君、こふ
 

 暦では春を迎えていたが、夜の帳もおり一日を終えて新たに始まる子の刻程にもなると、空気はひんやりと冷えて冴え返る。

 墨染めの空に浮かぶのは、ぼんやりと霞んだ朧月。その月光は、大地を照らすにはあまりにも頼りない。

 そんな月光に照らされる木々もぼんやりと霞んでいるようで、それは水分をたっぷり含んだ料紙に描いた墨絵のような景色だった。

 逢瀬の囁きも途絶え、誰もが深い眠りに落ちた頃、少女は静かに寝所から出た。衾としていた綿入りの大袿を肩に引っ掛け、枕元で微かな明かりを揺らしていた灯篭を手に、静々と廂の方へと向かう。

(塗籠から、一……二……三本目の柱が目印。其処にかかった御簾の向こうが、彼女の局)

 母屋を取り巻く廊下のような廂を、几帳や屏風で仕切って設けた小部屋“局”。その内の一つに少女は身を滑らせると、辺りをざっと見回した。小奇麗に片づけられた室内には人の姿は無い。

 両隣の局からは寝息が聞こえる。その向こう側からも明かりの漏れている気配はない。皆、就寝したようだ。

 それを確認した少女は、手早く準備に取り掛かった。

 薫物を焚く準備に。

 少女は『登華殿の女御』と呼ばれていた。

 女御、即ち帝の妃である。

 帝の御座所“内裏”にある殿舎の一つ“登華殿”を賜っている事から、そう呼ばれるようになった。

 帝の叔父宮の娘、帝とは従兄妹という秀でた血筋の登華殿の女御は、他の妃に先立って帝がまだ東宮の折からその座に着いていた。

 しかし、それだけだった……

 帝に寵愛されているというわけでもなく、ただ内裏に住んでいるだけ。

 それは彼女だけではなく、他の妃も同様だった。

 登華殿の女御に続くように、大臣たちの姫君方が妃として入内したが、登華殿の女御を含めたいずれの妃たちも、帝の生活の場である清涼殿から離れた殿舎を賜り、夜のお召しも婚儀の時以来ご無沙汰になっているのだ。

 そんな帝の様から、「帝は男女関係に淡白な方なのだろうか?」「帝は清涼殿近くの殿舎に男の童でも飼っているのではないだろうか?」と恐れ多い噂がたった事もあったが、それらは誤解だという事を女御はよくよく理解していた。



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