Episode.10



雛はコーヒーの苦みを掻き消すように、葵が予め用意していた一口サイズのチョコレートを口に含んだ。
甘くて濃厚な味わいが口の中を満たしていくのが分かり、やっと気持ちが落ち着いた。

「そういえば私、今日彼と話したの」

仕事の忙しさもありすっかり忘れていたが、この屋敷に来た最大の理由を思い出す。

「彼とは、陽介様のことですか」

「そう。あの人、私が婚約者だって全く気付いてなかったの。そりゃ髪を結んで伊達眼鏡だって掛けてたけど、失礼しちゃうよね」

「一度写真で見た程度では分からないかもしれませんね」

「そうだけどぉ…顔合わせもすっぽかされたし、どうして彼は私との婚約を了承したのかなぁ」

「…さぁ、なんででしょうね」

特に考える素振りも見せずコーヒーを口に運ぶ葵の姿に、雛は唇を尖らせた。
「なんででしょうね」などと言いながら、まるで気にしている様子ではない。

「ねぇ、なんでそんなに興味なさそうなの。私の婚約のこと、そんなにどうでもいいの」

言っていて自分で辛くなった。
執事の葵にとって、雛が誰と結婚しようと関係のないことなのかもしれない。
雛の言葉を受けて葵は静かにカップをソーサーの上に置くと、口許に薄っすらと笑みを浮かべた。

「雛さまの婚約者様がなぜ婚約を了承したのかなど、私は興味がありません」

冷たく放たれた言葉と共に切れ長な鋭い瞳に見つめられ、雛の心臓はどきりと跳ねた。
言葉によるショックからなのか、思いのほか彼の瞳が冷淡に自分を見つめていたからなのかは分からない。

「…そう、だよね…」

「私が興味あるのは、雛さまがなぜ婚約をお受けになったのかということです」

「え…、」

「私は当然、お断りするものだと思っていましたから」

何でもないことのように言うなり再びコーヒーを口許へと運んでいく葵の姿を、雛は呆然としながら目で追った。
なぜ今それを言うのだろうか。

「…でも、貴方…あの時なにも言わなかったじゃない」

「雛さまが決めることですから、口をはさむ道理はありません」

「私が誰と結婚してもいいってこと?」

今にも泣き出しそうな顔で言葉を口にする雛を見て、葵は小さく息を吐き出した。
考える素振りで伏し目がちに視線を横に流すその仕草も、いちいち色気を孕んで雛の心を揺さぶった。

「私が雛さまの提案を受け入れてこの屋敷に来たのは、同じ理由があるからです。私も雛さまの婚約者を見極める為に、ここに来ました。彼が雛さまに相応しい方であるのなら、私は何も反対いたしません」

感情の読み取れない声音で無表情に言葉を紡ぐ葵の瞳を、雛はそっと見つめた。


聞きたいのは、そんな言葉ではないというのに。





  
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