軌跡

45 清けし声を灰色の空に秘めて 3/6 


 ──夢を見た。

 肌を舐めるように撫でていく、焔の夢だった。赤く、紅く、時には影のように黒く、昏く。揺らめき、漣を立てて溶けていく焔の夢だった。
 この白い腕をまるで優しく、まるで乱暴に、慈しむようにも蹂躙するかのようにも取れる不器用さで取り巻く、焔の夢だった。

 融けるのだろうと思った。この身を燃やし、焦がして、熔かしてしまえるのは、唯一その焔だけと知っていたから。
 けれど同時に、その焔から熱を奪い、微かな灯火すらも凍て付かせ、深い暗闇の中に鎮められるのも唯一自分だけだ。そう知っている。

 知っている、から、だからこそ──

「……──、」

 夢を見たのだ。喘ぐように、その名を呟いて意識が覚醒した。くらくらと脳を浸す靄が晴れてくれない。

「…………折角、こんな場所で寝てるのになぁ」

 心配するクラスメイトらを誤魔化して笑って撒きながら、やって来た甲板の隅に敷き詰めた毛布の上で身体を起こす。
 雲も突き抜けた空の上は、夜になると随分と冷える。ふ、と頬を撫でた風は随分と凍えたもので、その名残りを惜しむように跡を指でなぞった。

 眠りの中で無意識に呼んでいた名前を唇だけで呟いてみる。
 本当なら、名乗られてもいない“それ”を知ることなどないはずなのに。それが、誰を指す言葉なのかも分からないはずなのに。言葉とイメージは不思議なまでに脳裏にこびり付いて、一つの像として姿を示す。
 あの、浅葱の髪の男の姿を。

「………………気持ち悪い」

 まるで自分が自分ではないような、そんな心地だった。違う、本当は、ここに居る自分が“自分”ではないのだろう。

 横になって、目を閉じて、息を吐く。一度吐き出した溜息も、もう一度喰らって呑み込んでしまったのなら誰の目にも触れることはない。
 だからまだ、“私”は“レイチェル・ラウィーニア”だ。細い腕で身体を抱き込み、身を丸めて呟く。それが願望でしかないとしたって、それを願望として見つめ続けることは許されても良いはずなのだから。





「おはようレイチェル。って、随分顔色が悪いわね……」
「やはり甲板で寝るのは身体に悪いのではないか?」
「ってか、これはそういう寝不足っていうよりも」
「…………気分悪い…………」
「なんとなく想像はついてたけどねー」

 起床時間になり、毛布を抱えながら艦内に入ったレイチェルを迎えたのは、昨日再会したばかりのクラスメイトの女子達だった。

 一歩中に足を踏み入れただけでたちまち襲ってきた体調不良は、たった1ヶ月程度の空白では彼女らの日常からは外れはしなかった様子で。項垂れたレイチェルへと、それぞれが手慣れた様子で対応を行なってくれる。
 鉛のように重たく感じていた毛布をラウラは取り上げ、アリサに近くの椅子へ座るよう促され。エマが隣に掛けて熱を測る間に、フィーが水を汲みにラウンジへと向かい、ミリアムは周囲で心配の言葉をやんやと騒ぐ。うん、いつもの実習風景に中々近い光景だ。ぐるぐると回る頭を抱えながら、レイチェルもいつもの通りに項垂れた。

 昨日は会議の後、そのまま解散と相成った。時間としてももう早いとは言えない時分だったから、致し方がないと言えるだろう。
 その時に簡単に告げられた予定は、今日の昼にオリビエらは下船して西部へと向かうこと。Z組らは今日一日は休息日として、明日15日から本格的に行動を開始するということだ。
 だからまぁ、多少体調が悪くとも、今日のうちは特に問題はない。やる事は下船する面々の見送りだけなので。

「はい、水持ってきたよ」

 コップに一杯、持って戻ってきたフィーから受け取って一気に飲み干す。すぐに無くなった、と思えば彼女のもう片方の手にもコップがあった。さすが、よく分かっているなと感心しながら、空になったものと交換してそちらも受け取る。

「朝ご飯、どうするの? この調子じゃラウンジで食べるのは無理そうね……」
「甲板で食べるのも、ピクニックみたいで楽しそうだけどねー」
「……ピクニックってそういうものだっけ?」

 けれど実際のところ、今日は甲板での朝食になりそうだ。というか、今後結構な割合でそうなると思う。途切れ途切れに応えると、目の前の彼女らは皆、一様に顔を顰めてみせた。

「とはいえ、今後このカレイジャスで行動をするからには、ずっと外に出ておくわけにいくまい」
「せめて酔い止めを調達した方が良いわね。とりあえず、今日のうちにどこかの教会へ行きましょ」
「うん。それが良いだろう」
「いえ」

 迫り上がってくる胃液を抑えるレイチェルが口を挟む間もなく、トントンと話を進めていたアリサとラウラを短い言葉と挙手を以って止めたのは、脈を測るために添えていた指を離したばかりのエマだった。

「折角なので、私が調合してみます。実は前々から、レイチェルさんの症状に合わせたものを考えていたので」
「そうだったの?」

 それは真実であり、嘘だ。本当の中に織り交ぜた言葉は、決して見破られることもなく級友らの納得と共に飲み込まれた。

「なら、エマに任せておこうかしら」
「教会でポンと出されるのより、魔女のお手製の方が効きそうだしね」

 魔女か。そういえば、昨日聞いて結局そのままになっていたワードだ。確かに、よく分からないけれど効きそうな薬を作ってくれそうだし、なんならその効果は既に体験済みでもある。
 頷くだけで今の提案に自分の意思を示したレイチェルに、アリサらも頷いた。

「朝ご飯は外で食べましょうか、レイチェルさん」
「…………」
「なら、外に出て待っていてください。すぐに持って行きますね」

 もう一度頷くと、尋ねたエマはテキパキとレイチェルを立ち上がらせて、外に続く扉の方へと背中を押した。
 素直に従った背後で、地面に座る時に敷くためにラウラから毛布を受け取ったエマは、「問診も兼ねて、私“が”レイチェルさんと朝食を摂りますね」と、一方的なまでに話の蹴りを付けてラウンジの方へと向かっていた。

 甲板に出て、深呼吸をする。少しだけ、気分はマシになった気がする。本当に分かりやすい体調不良だ。
 溜息を吐く間に、エマが盆に軽食のプレートを2皿乗せて現れた。思っていたより早かったと呟けば、他の面々が用意を手伝ってくれたと返ってくる。なるほどと納得して、レイチェルは彼女が小脇に抱えていた毛布を取り上げて、地面に敷くことにした。さすがに、甲斐甲斐しく世話をされすぎるのも申し訳ないので、これくらいは自分でしようと思った次第である。

 朝食は、具沢山でバリエーションも豊富なサンドイッチだ。たまごサンド、ハムサンド、ツナサンド。トマトが挟まっているのもある。フルーツサンドは最後のお楽しみと算段を立てて、まずはツナに手を伸ばすことにした。
 エマは、たまごサンドから食べるらしい。互いに一口齧って、小さな歯形が付いたそれを持ちながら、先にレイチェルが口を開いた。

「ごめん、薬は持ってた分、全部飲み切った」
「……いえ、この状況では仕方がなかったと思います」
「逆にこうなることが分かってて渡したとか」
「残念ながら、私には未来視の魔法は使えないので……」

 じゃあ偶然であの状況か。それはそれで、逆に勘が冴え渡りすぎて凄いと思う。

「けれど何かが起こるだろうと思ってはいたんです。……まさか、こんな事になるとは想像もしていませんでしたが」

 振り返ったエマのレンズの向こうの青い目が、真っ直ぐにレイチェルを見つめる。何かを咎めるような色だと思ったなら、続いた声はやはり非難めいた響きを持っていた。
 レイチェルさんは、と。それは呼び掛けと共に投げかけられた。

「クロウさんのこと、気が付いていたんですね」
「あんな凄いのに乗れるのは知らなかったけど」
「それでも、《C》の正体は知っていた?」
「……どうだろ」

 もう一度名前を呼ばれる。今度は非難というより、怒気の方が強いと感じた。促されて、肩を竦める。サンドイッチを先より大きな口で齧って、それをようやく飲み下してからレイチェルは口を開いた。

「何かを隠してたのは、知ってた。別に知りたいなんて思わなかったのにな」

 嘘ではない。本当なら、隠し事など気取らずに居たかった。秘密など見られずに過ごしたかった。そうしたら、もう少し穏やかに──きっと学院祭の時と同じような時間を、ずっと過ごせたはずなのに。

「もしかして、8月の実習で戦術リンクが結べなくなったのは……」
「姿、見られたのは本当。けど、より不味い物を見られたのは私よりもクロウの方だった」
「……どうして話してくれなかったんですか?」

 低い声は、やはり怒っているようだった。確かに、怒るのは尤もだ。

 エマなら──曰く“魔女”だなんて普通ではない身の上の彼女なら、レイチェルが見て聞いた海の“話”を信憑性のある現実として受け止めてくれていた。
 そしてレイチェルがエマや他の誰かにこの事を伝えていたなら、彼の凶行を止める方法を共に探す事だってできたかもしれない。そうしたなら、内戦だって起こらなかった。Z組はきっと今も平穏に……クロウだけを欠いた教室で授業を受けていた。
 けれどそれだけではなくて、彼女は純粋にクラスメイトであるレイチェルのことを心配していた。自惚れではなく、このクラスは苦しむ誰かを放ってはおけないお人好しの集まりだから。1人で陰謀の一端を垣間見た苦悩を、分け合いたいと願ってくれたのだろう。

 全てを分かっていてなお、レイチェルは「なんでかなぁ」と、ぼんやりとした声で呟くことしかできなかった。
 巻き込まれるのは、自分だけで十分だと思ったのだ。わざわざ彼女まで危険に晒す必要はない。──クロウの秘密を知って、その敵意を向けられるのは自分1人で良いのだと。それで良かったと。
 何も知らずに過ごしたかったなんてさっき回想したばかりなのに。随分と、思考が矛盾しているなと、思った。

「……とにかく」

 息を吐いたエマは、やはりレイチェルを見つめている。サンドイッチ、食べないのかな。そんなことを考えるレイチェルもまだ、二口しか食べてはいないけれど。

「これからは、1人で抱え込むのはやめてください。身体のことも……せめて私には教えて欲しいんです」

 霊力は、前よりずっと強くなっているのだろう。自覚だってしているくらいだ。エマに分からないはずなどない。

「心配なんです。レイチェルさんのことが」

 彼女のその目に、今の“レイチェル”はどのように映っているのだろう。醜い化け物には、まだ辛うじて見えてはいなければいいけれど。
 へらと笑って「これからは酔い止めもよろしく、エマ先生」と言うと、面倒見の良いクラス委員長は少し呆れたように首を振ってから、首肯した。

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