『螺旋迷宮』と少しつながってます どこまでも続く深遠の淵。 今にも崩れそうな瓦礫の上で、恋人たちは固く抱き合ったまま睦言を交わす。 「何を考えているの?」 細い指先をそっと恋人の頬に這わせ、桜妃は囁くように告げた。 九具楽の漆黒の瞳は、彼女の姿を映していない。 それでも構わないと、胸に顔を埋め頬摺りを繰り返す。 「冷たいのね…あなたの体は」 考え事をしている時の九具楽は、呼び掛けにも無反応である。 その鋭利な美貌と相まって、まるで氷の彫像を抱いているようだ。 けれど桜妃はそんな時の彼も好きだった。移り気な彼女にとっては、彼の一途な性格は憧れでもある。 桜妃はいまだ、愛を知らない。 欲しいと思った相手はいたが、自分を見失ってしまうほど深く捕らえられたことはない。 だからこそ、九具楽の抱く情熱に憧れ、力を貸す気にもなったのだ。 主君…柘榴の妖主を唯一絶対の存在と定め、それ以外の何者にも心を砕くことがない九具楽。 自分もいつか彼のように、ただ一つの存在を愛しぬくことが出来たら…。 「九具楽」 名前を呼び、抱き締める腕に力をこめる。 九具楽は相変わらず物思いに耽っていたが、その顎にえいっと頭突きしてやると、端正な顔がようやくこちらを向いた。 「ああ…すまない、桜妃」 桜妃は肩を竦めた。 「また、うわの空ね。そんなに柘榴の君が心配?」 問い掛けながら、自分も人の事は言えないのだ、と思う。 こうして九具楽と戯れていても、やはり頭の隅では翡翠の君の事を案じている自分がいる。 『おいで、可愛い子』 あの悩ましげな肢体と繊細な指先で、桜妃を引き寄せ、足元に跪かせた強烈な美貌の妖主。 『いい子だね…桜妃』 彼女に頭を撫でられ、優しい言葉を掛けられることを想像しただけでこの身が震える。 桜妃にとって九具楽の存在はあくまでも協力者であって、命を懸けて尽くしたい相手ではなかった。 「いいや…あの方の気紛れは、今に始まった事ではないからな」 そう言った九具楽の秀麗な顔には、疲労が濃く現れており、桜妃の同情を誘った。 虚空城を留守にする事の多い主人に替わって、配下の者たちの統率をせねばならぬ身としては、実際体が幾つあっても足りないところだろう。 「君は、我が君とまみえたことはあったのだったか?」 彼女の黒髪を優しく梳きながら、九具楽は問う。 桜妃は首を横に振った。 「いいえ。まだお会いした事はないわ。でも…」 答えながら彼女の頭にふと浮かんだのは、過去の忌まわしい記憶だった。 数十年ほど前の事だ。人間の小娘の夢を操って遊んでいた桜妃が、妖主の干渉を受けたのは。 『失せろ、桜妃』 突如降ってきた傲慢な声と力。その妖主は、彼女の前に姿を現す事さえしなかった。 桜妃の何がそんなに気に障ったのか知らないが、夢の檻をぶち壊し、彼女の片腕を引き裂いたのだった。 一瞬で敵わないと判断した彼女はその場を退散した。思い返すのも腹立たしいけれど、あの時の妖主がもしや、九具楽の言う『柘榴』の君ではないか、という気がしていた。 「桜妃?」 九具楽が顔を覗きこんでくる。 「何でもないわ…ええ、きっと思い過ごしよ」 桜妃は話題を変えた。 「それより…あなたのところ、新しい子が入ったんですって?」 すると九具楽は何か嫌なことでも思い出したように眉を潜めた。 「ああ…内梨の事か。さすが、耳が早いな」 「葛衣に聞いたのよ。凄く綺麗な娘だそうね」 「まあ、見かけはな…」 九具楽は眉を寄せる。 「ふふ、少し妬けちゃうわね。最近あたしのところに来なかったのは、その子にかかりきりになってるから?」 「まさか…」 九具楽はすぐに否定する。 「わたしは本当は反対なのだ。ただ、我が君があれを気に入っているから仕方なく…」 だが、桜妃にはそうは見えなかった。 九具楽は桜妃と同じく主人以外の者には殆ど関心を向けることがない。 協力者である桜妃に対してさえそうだった。 それが内梨にだけは何故か心を許しているようなのである。 実は、九具楽には話していないが、桜妃は二人が共にいる姿を見かけたことがあったのだ。 『その態度を改めろと言っている!』 桜妃は驚いて声の飛んできた方向を見た。 九具楽に怒鳴られているのは妖貴の娘だった。 『九具楽のばか!あたしはあたしのやりたいようにやるのっ!』 叫ぶ娘は美しかった。意志の強さが如実に現れたその黒い瞳。 『何故わたしの言うことが聞けない、内梨!』 冷静な彼がいつになく焦れたように叫ぶ。 内梨と呼ばれた少女も怒鳴り返した。 『あなたが男だからよ。男なんて大嫌いなのっ!』 少女の声は空間を激しく震わせた。 『だが我が君は男性だ!』 内梨は首を横に振る。 『違うわ』 『違わない!現実を見ろ、内梨!』 言って九具楽は前に踏み出した。暴れる内梨を、その腕の中に抱き締める。 桜妃は信じられない思いでその光景を見た。 夢でも見ているのだろうか。あの九具楽が、自分から女性を抱き締めるなど。 しかもそれは桜妃以外の、知り合ってまだ日も浅そうな小娘だったのだ。 『離してよっ!』 内梨はすぐに九具楽を突き飛ばし、肩で息をしていた。 九具楽はそれを一瞥して言った。 『新入りの短慮が原因で、我が君の威光に傷をつけるような事があってはならん。それくらいは判るだろう』 内梨は悔しげに唇を噛んだ。 『あんたなんか…嫌い』 『気が合うな。わたしもだ』 そのやりとりを、桜妃は遠くから複雑な思いで見ていた。九具楽のあんな表情は初めて見る。 自分には決して見せてはくれない、感情のほとばしり。 嫉妬であることは判り切っていたが、それを認めてしまうには桜妃の誇りはあまりに、高すぎた。 「気分がそがれてしまったな…」 桜妃を抱き締めながら、九具楽は呟く。 それから漆黒の美しい瞳の中に彼女の姿を映した。 「場所を移さないか?」 どこに行きたい、とその瞳が問うてくる。桜妃は首を横に振った。 「ここで…いいわ」 どこに、よりも、誰と、の方が彼女には重要だった。 九具楽の胸にそっと頬を押しつけた時、頭の中に一つの声が響く。 『桜妃』 それは艶やかな女性の声だった。 『桜妃、戻っておいで』 聞いているだけで陶酔する主人の声に、彼女は埋めていた顔を上げた。 「ごめんなさい。やっぱり今日はこれで失礼するわ」 怪訝な顔をする九具楽をよそに、桜妃は立ち上がった。 「我が君がお呼びなの…また今度、ね」 そう言って背中を向けながらも、桜妃は彼が引き止めてくれる事を期待していた。 けれど、阻む力は働かない。 「…そうか。残念だ」 九具楽は言ったが、果たして本当にそう思っているのかどうか理解しにくい。 桜妃は焦れた。 『桜妃、何をしている。早くおいで』 翡翠の妖主の呼び掛けが、彼女の頭の中に幾重にも反響する。 判っている。ただ一人選ばなければならないとしたら、当然主人の方だ。 主人よりも大切なものなどない。…今までずっとそう思ってきた。 「どうした桜妃?早く行った方がいい」 桜妃の気も知らず、九具楽は彼女を気遣う。それが却って桜妃を苛立たせた。 振り返ってねめつける。 「もう。あなたって本当に、女心の判らない人ね!」 情熱的な言葉など端から期待していなかったが、それにしても少しくらい引き止めるとか、淋しそうな顔をして見せろというのだ。 桜妃の苛立ちは、しかしこの冷徹男には、全く通じていなかったようである。 「女心…何の事だ?」 彼女をがっくりと脱力させるような事を言い、 「主を怒らせると後が恐いぞ。私のことは気にせずに早く行くがいい。さあ」 と言うとぐいぐい背中を押してくる。余韻も何もあったものではない。 「…判ったわ、それじゃあまた」 桜妃は首だけ振り返ると、背伸びして九具楽に口づけした。 もちろんそれだけではない。前歯でがぶりと唇に噛み付く。 九具楽が慌てて身を引いた。 その形の良い唇は切れて血が滲んでいる。 痛みに顔をしかめながら口元を押さえる九具楽を見て、桜妃はぺろりと舌を出した。 「少しは動揺した?」 九具楽は答えない。その顔に浮かぶのは憤怒ではなかった。 何か桜妃を怒らせるような事を言っただろうか、と考えている生真面目な顔だ。 それがおかしくて桜妃はくすくす笑った。 「不思議だわ。どうしてあたしは、あなたみたいな男を選んだのかしら」 共鳴出来る相手ならば別に誰でも良かったのだ。けれど今では、彼でなくては駄目だったのだと素直に思える。 奔放な自分には、生真面目で無愛想な恋人こそがふさわしい。 余りにも淡泊なので、時々淋しくもなるけれど。 「またね」 桜妃は手を振りながら恋人に背を向けた。漆黒の巻き毛が緩やかに空を這って消える。 その後ろ姿を見守りながら九具楽はため息をついた。 「ある意味、我が君よりも厄介な存在だな…」 ──おわり── 戻る [*前] | [次#] ページ: TOPへ |