ガラスの靴がなくても


「……するとガラスの靴はまるであつらえたようにぴったりでした。シンデレラはもう片一方をポケットから取り出して履きました」
ガラスの靴の片方を見つけて王子様と幸せになったシンデレラ。けれど、もしそのガラスの靴が割れてしまったら、と考えて絹水は怖くなった。
その片方が割れてしまったら、王子様は二度とシンデレラを迎えにいくことはできずに不幸な生涯を送ったかもしれない。好きでもないどこかの王女様と結婚してもなお、もう会えないシンデレラを思い続けるなんてあまりにも不幸だ。
「王子様とシンデレラは幸せに暮らしました、なんて所詮は綺麗事よね」
キースの背中にもたれて絹水はポツリとつぶやいた。
相手の顔を見て、愛してるなんて言えるのは目の見える人だけが許された贅沢。わたしのような盲目の人間には敵うわけもないおとぎ話。好きな人の顔を見たいと思わないわけではないが、現代の医療技術では彼女が見えるようになるものは存在しない。
「おとぎ話は子ども騙しだろ、綺麗事並べただけの御託だ」
「……キースはおとぎ話には憧れなかったの?」
「そんなもん読み聞かせてくれるお袋もいなかったからな。おとぎ話なんてテメェと暮らし始めてから知ったやつも多い」
いつも通りにたばこの匂いを漂わせながらキースはエンディングの音楽が流れ始めたラジオを止めた。
安っぽい音しか鳴らさないお古のそれは沈黙したが、隣にある体温がもっと身近に感じられて愛しくさせる。
キースがいなければ絹水は世界を知ることさえ出来なかった。世間でどれほど悪く言われていようともずっと孤独だった彼女はキースの温もりに触れてから全てが変わった。不器用な優しさとぶっきらぼうな言葉でもくれる愛は乾いていた心に染み入っていく。
「ふふ、ならキースは王子様ね。わたしに世界を教えてくれた優しい王子様」
「それはあの時のオレに対する皮肉か?」
「違うわ、キースに会ってからわたしは毎日が楽しいんだもの」
背中合わせに感じる体温は間違いなくキースのものだ。一緒に暮らし始めてからずっとこの真っ暗な世界を支えてくれる体温は今や欠かせないものになってしまっている。
シンデレラは継母たちにいじめられていたけれど舞踏会で王子様に見染められたことで幸せになった。絹水はキースに会ったことで世界を知り幸せになれた。
「わたしはキースのことが好きよ、誰がなんて言おうとそれは変わらないわ」
絹水はどれだけ彼にひどいことを言われようとも何をされようとも、思いが揺らぐことはなかった。ひどく犯されようとも、人混みの中に取り残されようとも彼女がキースを愛することを止めなかった。盲目で何も見えない、そんな絹水にとって唯一世界をくれたのがキースだった。彼がいなければきっと彼女はとっくに壊れていたかもしれない。
「だから、ありがとうキース。わたしを助けてくれて」
「……」
彼は何も言わないまま、ただ彼女を抱き寄せただけだった。それでも絹水は満足だ。彼の不器用な優しさはちゃんと伝わっているのだから。
「絹水」
「なぁに?」
「……テメェだけだ、オレをそんな風に言うクソガキは」
ああ、なんて幸せなのかしら。盲目で良かったとさえ思うわ。だってこの幸せをわたしは見ることが出来ないから。
「ふふ、キースが大好きよ。他の誰よりも、それは絶対に請け負うわ」
ぎゅっとさらに強く抱きしめれば同じ強さで返ってくるのが嬉しかった。彼は不器用だけど優しい人だからきっと絹水を放っては置けない。
「……幸せなんてのを夢見たことなんざ一度もなかったからな」
ぼそぼそとキースが言った言葉はきちんと絹水の耳まで届いた。彼の過去が決して幸せなものでないことはなんとなく察している。だからこそ、今こうしていられることを彼女は嬉しく思った。
彼がいなければ今の絹水はいないから、感謝してもしきれない。
「ならわたしがキースに教えてあげるわ。……現実はおとぎ話よりも幸せなんだって」
絹水はそっと手を伸ばして彼のほおへと触れた。感触を確かめるようにぺたぺたと触れるとその大きな手が彼女の手を掴んで引き寄せた。
「ならテメェがずっと傍にいろ。……オレから逃げるんじゃねぇぞ」
「もちろんよ、キースのとなりはわたしだけの特等席だもの」
ああ、幸せだわ。絹水は思った。
こんな日々が続くことを願いつつ彼の胸に顔を埋める。
「大好きよ、キース」
「……そうかよ」
いつものやりとり。それだけで絹水の心は満たされていく。
幸せが約束されたおとぎ話なんてなくていい。現実が甘くなくていい。そばに彼がいれば何もいらないのだ。
「キース」
「……ン?」
「たばこの匂いするわ」
「さっきまで吸ってたからな」
「この匂い、好きなの。キースが近くにいてくれるってわかるから」
こうして抱きしめてもらっているときだけはその匂いも彼を感じられるから。この匂いを嗅ぐと安心できる自分がいる。きっと彼のことが大好きなんだろうなと改めて実感する。
たばこの香りで満たされて、大好きな人の腕に抱かれる幸福な時間は何にも代えがたいものだった。もうずっとこのままでもいいと思えるくらいには幸せだった。
「たばこはどうして吸うの?口寂しいからかしら」
「そうだな、テメェが来てからろくに酒も飲まなくなったからな」
「わたしのせい?」
「あぁ、テメェのせいだ。……でも、今はそんな生活も悪かぁねェと思ってるぜ」
どくりと心臓が大きく音を立てるのがわかる。キースも彼女と同じように思ってくれていたことが嬉しかったから。
「ふふ、嬉しいわ」
ああ、もう本当に幸せすぎるわ。これ以上なんて望めやしないくらいに満たされている。
「ならずっとここにいろ、どこにも行くんじゃねェ」
「……もちろんそのつもりだけれど、でも……」
それは、と言いかけたところで口を塞がれた。触れるだけの優しい口づけを何度も交わしては吐息を交換し合う。
キースの少しだけ強引なに絹水はドキドキが止まらなくなる。いくら抱き合ってもキスをされてもその先は望めないとしてもそれでも十分すぎるほど満たされていた。
「……そばにいてくれ」
耳元に吹き込まれたのはキースらしくない縋るような子どものようなわがまま。
「もちろんよ、ここにいるわ。目の見えないわたしをそばに置いてくれるならずっとここにいる」
盲目だからできることがある。目が見えていたら決して言えないようなセリフだって簡単に言えてしまうのだ。どれだけひどい顔をしていても、自分には見えないのだから。
「キース、あなたしかいらないわ」
その先に待っているのが地獄でもいい。どんなに苦しい状況でもキースと一緒ならば乗り越えられる気がするから。