悪夢に恋した


 母親の付き添いのもと、絹水はペガサスが主催した賞金マッチに来ている。人の気配と歓声の大きさに圧倒されながらも、絹水はとてもわくわくしていた。初めて生で聴くデュエルの実況に興奮していたのだ。
「しかし、あのバンデッド・キースでしょう。いくらペガサスでも勝てるのかしら?」
「バンデッド・キースはそんなに強いひとなの?」
「彼は全米チャンプよ。実力はかなりのもの、それに彼が参加した大会では必ず賞金を総ざらいしていったから、バンデッド・キースと呼ばれているのよ」
 母親の言葉に絹水は口をつぐむ。そんなすごいひとがデュエルモンスターズの生みの親に勝負を挑むなんて。歓声がさらに大きくなって絹水の耳に届く。
「始まるわよ」
 母親の声に自然と背筋が伸びる。実力者同士の戦いがひしひしと皮膚を刺すように感じる圧。たとえ目が見えなくたってこの圧は絹水を圧倒する。
 それから固唾を飲んでデュエルの行く末を見守ろうとしていた。しかし、キースと戦うことになったのはデュエル未経験のトムという少年だった。
 困惑する観客をよそにデュエルが始まり、最終的にはトムの勝利で幕を下ろした。
「トムの勝ちデース!!」
 ペガサスの声に会場が揺れんばかりの歓声に包まれる。未経験の少年が全米チャンプに勝ったのだ。とんでもない金星に観客は歓声を上げ、踊り狂い、手を叩いて喜んだ。母親も手を叩いて喜び、歓声を上げている。誰も彼もが小さな英雄に賞賛の声を惜しまなかった。
 けれど、絹水が惹かれたのは歓声を上げる人々でもトムでも、ましてや主催者のペガサスでもなかった。敗者となったキースその人だった。
「ママ、わたしトイレに行ってくるわ」
「え、えぇ。絹水ひとりで大丈夫?ついて行こうか?」
「平気よ。場所はさっき覚えたからひとりで行けるわ」
 白杖を片手に絹水は座っていた席を離れた。トイレに行くふりをしてキースに会いに行くなんて、いつもなら絶対にしないのに今日の絹水はなんだか変だった。熱に浮かされたような、それでいて夢の中をふわふわ歩いているような感覚だった。
 こつこつ、周囲を確認しながら廊下を進む。直進したら出口、右に曲がればトイレというところまで来て絹水は誰かとぶつかってしまった。
「ご、ごめんなさい」
「あぁん?何ぶつかってんだクソガキ」
 低く唸るような声に身体がすくむ。だけど、この声の主が絹水が探していた人物だ。
 バンデッド・キース、本名はキース・ハワード。
 一度彼と話をしてみたかった。その声にひどく惹かれてしまったから。
「すみません、今度から気をつけますから」
「オレは今機嫌が悪ィんだ、そこをどけろ」
「は、はい」
 端によけようとして絹水は再び彼にぶつかってしまった。向きを誤ってしまって、今度は尻餅をつく。彼はきっと頑丈だ。
「舐めてんのか、オイ」
「ち、違うんです。目が見えないので、方向がわからなくて……」
 次第に不穏な響きを帯びていくキースの声に絹水の身体が動かなくなる。これは危ない。急いで離れなくてはいけないのに、身体が言うことを聞かない。相手は大柄な、少なくとも絹水よりも背の高い成人男性で、彼女はアメリカでは比較的小柄な部類の身長だ。そして目が不自由で走れない。きっと彼からは逃げ切れるわけがない。次第に不穏な響きを帯びていくキースの声に絹水の身体が動かなくなる。これは危ない。急いで離れなくてはいけないのに、身体が言うことを聞かない。そう思った瞬間に、絹水の頭の中に何かが浮かぶ。
 それはいつかの記憶だった。
 幼い絹水が父親と一緒にいたときのことだ。父親が仕事の都合でニューヨークに来た時、一緒に食事をしたことがあった。父親はあまり料理が得意ではなくて、お世辞にも美味しいとは言えない料理を食べていた。そんなとき、たまたま同じ店にいたバンデッド・キースと出くわしたのだ。その時も幼かった絹水は彼とぶつかり、殴られそうになったところを父親に助けられたのだった。
「君!そっちは立ち入り禁止だ!」
 係員に呼び止められて絹水は腕を掴まれる。
「あ、えぇと、自分の席がわからなくなってしまって……」
「チケットは持っているかい」
「首から下げています」
 その隙にキースはどこかへ去ってしまったようだった。もう少し彼と話をしたかったのに。
 絹水は係員に連れられて母親が待つ席に戻った。外の世界を絹水は知らない。知っているのは母親が連れていってくれる小さなコミュニティだけ。
 家族はいてくれるけれど、絹水はずっと寂しかった。気を許せる友達が欲しかったけれど、自由に出歩ける身ではなかった。
「絹水!だから一緒に行くって言ったでしょ!」
「ごめんなさい、ママ。道に迷っちゃったの」
 母親に連れられてタクシーに乗り家に戻る。自分の部屋に戻ってから絹水はラジオをつけた。デュエル中継をよくしているお気に入りのチャンネルに周波数を合わせたが、今日はあいにくどこも大会をしていないようだった。
 代わりにクラシックを流しているチャンネルに切り替えて、しばらくキースのことを考えながら過ごした。
 それから数日。絹水はあの日のことを何度も思い出すようになった。キースの声が耳から離れず、あの時の音を鮮明に思い起こしてしまう。
「どうしよう、ママ。わたしキースさんに会いたい」
「どうして?まさかファンになったの?」
「うん、そうみたい……」
 ほうとため息を漏らす絹水に母親は厳しい声で反対した。
「ダメよ、彼に会いにいっては絶対にダメ。悪い人達と連んでるって噂よ」
「でも、ママ」
「絹水、わかってちょうだい。あなたは目が見えなくて、ひとりで出歩くことだって危険なのよ」
 母親の言葉に絹水は黙り込んでしまう。
 絹水は盲目だ。盲導犬だって貸与されていないので日常生活を送るだけでも大変だ。
 白杖がなければろくに前に進むこともできず、段差があればすぐに転ぶ。一人で外に出るなんてとんでもないことだった。だけど、それでも絹水はキースに会いたかった。会って話してみたかったのだ。彼の声は絹水が今まで出会ったどんな人間とも違っていた。絹水はこんなにも誰かの声に惹かれたことは初めてだった。
「ねぇ、ママ」
「なぁに?」
「わたし、少し出かけてくるわ」
 夕飯時、夕食の支度をしていた母親は白杖を片手に出かけていく娘を見送ることしか出来なかった。
 キースに会いたい。それだけだった。
 彼の居場所はわからないけれど、危ない人たちが集う場所ならいくつか知っていた。そこに彼がいるといいのだけれど。絹水は人混みの喧騒に紛れながら歩いた。白杖をつきながらでは歩きにくいけれど、誰かにぶつかってしまうよりはマシだ。
「……お前、あの時のクソガキか?」
「え?」
 声をかけられて絹水は足を止めた。どこから声をかけられているのか見当がつかない。周りは音だらけで絹水の集中力を奪ってしまう。
「キースさんですか?」
「……やっぱりあの時の女か」
「よかった、ちゃんと会えた」
「は?」
「わたし、会いたくて来たんです」
「……なんなんだ、テメェ」
「絹水です」
「…………チッ」
 舌打ちをして立ち去ろうとするキースに絹水は必死に声をかけた。ここで彼を逃したらもう二度と会うことができないかもしれないと思ったから。
「あなたに会いたくて来たんです。……ペガサスさんとの賞金マッチからあなたのことが忘れられなくて」
「頭おかしいのか、お前」
 キースの言う通り頭はおかしいのかもしれない。会える確証なんてない人に会うために家を飛び出して来たのだから。
「お願いします!少しでいいからキースさんと話がしたいんです!」
「うるせぇ、消えろ」
 絹水は白杖でキースの足下を叩いた。彼は驚いたように飛び退いた。
「何しやがんだ、このクソアマ!」
「絹水です。ちゃんと名前を呼んでください」
 頑なによけようとしない絹水に根負けしたのはキースの方だった。彼は面倒くさそうに大きなため息をつくと、絹水の手を掴んで引っ張り上げた。
「ついてこい」
 しばらくキースに手を引かれて歩いた後、カビとアルコールの匂いがする場所に連れてこられた。ここがどういうところなのか想像がついた。ここはきっと賭博場だ。
「おい、クソメガネ。ちょっと来い」
 キースは誰かを呼んだようだ。しばらくして足音が近づいてきて、立ち止まった。
「キース、誰だその女は」
「気にするな。酒持ってこい」
「へいへい。なんだ、今日はその女を賭けるのか?ポーカーでもするか?」
「しねェよ」
 キースは男を追い払ったようだった。そして絹水の手を引いて部屋の隅へと移動する。
「それで、本当にオレと話をしたいだけなのか?」
「はい。お話しできたらと」
「話なんかできるわけがないだろうが」
 キースは苛立った様子で絹水の方にグラスを置く。それから氷を入れて飲み物を注ぎ入れた。
 絹水は彼の顔に触れたくて、彼の方へ顔を近づけようとする。
「触んな」
 しかし、キースに拒まれてしまう。
「どうして?」
「気色悪いんだよ、お前」
 キースの言葉は冷たくて、絹水の心を傷つけた。だけど絹水はめげずにキースの服の裾を掴んだ。
「キースさん、わたしの目を見て」
「なっ、何を……」
 キースはかさついた指先で絹水の顔に触れてきた。絹水は自分の目を閉じていたけれど、キースの指先が触れたところに感覚があるような気がした。
 手をさまよわせてから、ようやくキースの手を探り当てた。かさかさとした大きな手。父親の手とも、知っている誰の手とも違うそれ。
 ようやく彼の顔に触れると見えていないけれど、彼の顔が見える気がした。
「……お前、もしかして目が見えないのか?」
「はい。生まれつき、何も見えません」
 キースは呆然としていた。絹水が盲目だと知って驚いているようだった。
「どうしてそんなヤツがこんなところに来てるんだ」
「キースさんに会いたくて来たんです」
「……ふざけてんのか」
 キースの声が震えている。彼の声は怒っていても、悲しんでいてもよく通って聞こえた。
「本当です。わたしにはキースさんのことが忘れられなかったんです」
「なんでだよ」
「わかりません。ただ、あなたがとても素敵な人だってことはわかるんです」
「意味わかんねぇ」
 キースは絹水を突き放すと、テーブルの上に腰掛けた。足を組み絹水を品定めするように眺めているが彼女は気づかない。
「あの、座っても大丈夫ですか?」
「あぁ、もう好きにしろ」
 絹水はキースの隣に腰掛けると、キースの腕に手を伸ばしてみる。絹水よりもずっと太くて、筋肉質な腕だった。
「キースさんはいつもここにいるんですか?」
「お前みたいなガキが来るとこじゃねえから帰れ」
「帰りません、嫌です」
「このクソガキ……」
「キースさんのこと、教えてください」
 絹水は恐る恐るキースの膝の上に乗って、彼に抱きついてみた。彼の身体が強ばっているのがよくわかった。「わたし、キースさんともっと仲良くなりたいです」
「やめろ、離れろ!」
「どうしてですか?」
「……お前、自分が何してるかわかってんのか?」
「えっと、キースさんに甘えてます」
 キースの心臓の上に耳を寄せてみる。激しく脈打っている。彼の鼓動を聞いているとなんだか幸せな気分になった。
「キースさん、いい匂いがしますね」
「嗅ぐな!」
 キースは絹水の肩を掴むと、自分の上から引き剥がす。そして、乱暴に彼女を床に押し倒した。
「いい加減にしろ!!」
 怒鳴られて、頬を叩かれた。痛かったけど、それよりもキースが自分に触れてくれたことに喜びを感じていた。
「どうしてお前はそうやってオレに近づこうとするんだ!そんなことされても嬉しくねぇんだよ!」
 キースの怒号は絹水が今まで聞いたどの声よりも恐ろしかった。けれど、それと同時にひどくときめいてもいた。はじめての感覚に、彼女もまた戸惑っているのだ。
 キースがいた場所から小さな部屋に連れてこられた絹水は背もたれのない椅子に座らされた。強い力で肩を掴まれ、大きなため息をつかれる。酒臭い息が吹きかけられて、絹水は思わず目を閉じる。嗅いだことのないきついアルコールの匂いだ。
「本当にテメェはバカなのか?」
「バカでもなんでもいいです。あなたに会いたかったんですから」
「バカの一つ覚えみてェにそうやって言うけどよ、オレが落ちぶれたところを見に来たんじゃねぇのかよ?」
 キースの声があの時のように剣呑な響きを帯びる。彼がどんな表情をしているのか絹水にはわからない。けれど、きっと怒りに歪んでいるであろうことは何となくわかった。
「あなたのことはあの賞金マッチで初めて知りました。……あなたの声で好きになったの」

「目が見えねェくせにオレみたいな奴を好きになるなんてもの好きな奴だな、テメェはよ」
「……あなたの声が好きなの」
「へぇ? オレの声が好きってか……。まぁ、悪くはない声だって言われてっけどな」
「ええ、とても好き。今まで聞いた誰の声よりも好きだわ」
 絹水がそう言った途端、キースの手が乱暴に彼女の顎を掴む。ぐいと持ち上げられるような形になり、絹水は痛みで顔をしかめる。
「口だけは達者なんだなァ、お嬢ちゃん」
「…………」
「そんなにこのオレが気に入ったんならよォ、身体まで使って慰めてくれるんだろ?」
 絹水は小さく唇を開いたまま黙っていた。キースの言葉の意味がわからなかったからだ。彼は絹水を抱きしめようと手を伸ばしたのだが、絹水の手がそれを遮る。彼の手を掴み、自分の頬に当てさせる。
「……誰かを好きになったことはある?」
「は?何言ってんだ、テメェ……」
「わたし、まだ恋をしたことがないの。だから、よくわからないんだけど、こうやって触れ合うことで何かが生まれる気がするわ。あなたの顔が見れない分、触れていたいの」
 絹水は自分の胸元に手を当てた。どくん、どくんという鼓動を感じる。心臓が動いているのだ。その事実に絹水はひどく安心した。
「……オレのことが好きなんじゃないのかよ」
「うん、好きよ。大好き」
 絹水の返答にキースは何も言わずに舌打ちをする。そして、絹水の腕を引っ張った。彼女は椅子ごと後ろに倒れ込む。倒れた衝撃で後頭部を強く打つ。痛みを感じた直後、唇を奪われる。
 荒々しくキスをされながら絹水は彼の背中に腕を回して抱きついた。
(わたし、今キスをしているんだわ)
 何度も夢見てきた感覚。
 絹水はそれを確かめたくて必死だった。彼の体温を感じたい。彼に触りたい。そう思って彼の服の中に指先を入れようとした瞬間、キースの動きが止まる。彼から放たれている殺気のようなものを感じ取った絹水はびくりとして動きを止める。
「……もういいだろ。これ以上は冗談じゃ済まねェぞ」
 キースの声が低くなった。その言葉が何を意味しているのかは絹水にもすぐにわかる。絹水はぎゅっと目を閉じた。涙が出そうになる。それでも泣かなかった。
「……ごめんなさい」
「Shit!!テメェみたいなガキ相手にするつもりはなかったのによ!」
 キースは苛立たしげな声を上げて舌打ちをした。彼の顔を見る勇気がない。怒らせてしまったかもしれないと思うと怖かった。
「オレはお前なんか嫌いだ」
「……えぇ」
「大体、オレのこと何も知らねぇくせに好きとか言いやがってよぉ……。どうせ目が見えないから同情でもしてんだろうが!オレは同情なんかいらねぇんだよ!!」
「違う、そんなつもりじゃないわ。ただ、あなたに触れたくて」
「あー、うるせぇ!!そういうところがムカつくんだっての」
 キースは吐き捨てるようにそう言うと立ち上がる。足音が近づいてくる。殴られるだろうかと思ったが、予想に反して彼は絹水の上に覆いかぶさってきた。何をされるかわからなくて身を硬くしていると、再び口づけられる。今度は優しいものだった。
「……テメェの身体も心も全部オレに寄越せ。代わりにオレの心はくれてやるからよ」
 耳元で囁かれたその言葉に絹水は思わず泣きそうになった。キースはそんな彼女を抱きしめるとそのままベッドへと連れて行く。そして、乱暴に衣服を脱がせると彼女の首筋に噛み付いた。
 翌朝、目覚めた絹水は隣にいるはずの男がいないことに気がついた。
 慌てて飛び起きる。辺りを見回すが誰もいない。外の音を聴くに朝のようだった。小鳥が鳴いている。
「……キースさん?」
 彼の名前を呼ぶが返事はない。まさか帰ってしまったのではないかと不安になる。
「起きたか、とりあえず帰るぞ」
「え?」
「家に帰るんだろ?」
「……嫌、帰らないわ」
「あん?」
「帰りたくないの」
 絹水の言葉にキースは呆れたようにため息をつく。それから絹水の隣に腰掛ける。
「あのなぁ、ここはテメェみてェなガキがいていい場所じゃねェんだ」
「わかっているわ」
「わかってねェよ。ここがどういう場所なのか本当に理解してんのか? テメェみてェな奴がいちゃいけねェところなんだ」
「どうして? わたし、ここにいたいわ」
「ふざけんな」キースは絹水を押し倒す。そして、彼女の両手を押さえつけたまま言った。
 絹水は怯えたような表情を浮かべる。キースは舌打ちをした。
 絹水の目が見えないことを良いことに彼は乱暴な態度をとる。それこそ、彼女が抵抗できないのをいいことに。その証拠に絹水は震えていた。
 そうすれば、この人の優しさに気づくこともなかっただろうに。キースは絹水を殴ったり蹴ったりしなかった。その代わり、絹水にキスをする。羽のような触れるだけの軽いものだ。そして、舌打ちをして絹水から離れる。
 絹水が泣いていることに気づいたからだ。
 キースは困った様子で頭を掻く。それからタバコに火をつけた。
 絹水はその行動の意味がわからず戸惑う。キースは絹水の髪を撫でながら呟く。
「帰りたくねェってことはオレんとこに来るってことだぞ」
 その声はどこか優しかった。絹水はこくりと小さく首を縦に振る。キースはそれを見てから立ち上がった。
 そして、絹水の腕を掴むと立ち上がらせた。白杖を渡してやると彼女は場所がわからないから歩けないと言った。
「ありがとう……」
「とりあえず服を着ろ。そのままは帰れねェよ」
 キースは絹水に服を着せてやると言った。
 しかし、絹水は着替えがないのでこのままでいいと言う。キースは面倒くさそうな顔をしたが、結局絹水の言うとおりにした。キースは絹水を連れてそれまでいた場所を出る。それからタクシーを捕まえると自宅まで戻った。
「着いたぞ」
 キースの自宅はさびれたアパートだった。その一室にある部屋の前まで来るとキースは絹水の手を引いて中に入る。白杖をつく度にカシャンと音が鳴る。瓶か何かにぶつかるような音だ。
「テメェは風呂に入ってこい」
「お風呂場の場所がわからないわ」
「ったく」
 また舌打ちを一つしてからキースは絹水の腕を掴む。引きずられるようにして歩きながら彼はバスタオルとフェイスタオルを絹水の手に押し付けた。
 絹水は困惑した顔でキースを見る。キースは気にするなと言って彼女の背中を押した。
 絹水は言われた通りに服を脱ぐと浴室に入った。それからシャワーを浴びる。アルコールとタバコの匂いがした。きっと、キースの習慣なのだと思う。
 彼が何をしている人なのか絹水にはよくわからなかった。年齢も知らない。
 だが、絹水にとってそれはどうでもよかった。ただ、彼と一緒にいたいと思った。彼のそばにいたかった。
「シャワーありがとう……気持ちよかったわ」
「おう」
 服はキースが用意してくれていたものを身につけた。ぶかぶかで袖を幾度もまくらなければ手が使えないほどだった。
「これ、大きすぎない?」
「あー、悪ィな。オレのだからよ」
 キースはそう言ってから立ち上がると冷蔵庫を開ける。それからカシュッと缶を開ける音がした。
「何か飲むか?」
「……えぇと、お水でいいわ。お酒飲めないの」
「へえ、未成年か」
「19歳よ」
 キースは水道の水を出すとそれを持ってきて絹水に手渡した。それから絹水の隣に座ると、ふわりとタバコの匂いがする。
「未成年のガキがなんでオレを好きになったんだかな」
「ごめんなさい」
「謝んな」
 キースは絹水の言葉を否定するように言葉を重ねた。それからキースは何も言わずに黙り込む。絹水もまた何も言えずに俯いていた。見えない分、彼が何を考えているのか分からないから怖い。
「テメェさ」
 しばらくしてキースは口を開く。そして、絹水の方を見た。ふぅっとタバコの煙を吐き出すと、二本目のタバコに火をつけたようだった。
「盲目なんだろ?」
「うん」
「いつから見えなくなったんだ」
「生まれつきなの」
「そっか」
 キースは再び口を閉ざす。それから絹水はぽつりと呟く。
「ずっと家に一人だったの。ママはパパのお手伝いでずっと忙しくしているし、パパは企業のマネージャーで世界中を飛び回っているから。わたしはひとりぼっちだったの」
 キースは絹水の言葉を聞いていないふりをしていた。その方が都合が良いと判断したからだ。
 絹水はそんなキースの様子に気づいているのか気づいていないのかわからないが、言葉を紡ぎ続ける。
 まるで独り言のように。
 キースは聞こえているけれど、無視をした。聞いているけど、答えなかった。
「15歳でアメリカに来たけど友達なんて一人もできなかったわ。目が見えないから、外に出ることもあまり許されていなかったの」
「そうかよ」
 キースは短く答えると絹水の頭を撫でてやる。絹水はびくりとしてからキースを見上げた。キースは優しい声で言った。
 絹水は自分がどんな顔をしてキースのことを見ているのかわからず、視線をさまよわせる。すると、自分の足にぶつかった。キースは絹水を抱きしめるとベッドに寝転がる。
 絹水は驚いて目を見開いたまま固まってしまった。キースはそのまま絹水の耳元で囁く。
「今は一人じゃねェだろ」
 その声はどこか優しかった。
 絹水はキースに身を委ねるように目を閉じた。彼は絹水の髪にキスをする。絹水はそのことに驚きつつも、抵抗はしなかった。キースの腕の中でじっとしていた。
 彼の腕の中は心地よかった。絹水はキースの胸板に触れてみる。筋肉質な身体だった。
 キースは自分の胸に手を触れてきた絹水の行動に少し驚いた様子を見せたものの、絹水の髪を撫でた。絹水はキースに抱きつくようにして頬を寄せる。
 心臓の音がよく聞こえる。生きている音だ。
 絹水はキースの腕の中にいた。キースは絹水のことを抱き締めていた。
 絹水は彼のことを見上げると唇を開いた。キースの鼓動が早くなる。
 絹水はゆっくりと瞳を閉じる。
 キースは絹水の顔にかかった髪の毛を払うと、そのまま絹水に口づけた。
「とんでもねェクソガキだな」
「クソガキじゃないわ。絹水よ、何回も言ってるでしょう」
 絹水はキースを睨みつけた。キースは彼女の言葉を無視して、ベッドから降りた。冷蔵庫の中から缶ビールを取り出すして、プルタブを開けると一気にそれを煽った。
 そして、再び絹水に口付ける。今度は深く口付けた。
 絹水はキースの舌を受け入れると、自分から絡ませる。キースはそれに応えるように絹水の頭を押さえた。
 絹水はキースの腕を掴んで必死にしがみついている。キースはそれを気にせずに、絹水の後頭部を掴むとさらに深いところまで侵入させる。
「んっ……」
 絹水が苦しそうな声を上げた。だが、キースは絹水を解放しようとしない。絹水は息が続かなくなって、キースの背中を叩く。キースはようやく絹水を解放すると、絹水は肩で呼吸をしながらキースに寄りかかる。
「ファーストキスだったのに、ずいぶん情熱的ね」
「ハンッ、ビールの味のキスかよ」
 そう言いながらキースはもう一度絹水をベッドへ押し倒した。