Episode.1
程よい音量でゆったりとしたクラシック音楽が流れる店内は、嗅ぎ慣れたコーヒーの香りが心地よく充満している。
昼時の混雑ピークを越えた今、店内には三人のお客様がそれぞれの席で思い思いに寛ぎの時間を過ごしていた。
時間がゆっくり流れていくような、このひと時が好きだった。
そんな私の至福の時は、思いもよらない事態によって終わりを告げる。
マスターから「休憩に行っていいよ」と声を掛けられ、一度裏へと引っ込もうかと思った矢先、カランとドアベルを鳴らして入って来た一人の男性客。
「いらっしゃいませ」
相手の顔を見るなり笑顔で言葉をかけると、彼はいつもの爽やかな笑みを浮かべて私の目の前のカウンター席まで迷いなくやって来た。
椅子を引いて腰を下ろしたかと思えば、私が声を発するより前に、さっと一輪のバラが視界に飛び込んだ。
「はい、これどうぞ」
穏やかな明るい声音でそう言って、驚いて目を丸くする私の瞳を人懐こい笑顔で見つめる。
「高嶺さん…なんですか、これは…」
「見てわかるでしょ、バラだよ」
当然のようにそう返す彼と目の前のバラを、私は状況を理解しようと交互に見つめ返した。
バラ、と一言で言っても、私が真っ先に思い浮かべる赤いバラとは違う。
差し出されたそれは、色鮮やかに青く美しく咲き誇っていた。
「青いバラ…ですか」
「ブルーローズ、綺麗だろ。白井(シライ)ちゃんに貰って欲しくて、こんなに綺麗に咲いてるんだよ」
「…一体何人の女性にそう言うことを言ってるんですか」
「白井ちゃんにしか言ったことないけど。ほら、受け取って」
「申し訳ないですけど、受け取れません」
「え〜、どうして」
「仕事中ですし…、どうして私にバラなんてくださるんですか」
「男が女性に花をプレゼントするなんて、愛と下心しかないでしょ」
大真面目に彼は偏見を述べると、綺麗に整った顔に悪戯な笑みを浮かべた。
ネイビーのスーツに身を包んだ彼は、職業不詳、年齢不詳、配偶者、恋人の存在…不明。
顔を見せる度にスーツだったり私服だったり、作業着を着ていることもある。
まさに今日という日に二十七歳の誕生日を迎えた私よりも、表情や服装で年上にも年下にも見えるのだから、不思議なものだ。
彼のことで分かっていることと言えば、高嶺(タカミネ)という苗字と、ここ、喫茶Blue Cloverの常連客だということだけ。
要するに、彼のことなど何も知らないのだ。
「高嶺さん、下心とか平気で言っちゃう人から突然花なんて渡されて、すんなり受け取ると思いますか」
「まじか、だめなの?じゃあ、今の無しで」
「もう遅いですよ」
白い歯を見せて屈託のない笑顔を向ける高嶺さんの姿に、私は呆れたように息を吐き出した。
この人は、私のことをからかっているのだろうか。
思い出したかのようにふらっと店に来ては、少し会話をする程度。節度的な距離を保ったお客様と店員の関係だった筈だ。花を貰うような関係ではないと断言できる。
「おお、すげぇ、青いバラだ。初めて見た。高嶺くん、意外とロマンチストなんだね」
どうしたものかと困っている私の横に、ひょっこりとマスターである増永(マスナガ)さんが現れた。
目尻に薄っすらと笑い皺を刻んで、高嶺さんの手の中にある青いバラをまじまじと見つめている。
まだ三十代後半のマスターは、清潔感ある短い髪に、お洒落な顎髭を生やした男性だ。髭はマスターのお祖父様からこの喫茶店を継いだ時に生やしたらしい。
以前髭について尋ねた時に、『あった方がマスターっぽいだろ』と言っていたのを思い出した。
「白井、せっかくだから貰っておけよ。花に罪はないぞ。空いてる花瓶あっただろ、使っていいから」
何か助け舟をくれるかと思ったら、マスターはどうやら高嶺さんの味方らしい。
いや、お花の味方、なのかもしれないけれど。