祈り- side加賀美-@


ふと腕に付けた時計を見やる。
時刻は23時を過ぎ、もうすぐ日付が変わりそうだった。

いつものように扉の横に立ち、中にいる主人が出て来るのを待つ。
彼が乃愛様の部屋から出て自室へ戻ると、漸く私の一日の仕事が終わる。


何をするでもなく姿勢を正してそこに立ち続けていると、ガチャリと控えめな音を立ててドアが開いた。
そこから顔だけを覗かせた私の主人である咲弥様が、こちらに視線を送った。

白い肌に中性的な美しいお顔からは、一切の感情が読み取れない。


『…加賀美、今日はもう部屋に戻れ。俺はこのまま一日ここにいる』

「かしこまりました。乃愛様は…?」

『寝てる。明日はいつも通りの時間に食事を運べ。それ以外は来なくていい』

「かしこまりました。それでは失礼致します」

頭を下げて目の前のドアが閉まる音が鳴るのを待ってから、私は顔を上げた。


……こんなこと、今まで一度もなかったのに。


毎日のように乃愛様の部屋に来ても、必ずその日のうちに自室に戻られていた。
明日は乃愛様の16歳のお誕生日だ。それが理由だろうか。

ひやりと、嫌な予感が背筋を撫でた。

でも、まさか。あんなに大切にしてきたはずだ。
乃愛様が来てから、あの方は変わられた。

彼女と一緒にいる時の咲弥様はいつも穏やかで、そこには愛すら感じられた。

この屋敷にいながら一切の穢れを知らず、あの方の寵愛を受けて綺麗なままでいられる彼女を妬ましく思ったこともあった。

それでも、お世話をしているうちに彼女に安らぎをもらい、私自身が救われてきた。

乃愛様の存在が咲弥様の中で大きくなる程に、私への苦痛はなくなり、本当にただの乃愛様付きの使用人として人間らしく生活をすることが許された。

すべて、彼女のおかげなのに。


――――
―――
――



午前7時ぴったり。

乃愛様の朝食のお時間だ。
私は咲弥様と二人分の食事をカートで運び、ドアの前で立ち止まる。

このドアを開けることが、こんなに恐ろしいと思う日が来るなんて。
ごくりと生唾を飲み込み、私はドアをノックした。


「お食事をお持ちしました」

『…入れ』

中から低い声が届くと、私はドアを開いた。


…嫌な予感なんてものは、当たらなければいいとあんなに願っていたのに。


白く艶めかしい素肌を晒して、乃愛様がベッドで四つん這いになりながら甘い声を漏らしている。
咲弥様の手により躰を揺らし、息も絶え絶えに苦しそうに呼吸を乱す。
肌と肌がぶつかり合う音が生々しく室内に響き渡り、今まで見たこともない女の顔で彼女は鳴いていた。


「お食事、こちらに置いておきます」

『…ああ、昼も頼む』

「かしこまりました。失礼致します」

『…加賀美、待て』

踵を返す私の背に、僅かに呼吸の乱れた咲弥様の声が届く。
無意識に躰が強張った。

「…なんでしょうか?」

『……夜は、乃愛の好きなものを頼む。ケーキも忘れずにな』

彼女に腰を打ち付けながら、こちらを見ることもなくそう言った。

その優しさは、どう解釈すればいいのだろうか。

私は主人の言葉に表情を変えることなく、いつも通りの返事を返す。


「かしこまりました、咲弥様」


頭を下げて静かに部屋から立ち去ると、私の躰はがたがたと震え始めた。

…大丈夫、“あれ”は私じゃない。

何度か短い呼吸を繰り返し、自分を落ち着けるように深く息を吸い込んだ。

嫌なことを思い出した。
躰に染み付いた恐怖が消えることは、多分一生ない。

「乃愛様…」

誰にも届くことのない消え入りそうな声で、私は彼女の名前を呼んだ。
純真無垢で無邪気で、この屋敷で唯一美しかったもの。

私と同じ思いをしているのだとしたら、彼女はもう戻ってこない。

あんなに大切にしていたのに、どうしてー…。





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