ゾロの瞳は唐突に眠りから覚めた。悪い夢を見たのでも、誰かに叩き起こされたわけでもない。少し寝過ぎたと、起きたばかりの頭で冷静に物を考えられるくらいすっきりとした目覚めだ。眠気が残っていないのは充分な睡眠を確保出来たからだろう。何の死角もない展望台の窓から、溢れんばかりの陽光が差し込んでいた。
 冷たい鉄の絨毯に手をついて起き上がる。自分以外の誰もいない展望台から甲板を見下ろすと、芝生の上でチョッパーとルフィとブルックがおやつとおぼしきドーナツを頬張っている。そこからメインマスト下に視線を移せば、ロビンが小さなじょうろを片手に花壇の手入れをしていて、そのわきでフランキーとウソップが工具と製図を広げて何やら開発中の様子が見てとれた。
 ゾロは頭を一つ掻いて、床に落ちていたタオルを拾い肩に掛ける。そろそろ夕飯だろう。口うるさいコックに起こされる前に此処を撤退することにする。鍛練の名残でべたつく肌をシャワーで流したいし、そうする時間はまだあるはずだ。陽はまだ高いし、何しろまだおやつを食っている輩がいるような時間帯だ。転がっているダンベルはそのままにして、ロープをつたってフォアマストを下りた。凪ぐ風は夕方とは思えないほど爽快に若草色を揺らす。
 降下してきたその足音に、芝生で転がっていた三人の視線が集まる。食べかすを口元に残しながら、ルフィが大口を開けて笑った。

「おーいゾロ! おまえやっと起きたのか!」

「おはようございますゾロさん! なかなか起きてこないので私もう心配で! 今にも胸が張り裂けそうで! あ! 私 裂ける胸ないんですけどー!」

「ゾロー! ドーナツ食べるか!?」

「…怠惰にも程があるな。そりゃ一体なんの遊びだ。芝生の手入れでも兼ねてんのか?」

 起き上がるのも億劫なのか、はたまた芝生に転がる自体が一種の遊びになっているのか、ごろごろと体を横に回転させてこちらに寄ってくる三人を一瞥してから、彼らと完全に足下までの距離が縮まるのを待つでもなく、ゾロはそのわきを通り抜けることにする。自分は船尾の大浴場を目指している。ドーナツもいいが、それより欲しいのは風呂上がりの最高に美味い一杯。食べ掛けを差し出してきた小さな蹄に、おまえが食えと促してやった。

「…こんな時間から風呂に入るのか? ナミみてェだな」

 それならば遠慮なく、と金色に輝くおやつを一口で口内に収めたチョッパーが頬を膨らませながら言った。
 こんな時間に? だってもう夕刻だろう。
 普段は真夜中に入ることが多いので、珍しいという意味での「こんな時間に」だろうか。
なぜチョッパーが頭にはてなを浮かべるのかが分からず、ゾロもまた同じようにはてなを浮かべて大浴場に足を進めた。背後で迷子になるなよ! と余計な心配を叫ぶ声があったが、律儀に応えることは勿論しなかった。


 図書室の扉を開くと測量机上に本を山積みにし、眼鏡をかけたナミがいた。開いたドアに気をとられてこちらに顔を上げる。そしてゾロの顔を見るなり口元を戦慄かせて、両手で机を叩くタイミングで勢い良く起立した。その勢いのあまり、机から三冊ほど本が床に落下する。

「っ…あんた! ようやく起きたのね!?」

「…?」

 彼女は乱暴に眼鏡を外し、それを机の上に放り投げると、大股でゾロの元へ近づいてきた。
そういえばさっきのルフィ達にも同じようなことを言われたけれど、ようやくも何も自分はそんなに長い間眠っていたつもりはない。図書室にも申し分なく降り注ぐ太陽は、その高さも日差しの強さも眠る前とそう変わっていない。寝過ぎた感は確かに自分でも感じていたけれど、人にとやかく言われるほどの惰眠を貪ったつもりはないのだが。

「なんだってんだおまえまで。おれが用あんのはおまえじゃなくこの上だ」

「バカ! お風呂なんて後にしなさいよ! 今すぐダイニングに行って、サンジ君に謝りなさい!」

 ここでコックの名前だ。ますます意味がわからない。露骨に面倒臭そうに顔をしかめたゾロに対峙して、ナミは彼と大浴場への梯子の間で仁王立ちの姿勢をとった。

「今日は晩飯にも遅れてねーだろ。おれがマユゲに申し開きする理由がねェ」

「…理由ですって? あんたホントにホントのバカね! 夕飯どころか朝食にだって顔出さないで!」

 ナミは地団駄を踏みそうな勢いで早口に捲し立てた。それでもわからないという顔をするゾロに、人差し指を突き立てる。

「この太陽はね、もうとっくに西に沈んで東からまた昇ってんの! 方向音痴のあんたには方角なんて分かんないでしょうけど、つまりあんたは昨日の夕方から寝てばっかり。現在の時刻は午前11時を回ってます!」

「なにっ…!?」

 突き付けられた事実にゾロが目を見開く。鍛練の休憩中にうとうとと居眠りをしただけのつもりが、なんてことだ。すっかり陽は沈んで、夜は更けた。それが白んで朝になって。時計の短針は一周以上していたということだ。これには我ながら頭を抱えてしまう。ルフィ達に自分はなんて台詞を吐いていたんだろう。怠慢とは自分にこそ相応しいではないか。それに昨日は、昨日だけは晩飯に寝坊してはいけないと強く思っていた筈だった。

「…別にあんたがどんだけ寝ようが私には関係ないけど、なんでよりによって昨日なの?」

 ナミは嫌味も甚だしく溜め息を吐いてみせた。彼女の言うことは最もで、ゾロは額に青筋を立て、強く口を引き結ぶ。思わずギリリと歯軋りを立てていた。

「起こしゃよかっただろ! いつもみてェに!」

「だってサンジ君が放っておけって言うんだもん! あんたがあんまり気持ち良さそうに寝てるから!…宴の主役にそう言われたら、私たちは誕生日を祝ってあげることしか出来ないじゃない…」

 別にマリモ一匹足りないところで支障はないさと微笑んだサンジがナミの脳裏に浮かぶ。本当にそうだろうか。昨夜の宴を本心から楽しんでくれただろうか。
一流コックの腕には遥かに劣るだろうけど、皆で悪戦苦闘しながら宴のコースを考えた。キッチンでてんやわんやする自分たちを、サンジは時に怒声で叱咤し、時に苦笑いで見守っていたが、ダイニングテーブルの上の灰皿にはこぼれ落ちる量の吸殻が溜まっていた。時々キッチンから視線を逸らして何かを考えるような素振りをしていた。それは出来上がった歪な、けれど皆の愛情が込められた料理たちを芝生甲板に運んで宴を催していた最中にも度々見られた。心此処に在らずの表情を、ナミと、それからロビンとブルックが盗み見ていた。
 クソ、と一言絞り出したゾロは項垂れてしまったナミに背を向け、乱暴な足取りで図書室を後にする。一目で虫の居所が悪いのだろうと分かるオーラを振り撒いていた。そのオーラをメインマスト下の三人も感じ取り、図書室から出てきたゾロがわきを通っていくのを視線も逸らせずに黙って見送った。不機嫌な靴の音が足早に通りすぎた後、そのうちの男子二人はゴーグルとサングラスをしたまま顔を見合わせて首を傾げる。ロビンはそんな彼らとは対照的に、ダイニングに入っていった彼と、その中に居るであろう彼の心中をそれぞれ察し、少し困ったように微笑んで、アイスランドポピーの花びらを撫でた。


 勢い良く扉を開いたので、思いっきり目を剥いたサンジと視線が合った。ナミから聴いた話に勝手に憤るゾロの双眼は鋭く、それはほぼ睨みをきかせていると言っても過言ではない。
サンジは暫く彼の相貌を見つめていたが、別段、なんの表情も浮かべずにふいと視線を逸らし、手元で捏ねていたピザの生地に意識を戻す。

「…昼間っから何をそんなにカリカリしてんだ。ブルック見習って牛乳飲め。それとも煮干し出してやろうか?」

 捏ねて、台に打ち付ける。それをひたすら機械的に繰り返すサンジは、何を気負った風でもなく、実に堂々といつも通りの態度で調理に集中していた。その軽口に、昨日のことについて触れる気配は全く無い。それならそれでゾロにしてみれば大いに結構だが、自分にちょっと非があると感じてしまったからには、逆に突っ掛かってきてくれたりするほうがまだどさくさに紛れて非を認めることも出来ると思っていた。
 だが、サンジは普段通りだ。まだダイニングの入り口で佇むゾロを追い払うでもなく、かといってまるで無いものとして振る舞うでもなく、いつも通り、ただ自分の仕事を黙々とこなしていた。
 ゾロは更に眉間の皺を濃くしてキッチンのそばへ歩み寄る。態度には表れなくても、その瞳ならば何か本心が見え隠れしているのではないかと思った。気に留めていないならそれに越したことはない。ゾロはとにかく、早く自分がこのもやもやとした気分から逃れたくて、その真意の程を確かめる為にサンジのそばへ寄った。
 キッチンを挟んで目の前に立たれ、手元が陰ったのだろう。彼はすぐに顔を上げた。やっぱり睨むようなゾロがそこにいて、それを見たサンジが一拍子遅れてあァと呟いた。

「メシ、まだだっけか。そりゃ腹も空くわな。ドーナツならたんまりあるが…これで腹膨らませとくか?」

 昼食までにはもう少し時間が掛かるからと、手のひらに残る打ち粉をはたいて落としたサンジは、かごに入れていたドーナツを差し出した。
何を言うタイミングも掴めず、ゾロはサンジの予想外の行動に拍子抜けして、思わずその瞳を凝視した。そこには特別な感情は何一つとして見出だせない。喧嘩を吹っ掛ける時とも、意地悪く策略を練る時とも違う。ただ素直に、人の食事に対して気遣う、コックとしての配慮しかなかった。
 ゾロは、奪うようにかごを受け取り、ダイニングを出ていった。サンジはそれを黙って見つめて、広い背中が視界から消えると同時に、また打ち粉を手に取った。そして黙々と昼食の準備に取り掛かる。それはさながら邪念を振り払うかのようなスピードだったが、ここには彼の心の機微を察する者は誰一人として居なかった。






<<