46 書類の人(完)
後ろに座っていた談にも、二人が何を話しているかは聞こえてこなかった。おそらく二人の間で交わされたのは蓮の話なのだろうと思う。ナツはどうしても蓮の戸籍に入っていなかった理由を知りたがっているから、その手掛かりを生物学上の父親にも求めたのだろう。
車に乗ってからもナツは窓の外を眺めている。
「鬼島社長に渡された封筒、開けてみました?」
「あ、まだでした……」
ごそごそと鞄の中から白い長封筒を取り出す。中身は少し古びた紙で、ナツは不思議に思いながら開いて――溢れる涙を止めることはできなかった。それを視界の片隅で捉えた談は黙って行き先を変える。鬼島邸へ向かうはずだった道を逸れ、弁天町のほうへ。そこの大通りを通り、山の方面へ向かった。
蓮の墓がある方向だ。
墓園の麓の駐車場へ車を停め、静かに泣いているナツが泣き止むのを、やはり静かに待つ。声を掛ける必要はないように感じた。ナツの心の中には今、色々な想いがあるのに違いない。邪魔をするだけだ。
談は蓮に会ったことがない。ただ、誰からも愛される人だったことはよくわかっている。ナツによく似て明るい、笑顔の眩しい人だったに違いない。誰にでも薬になるような人。
けれど一方で、上弦のように本気で好きになった人にとっては毒だっただろう。蓮は誰に対しても平等で、どんなに好きだと思い焦がれている人にもきっと平等に接しただろうからだ。談はそんな相手に恋したら気が狂うな、と思った。現に、上弦は未だに囚われているのだから。
ナツに恋しても同じだろう。蓮が夏輔しか見ていなかったように、ナツは鬼島しか見ていないのだから。それにしても恋愛の相手があの鬼島優志朗だというのも難儀な話である。結婚したが最後、きっと地獄までも道連れにされる。
いや、ナツはそれでも嬉しいかもしれない。
もしそうなるようならば是非自分も連れて行ってほしいところだと、青々した山を眺めながら談の口元には笑みが浮かぶ。
鬼島とナツがいれば地獄もきっと愉快になる。
「すびばせんでした……」
ずず、と鼻をすすり、ナツが呟いた。
「いいえ。大丈夫です?」
「大丈夫れす……」
談が手渡したティッシュで顔を拭いたり鼻を拭いたり。
「最近、泣きすぎですね」
「いいじゃないですか、涙が出るのはいいことですよ」
人間らしいし。そういえば鬼島優志朗が泣いたところを見たことがないな、と談は思った。あれでも生まれてきたときは泣いていたんだろうか。いや、無表情で生まれてきたと言われたほうがそれっぽい。
ふっ、と笑ってしまってナツに怪訝な顔をされた。なんでもないです、と答えて、ナツの赤くなった鼻の頭を突く。
「よく泣くナツさんが好きです」
にっこりすればぼぼぼと真っ赤になる。いつまで経っても素直で穏やかでいい子だ。そのままでいてくれてもいいし、鬼島に甘やかされることを知って大いにわがままになってもそれはそれできっと可愛く思うのだろう。
ナツも鬼島に負けず劣らず中毒性を持った不思議な子だ。普通だなんてとんでもない。
「さて、ちょっとおとーさんのところに行ってきます」
「ひとりで行かれます? オレ、ここで待ってましょうか」
「もしよかったら一緒に」
ナツに言われ、背中についていった。墓がある場所は知っていたけれど実際に訪れたのは初めてだ。小高い場所、太い木の下にある小さな半円形の墓石はいきいきしたきれいな花に囲まれていた。その前の地面に金属製のプレートがあり、しゃがんだナツはそれに降った少しの木の葉を素手で払う。そこには『納谷蓮』と名前と生年月日、没年月日が刻まれていた。
談は少し離れて、蓮に語り掛けるナツを見ていた。
「おとーさん、今日は秋輔さんに会ってきたよ。おとーさんの話とか、今まで何してたかって話とか聞いてきた。やっぱりおれのおとーさんはおとーさんだけだから、秋輔さんは秋輔さん。もし秋輔さんがいなかったらおれ、おとーさんに出会えなかったんだなって思うと不思議な気持ち」
それでね、と一回言葉を切る。
「それで……もう多分鬼島さんが来て言ったんだと思うけど、鬼島さんと結婚しようかってお話になってね、するんだけど、おとーさんがなんでおれのこと子どもにしてくれなかったんだろうって、思って。もしかしたら秋輔さんも何か知ってるんじゃないかなと思って会いに行ったんだけど、答えは鬼島さんが持ってた」
ずるいよね、と笑う。
「鬼島さん、知ってたのに言わなかったんだよ。ひどいでしょ。いじわるでしょ」
ナツは再び鞄からあの長封筒を取り出した。中の紙を広げる。それが何だったのか、談の位置からも見えた。
「おとーさん、待っててくれたんだね。おれが大人になるまで」
『養子縁組届』という文字の下、日付欄に手書きされた日付はナツが二十歳になる年月日。計算してそこに書き込んだのだろう。既に蓮の名前や住所は書かれており、必要事項は全て記入が済んでいた。他の書類も全て揃っている。
「おれが大人になるまでにおとーさん嫌いになったり出て行ったりしたときのために、自由にさせてくれようとした、のかなって思ってるよ。おとーさんの性格だからそうやって考えそうだもん。おれ、てっきりおとーさんが、おれのこと好きじゃなかったのかな、って一瞬考えちゃった。みんな否定するしありえないって言うからちょっとだけだけどね」
ナツの言葉尻が震える。また泣いちゃいます、とナツの小さな声がしたので、談は「泣いたらいいんじゃないですか」と優しく言った。ず、と鼻をすする音。
「おとーさんが生きてて、この書類どっかで見つけたりおとーさんが出して見せてくれたらおれ、今でも二十歳になっても過ぎてからでも毎回おんなじこと言うよ。小さいときからずっと、返事は同じ」
同じだよ、とナツが言う。
「おれを、おとーさんの……納谷蓮の本当の子どもにしてください、って、言う」
今はもういないけど、気持ちは変わらないからね。いつか、おとーさんの子どもにしてね。
泣いていたけれど、ナツの言葉ははっきりしていた。ほんの少し震えていたけれど誤差の範囲内だろう。談はしっかり聞きましたよ、と心の中でナツの背中に告げる。
もしかしたら蓮もどこかで聞いていて、感動の涙にむせび泣いているかもしれない。喜怒哀楽がはっきりした人だったようなので、感涙で溺れそうになっているかもしれない。可愛がって育てた子どもにこんなことを言われたら、泣かないはずがなかった。
「あとでこの書類に書いて……あの、ちょっと早いけど。鬼島さんに渡すね。おとーさんいないから正式には無理だけど、鬼島さんならなんとかしてくれそうだし」
確かに。鬼島が押せば大抵のことは通ってしまいそうだ。今回もきっと通すのだろう。何が何でも、可愛いナツのために。どうしても納谷夏輔として結婚したいと願うナツのために。
「ナツさんは素敵なお父さんがいらっしゃっていいですね」
「はい」
夕方の道を、鬼島邸に向かって進む。他にも、どこかに行ってきたのだろうか。行楽帰りのような車が隣や対向車線を過ぎていった。
「談さんのお父さんってどんな方ですか」
「そうですねえ……四角と言ったら四角、それ以外はきれいな三角でも台形でも認めない! って感じの人ですね」
「……なんだか厳しそうな」
「オレはこんな感じで、形がないみたいなふわふわした人間ですから。だから全く合わなくて家を出たんですよ。母親も似たようなもので」
「お姉さんは」
「……あの人たちはあの人たちで型破りなんですけど、親を黙らせる力がありましたから。オレはだめです。ぶつかるよりも逃げたほうが楽だと思うタイプなんで」
ふむ、なるほど。
赤信号で止まってから、頷くナツの目元を指先で撫でる。
「赤くなってしまいましたね。鬼島社長にオレが怒られるかも」
「大丈夫です。談さんはおれが守ります!」
ふんす! と意気込むナツを見ながら笑う。ずいぶんたくましくなったものだ。でも時には弱ってもいいし、気持ちが下がってもいい。それでこそ人間である。
「ナツさんはオレが一生お守りしますよ」
「じゃあおれは談さんを守ります! ……何からかは、あの、わかんない……あっ、鬼島さん!」
「それは心強いです」
しゅっしゅ! とねこのようにパンチを繰り出す姿はとても愛らしかった。
「おかえりナツくんー」
玄関で待ち構えていた鬼島に抱きしめられたナツ、ふしゃー! とその手をはねのける。
「どうしたの、急激な反抗期……?」
「鬼島さん、全部知ってたんじゃないですか」
「知ってたよ。だって聞かれなかったもの。ナツくん、鬼島さんに聞かなかったでしょ」
「……それは確かに。でも言ってくれてもよかったと思います! 能動的に! 主体的に!」
「うーん、でも秋輔さんに会うきっかけにもなったしいいんじゃない? あ、磯村っちに会った?」
「直来さんはお見掛けしましたけど、磯村さんのお顔を見ることはできなかったです」
「そう。残念ね、いけめんなのに」
「いけめん! それは惜しいことを……」
ナツさん、話がすっかりすり替わっています、とは談は言わなかった。そして怒られもしなかったので、特に談が口を挟むことはなかった。
「いじわるな鬼島さんは嫌い?」
「好きです! もうー!」
その日の晩。
「鬼島社長は秋輔さんとナツさんを会わせたかったんですか」
「ん? いやーどっちでもよかったよ。ただ、戸籍見ればナツくんが引っかかるだろうなとは思ったし、手掛かり探しするだろうなとは思ってた」
日本酒をちびちびやりながら二人は話していた。続きの間ではナツがすっかり夢の中。
「秋輔さんはああ見えて毒にならない人だから。ナツくんが会いに行っても何にも影響しないし、ナツくんも影響受けるような感じじゃないしね。だから本当にどっちでもよかったよ。でも結婚する前にどっかで蓮さんの養子縁組届は渡したかったから、ちょうどいいタイミングだと思って」
「そうなんですね」
「明日、いろいろ無理しなきゃいけないわねー。ナツくんのためなら喜んで! だけど」
戸籍すらも動かすか鬼島優志朗。怖いものだと思いつつ、空になった鬼島の猪口に新たな酒を注ぎながら「お疲れ様です」とただ笑う談。
「そうだ、地獄に行くならオレも連れて行ってくださいね」
「嫌よ。ナツくんと地獄でらぶらぶふたり暮らしするんだから」
「そんなこと言わずに。何かと便利でしょう?」
「まあ確かに……じゃあ特別に連れて行ってあげる」
「やった。ありがとうございます!」
ナツがどこを探しても戸籍謄本がない、と言うので再び取り寄せたところ、秋輔の欄にバツがついて新たに蓮の名前が入っていた。納谷夏輔になっていたことにナツは目を白黒させ、本当に何かしたんですね……と鬼島を見上げるも、すーっと目を逸らされ「何の話?」とはぐらかされていた。
「……嬉しいです。鬼島さん、ありがとうございます」
「何の話?」
「何の話でもないです」
「ところで、ナツくん証人どうする?」
「有澤さんにお願いしようと思ってます。鬼島さんは? 同じ人でもいいらしいですけど」
「うーん、送ってみたんだけどどうかなあ。一週間待って返送されてこなかったら新しい紙だなって思ってる」
「?」
誰に送ったんだろう、と思ったけれど、ナツがまだ見ぬ鬼島の友人かもしれないし、と深くは聞かないでおいた。
「……鬼島優志朗はぼくをからかってるのだろうか」
「そうなんじゃないですかね」
磯村のもとに届いた婚姻届、付箋で「ここにサインよろしく」と矢印が引っ張られているのは証人欄。無表情で破り捨てた磯村を見ながら「そりゃそうだろうな」と直来は考えていた。
「一週間待ったけれど来なかったので、北山さん、お願いします」
「俺でいいのか。離婚歴あるぞ」
「関係ないです。北山さんがいいです」
「そうか。なら謹んでお受けしよう」
さらさらと達筆な楷書体で必要事項を記入する北山。その隣で有澤が興味深そうに覗き込んでいる。その姿はまるで何か新しいものを発見した熊のようで、ナツと満和はほんわか。
「有澤さん、次お願いしますね」
「ううう、ナツさん、本当に俺でいいんですか」
「これからも助けてもらうと思うので、ぜひお願いしますっ!」
「では……なんか緊張するな……」
北山とは異なる、しかしこちらも素晴らしい筆跡で記入をしてくれた。
「おお、これを出せば婚姻成立なんですねえ」
「ナツが取られる」
ひし、とナツの腕を抱く満和の頭を、ナツが撫でる。
「おれは一生、満和の親友だよ」
「ぼくも一生、ナツの親友……」
じろりとにらまれた鬼島はどこ吹く風、さて出しにいこっか! とナツと共に市役所へ旅立っていった。
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