて、ください」
「うん」
櫂先輩のこと見送りたかったけど、早く中入れと催促され、仕方なく数歩下がって玄関のドアに手をかける。帰ろうとする櫂先輩が名残惜しくて、思わず「あの、」とまた声をかけてしまった。
「ん?」
キッ、とブレーキを掛ける音が静かに響き、僕は駆け寄って自分の首に巻いていたマフラーを櫂先輩の首に回した。
「寒い、から」
「…サンキュ」
「じゃあ、おや─」
すみ、と続く言葉を櫂先輩の唇に飲み込まれ、一瞬触れただけのそれを目で追う。けれどすぐに離れたそれは「おやすみ」と言い残して行ってしまった。
冷えた唇、少し掠れた声、嗅ぎ慣れないバイトの後の先輩のにおい、全部が櫂先輩の痕跡になって染み付いたみたいだった。
「嫉妬の味は」
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