Episode.1



ほんのり甘くて温かなミルクに安心して
わたしは穏やかな眠りにつくの。
ふたりの距離が、確かに縮んだあの日の記憶を抱きしめて。





葵の瞳の色が黒いって気が付いたの、いつだったかな。

眠れない夜にホットミルクが飲みたくなるのは、なんでだったっけ。

ベッドに横になっていた雛はこの夜何度目かの寝返りを打って仰向けになると、暗い部屋の天井を見つめた。
何度寝返りをしても、眠れそうになかった。
間接的に葵に振られたあの日から、こうして眠れない夜が突然訪れる。

明日はとうとう西園寺邸に帰ることが決まっている。
春休みが終わるからだ。
雛は夜の闇を閉じ込めるようにゆっくり目を閉じると、瞼の裏で愛しい執事の顔を思い浮かべる。

やっぱり、全部あの日からだ。
葵が“私”の、執事になった日。





こんこん、と静かなノックの音が部屋に響くと、自室のティーテーブルを前にちょこんと椅子に座って本を眺めていた雛は、そっと顔を上げた。

「……どうぞ」

控えめな声でノックに答えれば、部屋のドアが開く。
「失礼いたします」という低い声と共に、見慣れない人物が室内に入って来たことに雛は驚いて躰を硬直させた。

「本日からお嬢様の身の回りのお世話をすることになりました、柏木葵と申します。何度かお顔は合わせていましたが、はじめまして……と言った方がよろしいでしょうか」

表情を一切変えることなく黒いスーツに身を包んだ長身の男が、美しく整った顔で躰を固くしている雛を見つめていた。

暫くの間言葉も発せず葵を見上げていた雛は、手元にある児童文学書に視線を落として手をもじもじと落ち着きなく動かした。

「あ、の……」

聞こえるか聞こえないかの小さな声で呟き、言葉を詰まらせる。
この春から小学六年生になるにしては全体的に幼い印象を与える雛の様子を見て、葵は何かに気付いたように彼女の前に跪いた。

「失礼しました。いきなりよく知らない男が部屋に入って来ては驚きますよね。お父様からお嬢様の専属として使えるよう申し付かった執事の柏木です。何か気になることがあれば、なんでも仰ってください」

急に目線が自分より下になった執事を見つめ、雛は目を瞬いた。
近くで顔を見たことで、思い出した。
三、四年前に一度だけ、父の拓郎に紹介された人物だ。
屋敷内でも何度か姿を見かけたことがある。
あの時よりずっと大人っぽくなっているせいで、気が付かなかった。

「か……柏木、さん……」

「柏木……と、呼び捨てください」

そう言われて再び雛は口を噤むと、不安気に俯いた。

高校入学と同時に西園寺邸で使用人として働き始めた葵は、その優秀さと貢献を認められて高校卒業と共に“西園寺の執事”となった。
この若さで執事の階級を手にし、雛の専属として選ばれたのは、葵を信頼している拓郎からの頼みとして、ふさぎ込みがちな彼女の傍で支えになってあげてほしいというものが大きかった。
本来拓郎には大学進学を進められていたが、葵の強い希望で働くことを選択した。

他の使用人たちから聞いていた通り、怯えるような雛の表情はどこか他人への距離を感じさせる。
学校も休みがちで部屋に閉じこもっているというのは、本当のことらしい。

「……葵」

低く艶めいた声がそう鼓膜を揺らすと、俯いていた雛は再び自分の前に跪いている執事に視線を向けた。

「柏木が呼びづらければ、葵とお呼びください。どちらでもお嬢様のお好きなように」

表情は一切変わらないものの、気遣うような穏やかな口調に雛の緊張は僅かに和らぎ、小さな唇を一度きゅっと結んだ。
そうしてどきどきと心臓の鼓動を速めながら、躊躇いがちにゆっくりと唇を動かした。

「あお、い……?」

「はい、お嬢様」

口許に薄っすらと笑みを浮かべて自分の呼びかけに答えた執事の姿に雛はほんのり頬を赤らめ、恥ずかしそうにそっと微笑んだ。

その柔らかな笑顔がこの日、憂鬱だった葵の心を静かに解していたことを彼女は知らない。

「……これからよろしくお願いいたします、雛お嬢様」





  
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