花骸の糧
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「咲子(さくこ)・・・」


名を呼ぶ声が、虚しく反響する。
無人の部屋には春のあたたかな陽射しが差し込み、華美に欠けた内装を染め上げた。
年頃の娘にしては、あまりにも綺麗に整えられすぎた室内は、硯箱の筆一本さえ取っても、いつもの場所にきちんと納まっている。
ただ、彼女の存在だけがぽっかりと抜けていた。

けれど、彼女の姿が見当たらないのは、特に珍しいことでもない。
身体は弱いくせに、好奇心だけは人一倍旺盛な咲子は、周りの目を盗んでは部屋を抜け出した。
だが、それを黙認する女房たちも、飼われた猫のように自由気ままに屋敷を闊歩する彼女のことも、責めることは出来ない。
なにより、彼女に最初に「散歩」を教えたのは、幼い日の彼自身であった。

母親に連れられて見舞いにやって来たものの、部屋の中でじっとしながらお喋りに興じるのは、遊びたい盛りの少年には耐え難い苦痛だった。何度も挫折しては、外を物珍しげに眺めている彼女を連れ立って駆け回った。
時には広い屋敷の中で途方もない隠れ鬼も実行した。


まさかこの年になってまで、彼女を探す破目になるとは思わなかったけれど。


「まったく、世話がやける」


答える声も、その姿もそこにはない。それでも、長年、焚き染められた彼女の香りだけが僅かではあるが柱や調度品に染み付いていた。夜の闇に溶ける梅花の如く、甘い香りが鼻先をくすぐる。
けれど、その慣れ親しんだ香りさえ、彼女がいない今は不安を掻き立てるものでしかなかった。
そして、そのときになって、ようやく、もうひとつの違和感に気づいた。


(猫が、見当たらない・・・)


女房よりも真っ先に転がり出てはじゃれつく小さな存在が、今日に限って一度も姿を見せていなかった。
その欠落が、堰き止められない恐怖となって、彼の四肢を動かす。
御簾が大きく翻り、まるで悲鳴のように鳴り響いたが、それに構っている余裕などなかった。
ただただ、不安は恐怖となり、そして確信へと変わって彼を蝕んでいく。


(――猫は、死に場所を探して、姿を消す・・・)


その姿が彼女の儚い微笑と重なって、喉元を苦いものが込上げる。
それでも、言葉にすれば何もかも壊れてしまいそうで、彼は唇をきつく噛んだ。
認めてしまうのが怖くて、もがくように彼女の姿を探した。いつもと変わらないはずの静寂さえ、今は警鐘のように耳を劈(つんざ)く。



――わたくし、死ぬ前に一度、あなたと恋がしてみたいのです・・・。



彼女の声が、甦る。
真白に染まる世界が、懐かしい記憶をなぞり始めた。


***



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