6
指に付着した粘液を素早くハンカチで拭き取ると、仰向けに横になったまま顔を両手で覆う蓮の方を見やる。
「浅見、起きろ。授業始まるぞ」
「っ…う…ひどいっ、こんなことするなら、最初に言ってよっ…」
「言ったらやらないだろ」
「ずるいよっ…」
涙声で小さく言葉を絞り出す蓮の両手を掴んで顔から引き離すと、蒼井はその表情を確認するように瞳を覗き込んだ。
「いいから泣くのは後にしろ、無駄にしたいのか?ずるいと言われようが、俺はお前が欲しいんだよ。このままここにいるなら、宮藤と上手くいく可能性も逃して、強制的に俺のものになるぞ」
「…な、なによぉ…、蒼井のばかぁ…蒼井のものになんて、ならないんだからっ…」
「ならさっさとしろ」
言うなり掴んでいた蓮の両手を引いて強引に起き上がらせると、蒼井は階段をさっさと下り始めた。
目尻に溜まった涙を拭って立ち上がり、ぎこちない足取りで後を追うように階段を下りる。
教室に向かって前を歩く蒼井の背中へと、蓮はおずおずと言葉を投げかけた。
「ねぇ、待ってよ。さっきの…気持ち悪いよ…、拭きたい…」
陰部に塗られたクリームが、下着にも付着しているような気がする。
消えない違和感をすべて拭い去りたかった。
「だめに決まってんだろ。宮藤の授業に遅れるぞ」
「そんなぁ…」
ぎこちない歩き方のまま教室の前まで来ると、ふと蒼井が何かを思い出したかのように振り返った。
「浅見…、悪いな。実はお前にはかなり不利な状況だ。そもそも宮藤がお前に気付かない限り、アイツは土俵にも上がれない。俺は相当ずるい手でアイツを試してる」
「え…、なに?またよく分からないこと言ってる。ずるしてるの?後出ししないでよ」
「手段選んでられなかったんだよ。まぁでも、わざわざ“今日”っていう絶好の日を選んでやったんだからいいだろ」
「うぅ〜ん、もぉ!ぜんっぜん意味分からないからっ…!」
蒼井の言動すべてに苛立ってぷりぷりしている蓮の背中を押して教室に入るよう促すと、二人は前後の自席へと着席した。
席に着くのとほぼ同時に宮藤が教室へと入り、授業始まりのチャイムが鳴り響いた。
…ぎりぎり間に合った。
宮藤の顔を見るなり蓮はほっと肩をなで下ろすと、黒板の前に立つ教師の姿を見つめた。
愛想の無い顔で淡々と話し始めた宮藤は、女子生徒からの喜々とした質問などを軽くあしらって応えている。
高身長にすらりと長い手足がスタイルの良さと彼の端正な顔を際立たせ、見る人を魅了する。
一重にも見える切れ長な目は無愛想な宮藤には少々目つきを悪く感じさせることもあるが、スッと通った鼻筋に形の整った薄い唇が全体のバランスの良さを表していた。
シャツを肘付近まで捲り上げ、そこから伸びる腕が黒板へと文字を滑らせる姿を見つめ、蓮はほんのりと頬を赤らめた。
あの大きな手が、堪らなく好きだった。
あの手に触れてもらえた事があるのだと思うと、胸がどきどきと鼓動を速める。
もう二度とそんな奇跡は起こらないのだろうという事に、蓮は気付いていた。
蒼井との賭けというものに乗ってはみたものの、宮藤が自分の事などなんとも思っていないことぐらい、納得済みだ。
気持ちなんて確かめなくても分かってる。
このどうしようもなく先生に焦がれる気持ちを、終わりにするきっかけにしたかっただけ。
先生を好きでいることを、やめなくちゃ……。