陽の下に、篝火ともし
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 たらいに張られた水に手を浸すと、ひんやりとした刺激が伝わってきた。少し顔をしかめ、ばしゃばしゃと顔を洗う。それに交じって女房達が格子を上げる音がして、薄明かりが室内に射し込んでくる。遠くに見える空には少し雲がかかっているものの、透明感のある水色だった。その淡さに冬の寒々しさを見いだし、秀任(ひでとう)は少しばかり眉を寄せる。
 指貫(さしぬき)を穿き、下襲(したがさね)を身に着けているところで微かな物音に気づいた。妻戸が開けられた音だ。ややして、さらさらと静かな音が近づいてくる。壁代(かべしろ)が上げられ、几帳の影から妙齢の女性が現れると、格子を上げていた女房たちは一様に動きを止めた。
「北の方様、おはようございます」
 女性は癖のついた髪を揺らしながらこちらにやってくる。きちんと着こんだ装束には快い香のかおりが焚きしめられているようで、彼女が身動きするごとにふわりと鼻孔がくすぐられた。女房達の挨拶に会釈で応じる妻に対し、秀任はそっけない口調で投げかける。



「……まだ寝ていて構わないというのに」
「夫が出仕するというのに、わたくしが眠っていては皆に示しがつきませんもの」
 昨夜も先に休ませて頂いたことですし、と理子(まさこ)はこともなげに返す。傍らの女房から袍を受け取ると、秀任の背後に回り込んだ。そのまま着替えを手伝い始める。秀任は唇を引き結び、広げられた袖に腕を通した。理子が帯の締め具合を調節し始めた辺りで、秀任は言い慣れた一言を口にする。
「今宵は宿直だから、お前は早く休んでおけ」
「あら」
 理子は帯から視線を外さずに答える。
「ここのところ頻繁ですのね。お忙しいんですの?」
「まあ、そうだな」
 近頃譲位の噂もあるし、と続けようとしてやめる。女相手に仕事の話をするのは好まないし、まだ本決定でないことを軽々しく口外することへの躊躇いもあった。微妙に歯切れの悪い夫のことは気に留めず、理子は何気なく指を折り始める。
「昨夜はお勤めで遅かったですし、一昨日は東宮様のお召し。その前は……」
 ふと考え込むような間が空く。同じように記憶を辿っていた秀任は、その晩何をしていたかを思い出し、少しばかり後悔した。
「……仕方ないだろう。あちらも、初産で心細がっている」
「別に何も言ってませんわよ」
 くすくすと笑い声が聞こえるが、何となく後ろめたくてその顔つきを確認する気になれない。正妻は彼女であるとはいえ、あちらにしたって正式に妻として遇しているわけだから、罪悪感を覚える必要はないはずなのだが。



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