秋桜はイヴになりたかった


「ハロー、ミス・絹水」
独特のイントネーションで耳に吹き込まれる声には聞き覚えがある。ペガサスだ。
決勝戦が終わるまで部屋で待っているようにキースから言われていたけれど、もう終わったのかしら?
わたしは複数の足音があることに気づいて、顔をあげる。キースが戻ってきたのかもしれない。優勝してきっと二人でどこかへ行く報告をしにきてくれた、とすっかり思い込んでしまっていた。
「こんにちは、ペガサスさん。何かご用ですか?」
誰かが囁く声が聞こえる。わたしは周囲の物音には誰よりも敏感だ。見えない分聴覚が発達しているから。
「……失礼。目が見えないのでしたね、ミス・絹水」
「えぇ。生まれつきですから、なんとも思わないけれど。それよりもキースはどこに?彼がいないと部屋から出られないわ、蘭に会わせてくれるって言ってたのに」
「キース・ハワードは死にました。ユーのことは責任を持ってご家族の元へお送り致しマース。さらわれてきたのでしょう」
残酷に告げられる言葉がわたしはにわかに信じられなかった。理解を拒否した頭が麻痺したようにじんじんする。
死んだ?
キースが? そんなことあるはずないわ、だって彼は強くて強引だけれどちょっぴりやさしくて、そんな悪いことをするひとではなかったはずなのに。
きっとこの人は嘘を言っているんだわ。
「私は嘘など言っていまセーン」
「っ!!」
「決勝戦が終わるまでユーと蘭を会わせるわけにはいきません。蘭が危険な目に遭うかもしれないでしょう」
「うそよ……なんで、キースが死ななければいけないの……?」
わたしの言葉に答えないまま、ペガサスは部屋を出て行った。
キースがいなくなった。
どうして?
死んでしまったから。あんなに元気だったのに、どうして?
キースは何も知らなかったわたしに世界を教えてくれたひとだった。知らない歌、知らないこと、はじめての恋だって彼が教えてくれたのに。
まだちゃんと好きだって伝えていないわ。
約束だって果たしてくれてないのに、この広いお城じゃ一人で蘭に会いに行くことだって出来ない。
「……キース」
ふらふらと杖を片手にわたしは立ち上がると、こつこつと足元を確認しながら扉まで移動した。とにかく外の空気が吸いたかった。
キースが教えてくれた海風の匂いを感じて、気持ちを落ち着けたい。記憶を頼りになんとか外に出ると、ふわりと薔薇の香りが鼻をくすぐった。
昨日、彼と来た時には感じなかったかすかな潮の匂い。海が近いのかもしれない。
匂いと白杖を頼りにわたしは進んだ。途中で何度かつまずいて転んだけれど、乱暴にでも起こしてくれる手はもうなかった。
そばにいてくれるのが当たり前だったのに、いなくなってその存在の大きさに気づくなんてわたしは愚かすぎる。どれだけキースに支えられていたかなんて、わかりきっていたのに。
「絹水姉さん?」
「え?」
声をかけられてわたしは足を止めた。優しく低い声は知っているそれと違うけれど、耳に馴染んだ呼ばれ方に見えない目線の向こうにいるひとを悟った。
「蘭? ……蘭、なの?」
「うん。やっぱり絹水姉さんだ。……ペグがキースが連れてきた盲目のひとがいるっていうからずっと気になってたんだけど。生きてたんだね、よかった」
からからと音がしてから冷たい手がわたしの手に触れる。大きくて少し骨張ってきた男のひとの手。蘭の手だった。
「蘭……会いたかったのよ」
「なかなか行けなくてごめんね。オレ主催者側だからさ、あんまり参加者に会うなって言われてたんだよ。何かあるって思われたらおしまいだから」
「そうだったの……でも、会えてよかったわ。成長したあなたに会えた」
「うん、オレも会えて良かった。……じゃあ、絹水姉さん。オレ、そろそろ戻らないと」
「え、……えぇ、またね」
そう言って冷たい手がするりと解けていった。お別れの言葉は言えなかった。
わたしが知っている蘭とは違う子になってしまったみたいで、ちょっと悲しかった。あんな風に話すようになったのね、なんてノスタルジーに浸ってみる。
蘭は蘭で生きる世界を見つけたのかもしれない。わたしが手をかける必要もなくなって、一人であるいは誰かと生きていく道を見つけたのかも。そうやって考えると、わたしの手元になんて何も残っていなくてあったのは全部キースがくれたものだった。
彼のようなひとがわたしみたいな目の見えない人間を連れて歩こうと思ったのかはわからない。けれど、その時間はわたしにとっては楽しくてたまらなかった。聴いたことがない音、嗅いだことのない匂い、感じたことのない気持ち、たくさんの人の気配。今となってはどれもいい思い出で、だけどわたしの胸に息づいた気持ちはこれ以上進展することはない。
だって、キースは死んでしまったのだから。
相手がいなければ進展しない気持ちなんて、持っていても苦しいのに消せそうにない。一緒にいた時間は短いのに、濃密でたくさんのことを教えてくれたから。
あてもなく歩いていたら呼び止められる。
わたしはお庭のかなり奥まで歩いていたらしかった。
「どこへ行く、この先は立ち入り禁止だぞ」
「ご、ごめんなさい」
「……自分の部屋がわからないのか」
「海に行きたいんです、潮風に当たりたくて」
わたしを呼び止めたひとは目が見えないことを知っているのか、手を引いて海まで連れて行ってくれた。濃い潮の匂いがする。
気づけば周りにひとの気配はなくて、寄せては返す波の音が絶え間なく聞こえて来るだけ。
わたしを連れて歩いてくれたひともういない。愛の言葉なんてくれなかったけれど、キースがくれた言葉は全部わたしの胸にしまってある。この思い出を抱えて、この先を生きていくなんてわたしには無理だ。
唯一気がかりの蘭だって自分の居場所を見つけたようだった。わたしの可愛い従兄弟は立派に成長したのだ。歩けなくなったと聞いた時にはひどく心配したけれど、もうその心配もいらない。
砂浜を進んでいけばちゃぷんっと冷たい海水に触れて、波打ち際まで来ていたことを知る。
キースはどこで死んだのだろうか。
「キース」
名前を呼んでも返事はない。もう一度名前を呼んでほしいのに、彼はこの世にいない。死んでしまったわたしの初恋のひとはもうどこにもいない。
「キース、返事をして」
波音を聴きながらわたしはゆっくりと歩き出した。このまま、彼に会えないならわたしが会いにいけばいい。
ママ達を心配させた悪い子のわたしが行く先なんて地獄に決まっている。キースだって悪いことをしてきたから上手くいけば閻魔さまの前で会えるかしら。
「ねぇ、キース。地獄でもわたしを見つけてくれる?」
冷たくなっていく身体も、遠くなっていく意識もキースに会える期待に比べたらどうってことはなくて。この世にいとまを告げる最後の時、浮かんだのは大好きな従兄弟の顔でも両親の顔でもなくて、わたしに恋を教えてくれたキースの顔だった。