軌跡

45 清けし声を灰色の空に秘めて 1/6 


 緋の色を纏ったその船は、真っ青な空に白い軌跡を描きながら、向かうべき進路へと直走っている。
 無事にパンダグリュエルを脱出し、その警戒空域から外れた後は、現在ノルティア州上空の雲海を航行しているようだ──と、レイチェルは1人佇んだ甲板から、遠い空を見つめた。

 ひとまず、例の《灰の騎神》とやらを船倉に格納しに行ったクラスメイトらについて行くこともなく、何故、どうして1人でこんな場所に──と問われたなら理由は簡単。酔うからだ。
 だって酔い止めはもう無いし、中に入ったなら瞬く間に大変なことになるのは目に見えているし。人も沢山いるなら、わざわざ自分まで付き添って船倉に赴く必要もないだろう。

 そう、我ながら賢明に状況判断したからこそだ。なんて。

「…………言い訳かな」

 欄干に肘をついて、呟いてみた。吐き出した溜息が広い青空に溶け出すと、それは瞬く間に希釈されて意味を失う。
 憂いも解ける。ような気がする。もう一度だけ息を吐いて、目を伏せた。

「レイ!」

 背後から聞こえてきたのは、自動扉が開閉する特有の機械音と、それを掻き消すほどに大きな青年の声だった。
 多分、そのうち来るだろうと思っていた……思ったよりは、早かったけれど。レイチェルが反応して振り返るより先に、背中に人の温もりを感じた。体の前方に回る、赤い服の袖──誰のものかなんて、わざわざ問う必要もない。
 背後から抱きしめてくるその行動に応えるように、レイチェルはその手に自分のものを重ねた。そして優しい温もりを感じるように軽く撫でて、輪郭を確かめる。

「久しぶりだな、リィ」
「っ……心配したんだからな」
「その台詞、そのまま返すよ」

 まぁ、彼を逃すためにレイチェルは動いたのだから、無事を信じてはいたけれど。帝国時報で一足先に安否は知っていたし、パンダグリュエルでも様子はずっと観察していたし──そう考えると、そのまま返すには心配の天秤は釣り合わないか。
 この一瞬でレイチェルが至ったのと同じ結論をリィンも見出したようで。その気配が、ほんの少し苛立たしげなものに変わった。不満げな声が低く、抗議の言葉を音にする。

「……あの日は朝から姿が見えなくて。やっと会えたと思ったら、俺を逃すなんて言うし」

 あの日、と言えば、宰相の演説の日のことだろう。そういえば、誰にも何も言わずに授業をサボったんだったか。確かに、それは少し勝手をしたかもしれない。

「ヴァリマールも、お前のことを検知してくれなくて」

 ヴァリマールって誰? と、この場で聞くのは空気が読めていない気がしたからやめた。居場所の検知が出来るようなすごい人物と知り合いになったんだな……と納得しつつ、小さく震えているその腕を宥めるように撫でる。

「ついさっきも、振り返ってみたらレイだけ居ないから……どこかに消えてしまったんじゃないかって」
「うーん……それはほら、酔うから」
「…………まぁ、確かにそう言われたら納得するけど」

 でも一言くらい声を掛けたらいいだろ、と言われると謝る以外の選択肢がない。思わず竦めた肩をなおも強く抱き寄せられながら、「ごめん」と小さく呟いた。
 遠い向こうまで、空が続いている。レイチェルはぼんやりとそれを見上げた。溶けた溜息など初めから存在していないかのように、蒼穹は翳りの一つもなくレイチェルを見下ろしていた。まるでそこに、全てを透かして見通すような意思が働いているのではないかと錯覚するほど、美しい空だ。

「あと、フィーから聞いたぞ。皆を逃すために無茶したらしいな?」
「うわ、本当に言いつけてるし」
「だって本気だったし」

 突然聞こえた第三者の声は、たった今名前が出たばかりの友人のものだ。
 抱きしめられたまま、唯一自由が利く首を動かして振り返ると、そこにはクラスメイト達の姿があった。じとりとした怒りに滲んだ目でこちらを見つめているフィーを先頭にして、他は安堵の微笑みを浮かべている者と──あと数名は呆れたような表情だろうか。

「あなた達って、こんな状況になっても相変わらず“それ”なのね……」

 それ、とは。一体なんなのだろう。身体を離したリィンと顔を見合わせて、首を傾げる。
 詳細はよく分からないけれど、こういうよく分からない事を言われるのは、学院の時にもよくある事だった。その証拠に、見合わせたリィンの表情は随分と見慣れたものではある。

 どうやらこれから、彼らはオリビエと情報交換も兼ねた作戦会議を行うとのことで。Z組の方針も含めて相談するのだから、レイチェルも参加する必要があるだろうと、その行方を探してくれていたらしい。
 正直、その会議が艦内のブリーフィングルームで行われるなら部屋の隅で寝込んでいる予定しかないので、放置しておいてくれても大差なかったと思うけど──なんて、あまりにも非協力的な思考はそっと胸に仕舞う。

 ……なんだろう。どうしても、頭の奥が気持ち悪くて仕方がない。

「後でゆっくり話そう。とにかく、また会えて良かった」

 微笑むクラスメイト達へ、改めて手を差し伸べたリィンへ。レイチェルも両の口角を吊り上げた笑顔の表情で頷いて見せたのだった。


清けしを灰の空に秘めて

←/


- ナノ -