峰太の……。
元 耿子(はじめ きょうこ)
***
「波乗りに行ってくる」
「はーい、行ってらっしゃい。気を付けてね」
昼のカフェ営業を終え、ウェットスーツに着替えた峰太が勝手口から出て行った。むちむちの後ろ姿を見送り、言われている通りそこに鍵を掛ける。「正面と勝手口と、一気に人が入ってきたら危ないから掛けろ」と言われているのだ。確かにその通りだと思うので、いつもそうするようにしている。
危険がいつも近くにあるわけではない。
しかしいつ襲ってくるとも限らない。
峰太が言うとそんな気がしてくるので不思議だ。誰が来ても怖いとは思わないだろうが、峰太関係はよくわからないし、自分の関係は明らかにやばい奴ばかりなので用心するに越したことはないだろう。
さて、正面の看板を掛けかえるか。
『開いています』から『閉まっています』にするのが営業後のいつも。大体、最近は峰太がいなくなってから。
ドアの取っ手に手を掛けようとして、それは宙に浮いたままになった。
勝手に開いたのだ。外開きの扉が。
そして目の前に、白いシャツとライトグレーのスーツが見えた。ひょいと顔を上げる。
「今日の営業終わりなんです」
秋が言うと、おやそうなのかい、と首を傾げる相手。
「表の看板が『開いています』だったから……まだやっているのかと」
「今、閉めるところで。すみません」
「いやいや構わないよ。食事は済ませてきたし、中に入れてもらえれば」
爽やかに微笑むその人の髪が、さらさらと海風に揺れる。きれいな黒髪ストレート、腰のあたりまであるロングヘアだった。思わずその姿を見つめてしまう。颯爽と、というのはこのような感じの人につけるのだろうな、と思いながら。
「峰太くんが帰ってくるまで中にいてもいいだろうかね」
「あ、ほーたの知り合い……なんですね」
お客さんはほとんど覚えているが、数回しか来たことがないお客さんについては覚えていないこともある。知り合いだとも、と言いつつ、中に入る。秋が身体をずらしたからだ。
椅子のひとつに座り、窓から波に乗る姿を眺めているようだった。
お茶を出せば「ありがとう」と笑い、またそちらへ目をやる。
「あの、呼んできましょうか。もしかしたらしばらく帰らないかもしれないので」
「お気遣いは無用さ。あのように波に乗っている峰太くんに声をかけても無駄だからね」
特に僕が呼んでいるとなれば! と苦笑いのような表情を端正な顔に浮かべる。
「あの、ほーたとはどういう……」
「そういえばまだ名乗っていなかったね!」
尋ねる声に被さってきた声量のあるそれ。舞台にでも立っているのかと思うほどはっきりくっきりとした、良く響く声だ。鞄からさっと差し出された名刺入れ、そこから出てきた名刺。
「……はじめ きょうこ さん」
元耿子という文字の隣にきちんとふりがながあって助かった。そうでなければ最後の文字しか読むことができなかっただろう。
「ああ。耿子とでも呼んでくれ。さんもちゃんもくんもいらないよ」
「きょーこ」
「それでいい。君は? お名前」
「秋です。春夏秋冬の、秋」
「しゅう。秋くんか」
「はい」
ところでどういうご関係で、再度尋ねようとして、がたりとその人が席を立つ。秋より大きく峰太より小さい、峰太よりずっと細身で秋と同じくらいの体型だ。しかしなんとも威圧感があるのは、目が大きいからかその目が発する視線が強いからか。黒っぽい目をしており、黒曜石のようなそれにどことなく見覚えがあるのはなぜなのだろう。
「秋くんは峰太くんとどういう関係なんだい? なんだかとっても親しそうな気配がする」
「あ、ええと、そうですね?」
「不躾ながら聞くけれど、お二人はお付き合いでもしているのかな!」
「そう、だと思います」
「それはめでたいね! 実におめでとうだ」
にこにこと嬉しそうに笑う耿子に、秋はおおお眩しい、と目を覆った。にかーっと笑われると太陽のようで実に眩しい。日陰で生きてきた人間には強すぎる。これが陽のキャラクタというやつか。眩しいぞ。と秋はそそくさ、離れる。
「もう少し親睦を深めようではないかー」
なあ秋くん。と言われても、耿子が何者であるかわからない以上、あまりべらべら話すのもどうなのだろうか、ということに気付いてしまった。悪意があるようには見えないが、それを隠すのがうまい人間がいることも知っている。
「きょーこ、が、誰かわからないので……」
「先程、名刺を渡しただろう」
「きょーこしか書いてないじゃん」
え、そうだったかい? と意外そうな顔をして、名刺入れを自分で確認する。そして「おやっ!」と声を上げた。
「おやおや、君に差し上げた名刺はどうやら何も書いていないものだったようだ。いやーこれは失礼したね。きちんとしたものをあげよう。だからそう怖がらずにこちらへ」
怖がってはないけれど、少し気圧されただけだけれど、と思いつつ近付き、再び差し出された名刺を見る。
「……だいがっこう、きょうじゅ」
「そうさ。僕は大学校で教鞭をとっている、教職の端くれにいる人間だ」
どうだい、怪しくないだろう! と言われても、疑いだせばきりがない。大体、白紙の名刺を持っている理由もわからないし。今は耿子という名前だけが正しいような気がしてならないのだが。
「秋くんにはぜひ聞きたいねえ。峰太くんのどこがいいのか、どうやってお付き合いするに至ったのか」
目を輝かせて見下ろしてくる耿子からは、やはり悪意を感じない。でも、しかし。うんうん考えているとそのうち、どんどんと勝手口を叩く音がした。峰太が帰ってきたのである。
救世主! と、びゅんと勝手口に走っていき、ドアを開ける。
「ほーた、なんか太陽が来てて」
「太陽?」
「ぎらぎらした目で見下ろされて怖いよおお」
やっぱり怖かったよお、と暴露した秋の頭を撫でる。ふたりきりの時間は短くとも過酷だった。
「なんだそれ……」
笑いながら入ってきた峰太の視線がふ、と耿子で止まった。
「……なるほど、確かにぎらぎらした太陽みたいだ」
言うとおりだな、と秋の頭を撫でる濡れた厚い手。
「やあ峰太くん、しばらく待ったよ!」
「どうも、耿子さん。お待たせした」
「ほーた、知り合い?」
「なんだ、耿子さんと話していたんじゃないのか」
「あんまり」
着替えてくるから少し待ってくれ、と二人に言い置いてシャワーブースへ向かう。
「ほら、怪しいものではなかっただろう」
「怪しんではないけど」
「では怖がっていたね?」
「う、ちょっと」
愛らしいねえ、と笑う耿子にはやっぱり気圧されてしまう。全身から放出されている明るさとでも言うか、なんとも馴染まないものがあるような気がしてしまう。
「正直で実に良いよ。さあ秋くんここに座り給え。峰太くんが来るまでお話しようじゃないか」
「お話しするようなこともないですけどぉ」
「では秋くんのお話でもしようか」
「それよりきょーこのお話してよ……俺、きょーこが誰だかわからなくてちょっとビビってるんだから」
ふむふむ、と椅子に座り足を組んで言う。
「僕はこの近くの生まれでね」
「あ、そこから?」
とんでもない場所から話し出すんだな、と思いつつ向かいの椅子に座る。
「父と母は自由な人で、僕も姉も弟も放任主義で育った。おかげさまで好きなように生きられたんだけれどもね。いわゆるお金があるほうの家だったから、苦労という苦労はしたことがない」
「おお、はっきり言う……苦労、なかったの?」
「ないねえ。幸いにも、ここに至るまで自分が満足できるような楽しいことばかりだ」
「それはすごい」
自信を持ってそう言い切れるのは正直にすごいと思った。
自分の選択には後悔ばかりだ。峰太と出会って、ずっとそれを意識するようになった。一から十まで、やり直してもきっと同じような轍を踏むに違いないのでやり直したいとは思わないが、今の自分で戻ったらどういう選択をするだろうかと思うことがたまにある。
たられば、の話は好きではないので、どんな選択をするか、それ以上に考えたことはない。
だから、まるで後悔したことのないような耿子がきらきらと眩しい。先程とは違う意味でますますそう見えた。だから自分と合わないのかもしれないな、と感じた。後悔ばかりの自分と、後悔のない耿子。歩んだ道がまるで違うようだ。
「で? 峰太くんは優しいかい」
「優しい……でろでろのどろどろに……」
「それはそれは。何よりだ」
ふふふと笑う耿子は嬉しそうで、実に楽しそう。
「……もしかして、きょーこって」
秋の頭にふと浮かんだ疑問。それを口にしようとしたとき、待たせたな、と峰太が帰ってきた。
「俺、席外したほうがいい?」
峰太を見上げながら、耿子と見比べつつ尋ねる。しかし峰太は笑って、緩く首を横に振った。
「いや。構わないだろう、耿子さん」
「ああ。秋くんに聞かれて困るようなお話は何もないからね!」
それに今日はただのご機嫌伺いだし、と耿子が付け加え、峰太に座るように促した。秋の隣へ座る。そして腕を、秋の座る椅子の背もたれへ置いた。近くに太い腕があると安心する。
耿子が、身を乗り出して大きな目から放出される視線を峰太へ向ける。
「さて峰太くん、元気にやっていたかい」
「見ての通りだ。おかげさまで健康に、毎日楽しくやってる。そっちも同じみたいだが」
「同じさ。毎日楽しく、健やかにしているよ。譲一朗は? 元気かい」
「週に二回から三回は連絡をくれるな。あと相変わらず、中元とお歳暮が届く。誰に似たんだか」
「僕でないことは確かだね」
「俺だってそんなまめじゃねえよ」
やっぱり、とようやく秋にもぴんときた。
「きょーこって、ほーたの」
ぎん、とした目が秋を見る。ここまできらきらしていないけれど、よく見れば有澤家長男の貴博と末っ子の一省にそっくりな目だ。有澤家と言うべきなのか元家と言うべきなのか、秋にはわからないけれど。
「そうだね。かつては戸籍を共にした仲だよ。ねえ峰太くん」
「そうだが……耿子さん、説明しなかったのか」
「聞かれなかったのでな。すまないすまない」
聞く合間を逃してしまった、というかそもそもそんな合間がなかった。
ほああ、この人がほーたの、と思いつつ、ついつい見てしまう。切りそろえられた前髪の下に大きな強い目、白い肌に朱い唇。美人、というのか美形、というのか、美女、と言うのか秋にはやっぱりよくわからない。きれいであることだけはわかる。
「身長が大きいのは遺伝だったのか……」
そびえるような有澤家(元家)の面々を想像して、両親がこの身長ならばなるほど納得。とひとりでうんうん頷く。長身で大柄な峰太に似たのが譲一朗と和一で、長身で細身な耿子に似たのが貴博と一省のようだ。そう言われてみると、一省の性格は耿子に似ているような気がする。明るく、朗らか。
「この人が耿子さん。俺の元妻で、俺に人間らしさを教えてくれた人だ」
改めて、といった様子で峰太が秋に紹介してくれる。その言葉は以前にも聞いた。耿子は「はは!」と笑いながら手をひらりと振る。
「やめてくれ。峰太くんは出会ったときからできた人だったよ」
「できた人っつうのは家庭を顧みるもんだろ」
「そこはまあ、そうかもしれないな」
「挙句に浮気・不倫疑惑を掛けられてもう、何を言えることもなかったし」
「え、ほーた浮気したの?」
「してねえよ。いろいろあったんだ」
「誤解は解けても、家族としてはもうやっていくことはできないと思ったからね。僕から別れよう、と言ったんだ」
あっけらかんとした耿子の様子、そうだなあ、と苦い顔をする峰太。どちらが悪かったか、と言われるときっと峰太なのだろう。何遍も聞いた「何もしてこなかった」という言葉。それは事実なようだ。
「突然来るなんて、何かあったかと思ったぞ」
「いや? 特に何もないんだけどね。近くまで来たから顔を見ていこうと」
「なら連絡くらい……いや、言っても無駄か」
「わかるだろう」
「わかる」
本当になんともない話をしていた。耿子の仕事がどうとか、カフェの経営がどうとか。まるで野樹と波の話をしているときと変わらない峰太の様子、耿子の明るい様子。どろどろの泥沼離婚、だったようには見えないが、当時はどうだったのだろう。さすがに少し気になってしまう。
「きょーこは、ほーたが嫌いになったの?」
峰太がお茶を淹れる、と席を立ったとき、ひっそりと聞いてみた。すると耿子は笑って「いや」と言う。
「嫌いになりたくなかったから、別れたんだよ」
「お、おとなだ……」
「大人なんじゃないよ。子どもみたいなものさ。なので今、峰太くんが幸せそうで心から安堵している。峰太くんをよろしく頼むね」
「それはこちらこそ、なんだけど」
俺のほうが迷惑かけまくりだから、と言うと、耿子はそれはいい! と言った。
「峰太くんは面倒を見るのが大好きだからね」
「でも子どもの面倒は見なかった?」
「家にいるときは見てくれたさ。言うほどダメ親父だったわけではないんだよ」
「凄く後悔してるような感じだよ」
「峰太くんは完璧主義的なところがあるんだよねえ……そこが唯一の欠点だね。完全に愛しきったと満足しなければ、彼の中で取りこぼしになってしまう。愛情深すぎるが故の気持ち、かもしれない」
愛情深すぎる、なるほど確かにと納得してしまう。でろでろに甘やかして愛するのが峰太で、それに相手が浸りきって溺れるほどにならないと満足しないほどの底なしの愛情を持っていることも知っているからだ。
「だから大いに迷惑をかけてやるといいよ!」
「そういうわけには……いや、そうなりたくないなあ」
「良いのさ良いのさ」
「お茶」
峰太が戻ってきた。同時に見上げると「なんだよ」と言う。
「迷惑をかけます」
秋が言うと、峰太は首を傾げながら「おう」と言った。
「では僕は失敬するよ。諸君、息災で」
「またね、きょーこ」
「ああ。近くに来た際は秋くんの顔を見に寄らせてもらおうかな」
では! と来たときと同じくらい颯爽と出て行った耿子を見送り、峰太が秋を見下ろす。
「顔が見たくなるくらい、親しくなったのか」
「そこはまあ、同じ男を愛した者同士、ということで……?」
「なんだそれ」
くしゃくしゃと頭を撫でられた。
「じゃあ俺も同じ男を愛した奴でも探すかな」
「あ、それは探さないほうが。どうしようもないのばっかりだから」
「ばっかり、ねえ」
「うっ、失言?」
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