2、



 緑間が居候を始めると、彼は当然のように家事をしなかった。昔のようにバスケをしている訳でもないし、医大だって辞めて、指先を気にする必要など無くなってしまったというのに。何故、緑間は家事をしない必要があるのだろう。
 自分としては、講義で疲れた身を引きずって帰宅しているので、料理の一品や二品に、温かく迎えて貰いたいものだ。
 しかし、緑間に「借りを返すんだと思って、家事が宿泊代っていうのは?」と持ち掛けても、それだけは嫌だと言う。家事ができないのか、と聞けば「そんなことはない」と躍起になって言った。それならどうにか、と頭を下げて懇願したところ、ようやく『一度だけ』という条件で、一食、食事を作ってくれることになり、期待に胸を膨らませている。
 大学から、いつもより軽い足取りで岐路に就く。同じ講義を受けている、今まで数度言葉を交わした女性には「機嫌がいいわね、彼女とデートなの?」とからかわれてしまった。まさか、男の手料理が楽しみなのだ、と言える訳もなく「そんなところかな」と返せば、その女性はひどく驚いたようだった。「高尾くんって、彼女いないと思ってたのに」と。
 確かに今まで、周囲に色恋や女性の影をちらつかせたことなど、殆ど無かった。あってもそれはただの友人止まりであったり、講義や実習で縁があって多少会話をするだけの相手である。そんな自分を狙う女性は多かったと自負しているし、何度も付き合ってくれないかと申し出されることがあったのだが、全て断っている。
 緑間のことが、どうしても忘れられなかったからだ。
 そんな緑間に未練ばかりを残してきた自分にとって、今回彼の手料理を食べれるのは、正に夢のようなことだった。隠しきれない幸せを他人に指摘されてしまうのも無理はない。
 高鳴る胸を押さえつつ、軽い足取りで自宅へと急いだ。緑間と同居を始めてからというもの、足が重いと感じたことは一度だってなかったが、今日のそれは今まで以上だった。スキップをしようとしたところで下校中の小学生と鉢合わせ、跳ねるには至らなかったが。
 アパートからは、空腹には辛い、夕食の香りが漂ってくる。カレーの匂いや焼き魚の匂い等、様々だったが、果たして緑間の食事の香りはどれだろうか。自宅のドアノブに手を掛けて一つ深呼吸をする。あわよくば、緑間にはエプロンを着ていて欲しい。深緑か紺色のシンプルなエプロンを着て、片手にお玉かしゃもじを握り、玄関先まで迎えに来るのだ。
 覚悟を決めて扉を開く。
「真ちゃん、ただいま!」
 緑間が帰宅したことに気付くよう、普段よりも声を張って室内へ向かって叫んだ。想像がそのまま実現することを期待してそわそわと玄関先で立っていると、台所から緑間が顔を覗かせる。同時に見える肩を見る限り、残念ながらエプロンは着用していないらしい。
 それでも緑間が玄関先まで迎えに来るのを待っていると、訝しげな視線を投げ掛けられ「早く入るのだよ」と促された。そして、再び台所へと姿を消してしまう。虚無感が胸の中を支配し、項垂れながら靴を脱いだ。そもそも緑間がそんな行動を起こす訳など無いと分かっていた筈なのに、期待していた自分が馬鹿だっただけなのだが。
 増したように思える荷物の重量感を掌に感じ、引き摺りながら歩を進める。通り過ぎた台所に立つ緑間を恨めしく思いながらリビングに置かれた椅子に腰かけて足の辺りに無造作に荷物を置くと、緑間が追うように台所から現れ、両手に持っていた皿を、机の上へ置いていく。煮物とハンバーグ、酢の物に味噌汁……と、かなり特徴的な組み合わせだが、漂ってくる香りや見た目はどれも食欲を掻き立てる。それらを見て、料理は苦手だと学生時代に聞いていたことを思い出した。あれは嘘だったのだろうか。どちらにせよ、料理の腕が良いに越したことはない。
 今食卓に並んでいる品数だけでも充分な量だが、緑間は再度台所へと向かった。かと思えば直ぐに戻り、机の上におずおずと皿を一つ置く。白く小さめの器の中には、赤い好物が入っていた。
「真ちゃん、俺の好きなもの、覚えててくれたの?」
 キムチと緑間を交互に見ながら尋ねれば、緑間は顔を背けて「食べたかっただけなのだよ」なんて素直ではない答えを出した。
 はいはい、と苦笑しながら緑間が腰掛けるのを待つ。確認してから同時に手を合わせた後、箸へと手を伸ばした。
 好物のキムチへ真っ先に手を伸ばしたいところだが、漬ける手間などを考えると、これは恐らく市販のものだろう。何度も目を屡叩かせているのを見、恐らく彼自身が一番時間を掛けて作ったのであろう、ハンバーグか煮物に手を付けて欲しいのだな、と察した。まずはハンバーグに箸を伸ばし、一口大に切る。ぎっしり詰まった断面が現れたのと同時に透明な肉汁が流れ、湯気が溢れ出した。息を吹きかけ、唇に軽く触れさせて温度を確かめる。少し熱いと感じるくらいのところで口内へ放り込み、しっかりと咀嚼した。美味しい。
 感想を口にする前に緑間の様子を見ると、しきりに何かを待っているようだった。まるで、褒めて欲しい、とねだっているようで、ただただ愛しい。
「美味しいよ、真ちゃん」



 大体の料理を腹の中へ収め、食器を片付ける為に台所に立つ。緑間は普段と変わらず椅子に腰かけて、洗う様子を見つめてくるだけだ。どうやらここまでしてくれる訳ではないらしい。泡に塗れたスポンジを食器の上で滑らせる。
「あんなに美味しい料理作れるんだったら、毎日でも作ってよ」
 シンクから目を離し、緑間を見た。テレビから流れるニュース番組を見つめていて、こちらに視線を向ける気配はなかった。
「一度だけという約束なのだよ」
 不機嫌そうな声が緑間の唇から聞こえて「そっか、残念」という言葉が自然と漏れ出した。緑間はそれを聞いて、横目でこちらを見る。少しだけ罪悪感を持ったような表情だったが、直ぐにまた目を背けてしまった。
「一度だけだ」
 だけ、の語句を強く緑間は言う。あまりにもそれが頑なで、頭を傾げた。強要している訳でもないのにそんなにも拒む理由があるのだろうか。
「料理とか家事とか、なんでそんなにしたくないの?」
 テレビを見つめたまま、緑間が押し黙る。以前聞いたときだって明確な答えは聞けなかったが、そうされる程に益々気になるのは仕方ないだろう。泡だらけの手を洗い流し、滴る水滴を拭き取って、水に沈んだ食器はそのままに、緑間の隣に座った。そうして「ね」と笑いかけようと、緑間は口を噤んでいた。
 会話が消える。緑間の長い睫毛を飽きずに見詰め、返事を待った。
「……前に、高尾が言っていたのだよ」
「俺が、何?」
 緑間はテレビの画面から目を逸らし、明らかな動揺を見せる。自分から発したことだというのに、何度も瞬きをして悩んでいた。俯き、長い睫毛を揺らす。
「もし、一緒に暮らすようになった時のことを話したろう」
 ウインターカップの前。緑間との会話を思い出した。何故かはわからないがルームシェアか何かをして二人で暮らそう、という話になって、それから、家事がどうの、仕事がどうのと話し合ったのだ。あの時。
「高尾は、俺の指が綺麗だから、と。家事は任せないと言っただろう」
 その発言に、目を見開いた。直後に目を背けた緑間だが、耳まで赤く染まっているのが、よく分かる。昔の発言など覚えていなかったが、そんな自分が薄情に思えるほど、緑間が愛しくて堪らなくなった。
 緑間の細く長く白い指を見る。ふと、その指に絆創膏や薄い切り傷がいくつも付いていることに気付いた。
「……やっぱり真ちゃんは、側にいてくれるだけで良いね」
 彼の膝に置かれていた指先に、丁寧に触れる。それを愛でるように撫でると、緑間の耳は更に赤くなった。
「真ちゃん、こっち向いてよ」
 動揺する緑間は愛らしい。しかし、こうも長い間顔を背けられているのには、傷ついてしまう。首を左右に振られ、どうしたものか、と苦笑した。あまり恥ずかしがりすぎるのも、考えものである。
「お願いだから真ちゃん、これじゃあ顔が見れないよ」
 瞳の潤む緑間の顔が、ゆっくりと目の前に向けられた。




Next→


「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -