・誰得と言われそうですが、そこを敢えての闇主×シェン ・ラス以外のヒロインにあそこまで優しい赤男さんが気持ち悪……いえとても新鮮だったので書きました ・ハグ程度で恋愛と言うより愛玩動物を愛でるような関係が好き ・正式なお相手であるラウシャンは今回蚊帳の外です ・ラスボスは桜妃 ↓大丈夫そうな方はどうぞ 磨きあげられた珠の表面を、彼女はうっとりと見つめていた。 豊かに波打つ黒髪と、華奢な体つきが印象的な美貌であった。幼さの残る甘い顔立ちと、いまだ成熟に至らぬ細い手足は、人間に例えるとまだ十四、五才の少女のものでしかない。 されど、その口許に浮かぶのは、魔性の微笑み。 人を虜にし、奈落の底に引きずり落とすことに生きがいを見出だす残虐にして傲慢な彼らが種族は、人と異なり、歳月によりその容姿に変化をきたすことはない。 各個が持つ力量の大小によって美しさに差異が生じることは明確であるものの、幾星霜を経ても身体機能には衰えを見せず、己の望むままの姿を保つことが可能である。 誰もが一度は望んだことがあるだろう不老の権限を、当然のごとく手にしている少女の足下には、影が存在しない。 白い指先がついと伸び、抱えた膝の上に乗せた珠を愛しそうに撫でる。 「いいわ………なんて、綺麗」 魅入られたように、少女は目を細めて呟く。 魔性は退屈を最も嫌う。さりとて、他人の遊びを真似るなど言語道断であったから、彼女は彼女なりのやり方で娯楽の材料を探す。 漆黒の布を下敷きにして、大事に、大事にくるまれた翡翠の宝玉は、彼女の主から特別に贈られた逸品だ。それは、持ち主がその時その時に望んだ光景を映し出してくれる便利な玩具だった。 彼女は、その中に遊びの種を見出だす。 宝玉に映しだされているのは、人間の住む世界の光景であった。 大きな都市などは、大抵主人かその他の妖主が目を付けているから、妖貴である彼女には手は出せない。したがって狙い目は、それほど人の多くない小さな村に限られる。 その中でひときわ彼女の目を引いたのは、ごくごく平凡な小娘の姿だった。黒い髪、茶色の瞳………人間の中においてさえ、それ程目立つことのない地味な容姿であった。手足は太く短く、全体的にころころとして、とても美しいとは言い難い。 しかし、魂の輝きはなかなかのものだった。その娘の抱いている思いの強さが反映されているのか、単に遺伝によるものなのか…そこまでは、探ってみなければわからない。いずれにせよ、彼女の好奇心をそそる存在であるのは間違いなかった。 少女の手には、昨晩したためた恋文が握られていた。固く握り締めるその手は、畑仕事のせいか泥だらけで、おまけにひどく荒れている。 貧村に生まれた者の定めか、着ているものも暖が取れればいいというだけの粗末なものだった。年頃の娘であるのに、上等な衣服も、薄い化粧も許されなかった。 収穫の時期を迎え、村人たちが忙殺されている中、作業を抜け出して少女は走っていた。今日こそは愛しい人にこれを届けるのだと、溢れる決意が抱え込む魂をより魅力的に見せていた。 『行かなくちゃ…早く、行かなくちゃ』 少女の必死なつぶやきを、魔性の乙女は聞き逃すことがない。泥だらけのままひたすら走り、転ぶその姿を、面白そうに見入っている。 少女の声には焦りが宿っていた。 『行かなくちゃ。一刻も早くあの人にあたしの気持ちを伝えたい…だって、明日の朝にはあの人はこの村を出て行ってしまうのだから』 後で両親に叱られることなど、少女の走りを止める原因には成り得なかった。ただ、夢中で…思い人の所までひた走る。 その光景を見ていた彼女は、くすりと無邪気な笑みを浮かべる。 「いいわ………なんて、健気な………そして、分不相応であさましい願いなのかしら」 人差し指で珠を傾けてみる。相手の男がどんな顔をしているのが興味があった。 程なくして、村外れの一軒家が映しだされた。 少女の思う男は、荷物をまとめて旅立つ準備をしていた。己が夢を叶えるため、今まさに故郷の村を後にしようとしている。 商人になるのが、彼の夢だった。自分にはそれだけの器があるのだと信じていた。こんな小さな村で一生を終えることなどごめんであったから、何年もかけて母親を説得した。あてなどなかったが、大国に行けば、職が見つかるはずだと…それは、なんと甘く、幼い考えであろうか。 男は確かに人間にしてはほどほど整った顔立ちをしていたが、もっと美しい存在が、彼女の周囲には掃いて捨てるほどいた。人の持つ美しさなど、上級魔性のそれとは比べ物にはならない。 「先回りしてこの男の心を奪うのも面白そうだけど…どうせなら、もっと凝った仕掛けを施しましょうか」 ちろりと唇を舐める………その舌は、唇と同様に赤く、なまめかしい。 肥大する人間の夢と欲望は、彼女の美味なる餌だった。その夢が、希望が無残に引き裂かれた時に上がる悲痛な叫びと、大切なものを失ったことで流される血の涙、慟哭…考えただけでわくわくする。 「おいでなさい」 囁いて、彼女は翡翠の表面にそっと口づけた。 声が聞こえたのか、走っていた少女が足を止め、不思議そうに周囲を見回す。 この声はどこから聞こえてくるの? 男もまた、手を止めて、怪訝そうに視線をさまよわす。 この声はどこから聞こえてくるんだ? 「ちっぽけな夢を紡いで生きている、哀れな娘。甘い夢に溺れている哀れな男。あたしが…このあたしが、もっともっと素敵な夢を、見せてあげるから…」 声は波紋となり少女の心へと届く。 声はさざ波となり男の心へと届く。 遊びの準備は整った。後は獲物が罠に掛かるのを待つだけだ。 ふわり………と、桜妃は衣装の裾を翻す。夢は不変ではなく、成長していくものだ。たとえそれが他者の介入によるものだったとしても。 彼女の瞳に映る翡翠の宝玉が、妖しい輝きを放った。 ※ 「だ・か・ら、最初っからちゃんと説明して欲しいのっ!」 果たして何回、同じ相手に同じ台詞を繰り返さねばならないのか――――シェンツァ・リーウェンは底知れぬ不安と苛立ちに襲われながら、そう告げざるを得なかった。 闇、闇、闇……… 辺りは一面の闇、である。それにも関わらず、足場はあり、自分の姿が見える程度には明るい。 その中で一つだけはっきりしているものは、彼女の少し先に佇んでいる魔性の青年の輪郭だ。突然に異空間に放り出され、右も左も判らないこの状況下で、今のところ、頼りになる唯一の同行者…と呼ぶには、余りにも身勝手な彼の態度に彼女の堪忍袋が切れたのは、これまでの過程から見れば当然の成り行きであった。 彼女は短気な方ではないし、また決して後ろ向きな性格の持ち主でもなかった。いわゆる八方塞がりのどうしようもない状況に追い込まれたとしても、その場で開き直り、流れに身を任せる術を知っていた。 呑気、もしくは楽天的とも言えるその性格と、彼女を理解してくれる幼馴染みの存在があったおかげで、シェンツァ・リーウェンはこれまで幾多の魔性と関わりつつも、なんとか無事に生き長らえてきたのだ。 だが物事にはどうしても、限界というものがある。目の前の美貌の青年が、実は強大な力を持つ魔性であることが発覚しようと、そしてそれに比例した性格の悪さを合わせ持っていようと、時空の狭間を自由に行き来しようと、多少のことには動じない…つもりではいたけれど。 こう、あまりにも長いこと沈黙が続くと、不安が募るのは当然のことで…しかもその間、自分の体を動けないようにしっかりと束縛してくださっているのでは、何やら難しい状況に直面してしまったのではないかと、つい悪い方向に考えが及んでしまうのも無理はないことと言えた。 「少し黙ってろ」 広い背中を向けたまま、魔性の青年が答える。それきりまた口を噤んでしまう。こんな時の青年には何を問い掛けても無駄であることは、そろそろ理解しつつあるシェンツァ・リーウェンであったが、何も話さないよりは例え相手を怒らせたとしても会話をした方がましだという彼女の前向きさが、再び口を開かせる結果になった。 「でも、『少し』って言ったって、もう随分たってるわよ?いったい、いつまでこうしてれば……あっ」 見えない力で、今度は口までも塞がれる。じたばたと両手と口を動かそうと奮闘する少女を青年は振り返り、やや苛立ったような目を向ける。 「黙ってろ、と言ったんだよ、おれは」 冷たい口調であった。前髪の隙間から覗く青い双眸が、動けない彼女を冷ややかに見据えている。 やはり気分を害してしまったようだ。けれど、どちらかと言えば怒りたいのはこちらの方だった。 異質な空間に飛ばされた衝撃によって、彼女の魂は現在肉体を離れてしまっている。体は透けてはいないし、手足も動かせるのだが、青年に言わせればそういうことらしい。いずれにせよこのままでは消滅は時間の問題…その可能性を示唆されては、いかに呑気なシェンツァ・リーウェンとて、必死にならずにはいられない。 しかも、急いているのは、彼女だけではなかった。彼女の消滅は、この青年の探している『大切な誰か』の行方に関する手掛かりの消滅、を意味する。 人間と魔性。本来ならば、決して相容れぬ存在であるはずなのだが、そういうわけで利害の一致した両者は手を組み、不本意ながらこうして行動を共にしているのだ。彼女の本来の肉体がある場所と、その時期さえはっきりすれば、青年はその時代まで連れて行ってやれるという。それだけの力が自分にはあるのだと。 確かにそれは事実であった。ここに来るまでも怖そうな魔性に何度か出くわしたものの、青年はその度にシェンツァ・リーウェンを守ってくれた。彼女に出来ることと言えば、ただ飛ばされた時期を思い出すこと、ひたすら記憶を辿り手掛かりとなる情報を彼に伝えることだけなのであるが、それで充分だと青年は言ってくれた。 もっと残忍で邪悪な魔性を、彼女は幾らでも知っている。それに比べたらこの青年は随分と協力的であるし、まあ、多少強引で乱暴で、人の話を聞かないことくらいは、大目に見てあげてもいいかな…などと考えていた彼女はやはり、かなり能天気であったかも知れない。 「いいか、死にたくなかったらおとなしくしてろ。お前が消えるのは勝手だが、あいつに繋がる手掛かりが失せるのは良くないからな」 青年の強さは、肌で感じている。人間である自分には何の力もなく、彼の足手まとい以下の存在であることはわかりきっていた。しかし、だからと言って。 だからって、だからって……何も、ここまでしなくてもいいじゃないっ……! 今の彼女には、青年を睨み付けることしか出来ない。勝手に動かれたくないのなら、それなりの説明をしてくれればいいのだ。今はどういう状況にあって、目指す時代までどれくらいの距離で、これこれこういう事情だからおとなしくしていなさいと、そう…もっと、優しく、諭してくれたなら。 なまじ、青年が必要最小限なことしか口にしないものだから、彼女は不安で仕方がないのだ。 このひとに任せておいて…本当に大丈夫なんだろうか…。 懸念は、はっきりと表に出ていたのだろう。青年が、ひどく不機嫌そうな顔で睨み返してくる。 「お前、なあ……」 おれが信じられないとでも? そう言いたげな青年の瞳を、じっと見つめたまま彼女は動かない…いや、動けない。 そして、しばしの沈黙――――――――。 きり、と四肢に締め付けられるような痛みを覚える。 この青年の力によるものだということは、それが発生した瞬間から判っていた。きりり、きりりと捩子を巻かれるように体が徐々に締め付けられていく。 ああ、こいつって…やっぱり、最低だわ…。 驚きや恐怖よりも、ある種の呆れが彼女の中に生まれていた。相手が思い通りにならないからと言って力に訴えるなど、幼稚な男のすることだ。青年がシェンツァ・リーウェンを殺せないことは明白であったから、それは余裕と呼べるものだったかも知れない。しかし、更に一段と強い力がその華奢な体に加えられた時、さすがに彼女は顔色を変えた。 声が出せないため、悲鳴は漏れない。しかし…あまり、手加減をしたとは思えない力であった。 例えて言うならば、体を二つに折り曲げられそうな…そんな圧迫感だった。 ま…まさか、本気じゃないわよね…? 縋るような目で青年を見るが、彼はふふんと鼻で笑っただけだった。 「降参するか?」 こ…こいつ……っ! 手が動かせるのなら、とっくに張り倒していただろう。痛みと屈辱に耐えながら、シェンツァ・リーウェンは必死の抵抗を試みる。 大切な幼馴染み、ラウシャンの顔が思い浮かぶ。幼い頃から魔性絡みの事件に巻き込まれることの多かった彼女を、その為に一部の人間から迫害さえ受けていた彼女を、いつも庇い、救ってくれた、三つ年下の少年だ。 彼を残し、なぜ今こんな所に自分の意識が存在しているのか、シェンツァ・リーウェンにはどうしても思い出せない。 だから、それを思い出して…そして。 生きて再び、彼に会う。その信念のみが、彼女を支えていたのだった。 ふう、と青年が息をついた。 同時に全身の束縛が、嘘のように解け、シェンツァ・リーウェンは崩れ落ちるようにその場に膝を突いた。 痛みの余韻が残っており、ごほごほと咳き込む。しかし青年はそんな彼女を気遣うよりも、自分の考えを口にすることを優先させたいらしい。 「…あのな、シェン」 青年の口調は、先程よりは幾らか柔らかくなっていた。それに対しどんな反応を返すべきか迷いつつも、青年の顔を見上げる。辛くはあったものの、なんとか口がきける状態に戻っていることに気がついた。 彼女の前に屈み込むと、青年はそっと指を伸ばす。今度は何をされるのかと、思わず身を竦めてしまう…しかし次に彼が選んだのは、彼女の長い髪を掬って指に絡め取るという不可解な動作だった。 な、に…? 意外な行動に目を見張ると、そのままの状態で青年はかすかに笑った。 「おれとしてもお前が消えることはなるべく避けたいんだよ。心配するな、お前の記憶さえ戻りゃすぐにでも飛べる準備は出来てる…そこに至るまでにまた怖い連中が出てくるかもしれんが、大抵は俺の敵じゃない。要はお前次第だ。このままおれと居て消えるか、さっさとおれとおさらばして体に戻るか…な」 「体に戻るわ」 即答するシェンツァ・リーウェンである。「おい」と青年が突っ込みの手刀を入れてくるのを器用に避けながら、彼女は再び逆鱗に触れてしまうことを覚悟の上で、青年に噛みつく。 「だからせめて…今、どこへ向かっているかぐらい教えてくれたっていいじゃないっ!そうやって何も言わないで勝手に動いて勝手に決めて!もっと…もっと、親切にしてくれれば、あたしだって…」 一応、感謝はしているのだ。けれどそれにも増して青年が身勝手なものだから、礼を言う暇などあったものではない。 青年は苦笑しながら、また彼女の髪を梳き上げる。 「おれはこれでも優しいつもりなんだが?」 信じがたい言葉に、シェンツァ・リーウェンは絶句するほかない。突然抱き寄せたり口を塞いだり、動けないように束縛したり、言うことを聞かないと体を締めつけたりするのが…彼の中では『優しさ』と言うことになっているのだろうか…? では、『優しくない』彼というのは一体………。 考えを突き詰めていくと恐ろしくなり、こくんと喉を鳴らした。そんな彼女を面白そうに見つめている青年のご機嫌は、どうやらだいぶ直ったようである。 「…『後にも先にも』という言葉があるだろう?」 一瞬、何を言われたのかわからず、きょとんとする彼女の頬を、青年は指でつついた。 「いいから聞け。普通は、『後』と『先』は対になる言葉だ。しかし同一の意味でも使われることがある。例えば『食事はもう少し先』『食事はもう少し後』…この場合の『先』と『後』は同じ意味だ。それはわかるな?」「う、ん…」 腑に落ちないながらも、頷くしかない。 「時の迷宮で時間軸を設定する時にはまず、今いる時代から見て『先』か『後』か…つまり、未来に行くか過去に行くかを決定することから始めなきゃならない。だがおれはその時の気分によって『先』と『後』を同義で使うこともあれば、対義語として扱う場合もある。だから設定した内容をきちんと覚えておかないと、過去に行ったつもりが未来へ向かっちまうということもまま、あるわけだ」 しかし、確か千禍は、過去にしか行けないのではなかったか。その疑問を口に乗せると、青年は呆れたように溜め息をついた。 「ああ…今言った『未来』っていうのは、過去から見た未来のことなんだよ。同じ『過去』でも現在に近い過去か、遥か遠い過去かによって軸の合わせ方も違ってくる。…わかるか、シェン?」 混乱する頭の中身を、彼女は必死に整理した。 「つ…つまり、未来と過去の設定がごちゃまぜで、あなたにもよく判らない、ってこと…?」 言いながら、いやーな予感が、彼女を支配していく。 「ま、そうだな。覚えを残しときゃ良かったんだが、以前に時間遡行した時のおれは、もうこの世にゃいないしなあ……殺す前に、聞き出しとくべきだったかな」 ぶつくさと何を言っているのか、シェンツァ・リーウェンにはさっぱり判らなかった。だがどうやら事態は予想以上に深刻なものらしい。 青年がずっと黙っていたのもその『時間軸』とやらの位置を探ろうとしていたためなのだろう。それならば、彼女の遠慮がちな声にさえ苛立ち、先程のような暴挙に出たのも得心がいく。まだ痛む腕をさすりながら青年を見上げると、彼は更に驚くべきことを口にした。 「誰かが干渉してくるまで、しばらくはここで待ってみるか」 お前が死なないうちに急ぐと言ったその口で、なんと呑気な発言をするのだろうか…この、どこまでも身勝手で傲慢で自信過剰で、いい加減な男は。 「よ…要するに」 青年を怒らせてしまうことを承知で…以下略。 「要するに…あたし達、迷子になっちゃったってことーっ!?」 思わず絶叫してしまったからといって、誰も彼女を責めなかっただろう。だが当の青年は、のーんとした顔でいまだシェンツァ・リーウェンの髪を撫でている。 「時間軸の最小単位は一か月だ。順に溯って行けばいつかはお前のいた時代にたどり着くさ」 そ…そんな、無責任な…! 余りのことに口をぱくぱくさせる彼女をおかしそうに見つめながら、青年はついに両手を使って髪全体をかき回した。 「しっかしお前、髪質だけはいいな。いつまでも触っていたくなる」 外見だけは非常に秀麗な青年の口からこんなことを言われては、大抵の女性は悪い気はしないだろう。だが相手が魔性と判っている以上、そんな甘言に騙されるシェンツァ・リーウェンではなかった。 「大きなお世話っ!」 勢い良く立ち上がったつもりが、目眩を覚えてしまい、再び倒れそうになる。その体を支えたのは皮肉にも彼女の目眩の原因を作った張本人であった。 「おい、まだ死ぬなよ。どうせならおれの用事を済ませてから逝け」 だ………誰のせいだと、思ってるのよーっっ! 果てしない頭痛と不安材料を抱え込みながら、シェンツァ・リーウェンがその思いを口にしかけた時―――。 全身に、寒気が走った。 それは唐突な訪れだった。心臓を鷲掴みにされたような息苦しさを覚え、彼女は深緑の瞳を大きく見開く。 次の刹那、その心を支配したのは底知れぬ恐怖であった。 実際、シェンツァ・リーウェンが恐怖というものを感じたのは、ここに来て初めてのことだった。 もともと適応能力の優れている彼女は、暗闇にはすぐに慣れることが出来たし、何より、性格的にかなり問題のある青年からここまでの支援を引き出せるようになったのは、偏に彼女の努力と辛抱強さの賜物と言えよう。 しかし、今の衝撃を無視することは、彼女にはとても出来なかった。 理屈ではなく、本能として恐ろしいと感じた。 自分の身に何か、とんでもない事態が降りかかろうとしていることが…わかった。 「い…や…」 寒気の沈殿して行く先は足下だった。誰かに両足首を掴まれ、地の底に引きずり込まれるような…恐ろしい、目に見えることのない力が、確かに下方から迫ってくる。 近付いてくる…何かが。 恐ろしい何かが。 「い…や…」 自分の体を腕の中に包んでいる青年からは、この力は感じ取れない。 違う。この青年では………ない。 先程のお仕置きのことがあったから、つい猜疑的になってしまうけれど……。 「シェン?」 怪訝そうに、青年が顔を覗き込んでくる。 抱き締められたまま、がたがたと震え始める彼女を見て、その怯えの原因が自分にあるとでも思ったのか、千禍は軽く眉をひそめ…そして、彼女から離れようとする。 「いやっ!」 反射的に、彼女はその腕を掴んだ。掴んだだけでなく、引き寄せ、自ら青年の胸に顔を埋めてしまう。 「おい…」 どっちなんだ、と呟く青年の言葉など、耳に入ってはいなかった。 ただ、怖い。 誰かに捕まえていてもらわなければ、自分というちっぽけな存在が、何者かの手によって握りつぶされてしまいそうだった。なぜ、こんな不安を覚えるのかわからない。強大な力を持つこの青年にも関知できぬことなら、ただの人間にすぎない自分に判るはずなどない。 震えの止まないシェンツァ・リーウェンの背中に、青年の腕が回った。大きな掌が幾度となく背中を撫でるのを感じて、彼女は肩で息をつく。 本気で心配してくれているのが…わかる。わかるからこそ、気丈でいなければいけないのに、胸に広がるこの絶望感は何なのだろう。 「あ…あたし…」 発する言葉もまた、震えていた。 「うん?」 答える青年の声は、相反して落ち着いたものだ。その黒い装束に軽く歯を立てながら、彼女は青年に助けを求めるべきか否か迷った。 怖い…などと口に乗せたら、彼は優しくしてくれるだろうか。 それとも、いつものように鼻で笑うのだろうか。 わからない。何もかもわからないけれど…けれど、今目の前にいるのはこの青年を置いて他にいないのだ。 頼れるのも、縋れるのも、彼しかいないのだ。 「あ…」 しかし、呟いた時には、何もかもが遅かった。 足先に、冷たいものが伝わる。強烈な引力に、逆らう術など彼女には持ち得なかった。 引きずられる、と彼女は確信した。 ここではない、別のどこかへ…その存在ごと、引きずられる! 「いや…助けてっ!」 叫んだのとほぼ同時に、先程まで足場だと思っていた所に、巨大な穴が開いた。 そして、彼女は見てしまった。その穴の向こう側に、ここよりもさらに昏い闇が広がっているのを。その闇が今まさにシェンツァ・リーウェンを包み込もうとしているのを! それは、爪先から頭にかけて口を開き、彼女の小柄な全身をすっぽりと納めてしまうほどの大きさだった。 虚空から吹きすさぶ突風に、黒い髪がはためき、その時になって青年は顔色を変えた。 「シェンっ!」 青年が、腕を伸ばす。だが、間に合わなかった。 互いに伸ばした指先は、すんでのところで触れ合う事がなく、シェンツァ・リーウェンは無我夢中で叫んだ。 「かみ…髪を掴んでっ!」 指が間に合わないのなら、毛髪を掴んで引き上げて貰うしかない。幸い、彼女の長い髪は大きく前方に靡き、青年の膝の辺りまで舞い上がっていた。 「早くっ!」 体が大きく傾ぎ、穴に飲み込まれようとしている。屈み込んだ青年の手がその髪の一房を掴む。引き上げられる時に感じる痛みに、シェンツァ・リーウェンは歯を食いしばって耐えた…つもりであった。 けれど、こんな乱暴をされるのは初めてであったため、思わず声が漏れてしまう。 「い、痛いっ……!」 自分の体重の分だけ頭皮が引き伸ばされる激痛に、彼女は弱音を吐いた。その瞬間、青年の手が緩む。 え……? 思わず顔を上げた彼女を待っていたのは、何やら思い詰めたような青年の顔だった。 「ご…ごめんなさい。わたしは大丈夫…我慢するから、早く……」 こんな状況で機嫌を損ねたら、また何をされるか判ったものではない。そういう思いから口にしたものの、青年は何故か彼女の髪からあっさり手を放してしまう。 「きゃあああっ!」 重力すら不安定なはずのこの空間にあって、落下に似た感覚が彼女を襲う。その果てに待つ衝撃を予想して、彼女は我を忘れて悲鳴を上げた。枝を離れた果実のように、地に叩き付けられ、潰れ果てる自らの姿が目に浮かび、恐怖以上の絶望が胸の内を染め替える。 視界が急激に狭くなり、青年の姿は徐々にかすんでいく。先程まで抱き締められていた温もりも、感触も、すべてがまるで夢の中の出来事であったかのように遠ざかり、失せていく。 どうして…どうしてっ! シェンツァ・リーウェンは泣きたい思いで、落ち続けていた。 どれほど力を尽くしても報われない現実があることくらい、幼い彼女とてよく知っている。しかし、今引き離されたのは、青年に力が足りなかったからではない。 彼はわざと手を放したのだ。 あまり好かれていないことは、出会った時から良く判っていた。自分はあくまでも彼の協力者…それ以上でもそれ以下でもない存在だった。そうして、道具として扱われることにいつのまにか慣れてしまっていた。 もともと選択肢など二つしかなかった。その中で、人として前向きなシェンツァ・リーウェンが青年の手を取ることを選んだのは当然のことと言えるかもしれない。 けれど今はひとつだけ、気付いてしまったことがある。 嫌ではなかったからだ。 乱暴にされるのも、嫌味や皮肉などを言われるのも、許せる気持ちになっている自分に気が付いてしまったからだ。それ以上の安定を、安心出来る足場を、千禍は作ってくれた。落ち着いて考えられる場所、これから進むべき方向、何より、正常に呼吸の出来る被膜………。 交換条件としては十分すぎるほど、大切にされている自覚はあった。それらを当然のごとく受け入れていた彼 女の方にも、多少の傲慢はあったかもしれない。 けれど、なぜ今なのか。 なぜ今更、それも故意に、シェンツァ・リーウェンの手を、否、髪を…放したのか。 ……シェン。 耳に、馴染みのある声が飛び込んでくる。 少しだけ恐怖が和らいでしまう自らの心の働きを癪に感じながら、シェンツァ・リーウェンは鼻を啜った。 …なんだ、良かった。あなた、そこにいたの? 落下は続いている。しかし、以前のような絶望感は薄れてきていた。 これから辿り着く場所がどこなのかは判らない。けれど青年が側にいる限り身の安全は保証されていた。これまでがそうだったからだ。 …いや、悪いがすぐには行けない。だが、待ってろ。後で必ず拾いに行く。 探しに行く、とか迎えに行く、ではないあたりが…実にこの青年らしい。 …嘘つき…今更、何を待てって言うのよっ! 見捨てられた身としては、こうして幼子のように、憤慨するしかなかった。 痛がろうが何をしようが、無理やり掴んで引き上げてくれれば、こんなことにはならなかったのだ。 ───悪かった。 しばらく間を置いて届いた青年の声は、演技だとは思えない代物で、彼女はますます悔しく思う。 …嘘つき。わたしの無事は約束できるって言ったくせに。 今度はすぐに答えが返ってくる。 …待ってろ、いいな。 漆黒に彩られていた空間の色が、翡翠に染まったように思えた。 思わず目を細める彼女の鼻を、湿った土の匂いがくすぐる。 地面が近いのだ、と思った時、全身に覚悟していた衝撃が走った。大地に横たわりながら、痛む体をどうすることも出来ず、意識は徐々に薄れていく。 待ってろ、いいな……… 自分の名を呼ぶ千禍の声を耳に残したまま、彼女は意識を手放した…………。 [*前] | [次#] ページ: TOPへ |